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フレデリック・スペンサーは、生来、優しい性格だった。
男らしさとは無縁で、幼少期はそれこそ女の子とあそぶ方が好きだったように思う。
両親は基本、放任主義だったので、しばらくは本を読んだり花を摘んだり、そんな牧歌的な日々を過ごしていた。
穏やかな日常。
それに終わりを告げたのは、姉の誕生日でのことだった。
可愛らしいドレスに身を包んだ姉を見て「僕も着てみたい」と言った瞬間に。
全ては終わった。
両親は、フレデリックの性格を軟弱さとして受け止めたのだ。
待望の嫡男として生を受けたフレデリックへの両親の期待は重く、常に完璧を求められた。
貴族として、跡継ぎとして、そして何より男性として。
あの発言以降は、それが特に重くのしかかるようになった。
両親の態度が厳しくなる一方で。
それ以上にフレデリックを悩ませたのは、上の姉二人だった。
彼女たちは苛烈だった。
フレデリックとは正反対の性格で、気が強く、とにかく意地が悪かった。
フレデリックを異様なものとして捉えた姉たちは、容赦しなかった。
元々、嫡男として両親の関心を一身に集めるフレデリックを良く思っていなかったのも手伝って、事あるごとにフレデリックに辛く当たったのだ。
惨めだった。地獄だった。
両親に相談したこともあった。
軟弱さの現れとして、さらに不興をかっただけだったけれど。
一定の年齢に達すると、信頼していた乳母や家庭教師とも引き離され、フレデリックの孤独はさらに深まった。
寄宿学校に入れられたのはそんな時だ。
家族と離れられたのは良かったが、学校での生活もあまり良いとは言えなかった。
上級生の下級生に対する暴力が横行していたのだ。
フレデリックは日々、息を潜めるように隠れて過ごした。
場所が変わっただけで、地獄は続いていたのである。
そこでジェイソンと出会った。
彼は人気者だった。
上級生や教師にも可愛がられていた。
自分とは正反対の人種だと思った。
卒業まで、お互いに関わることはないだろうと。
そんなジェイソンに初めて声をかけられたのは、夏の休暇を前に浮き立つ生徒で賑わう談話室でのことだった。
「家に帰りたくないんだろう」
最初、フレデリックは話しかけられていることに気付かなかった。
目が合って初めて、自分に向けられたことばなんだと理解して、戸惑う。
今のフレデリックの気持ちを的確に言い当てていたからだ。
フレデリックが何も言えずにいると、ジェイソンは苦笑した。
「ごめん。急に変なことを言って。憂鬱そうだったから、君も帰省したくないんじゃないかと思ったんだ」
意外だった。
"君も"と言ったことでわかってしまった。
ジェイソンもまた家に帰りたくないと思っていることを。
それを知ってからは、ジェイソンとよく話すようになった。
彼も人に言えない問題を抱えているとわかり、居場所がない者同士、親しくなるのは早かった。
いつも一緒にいた。
ベッドを抜け出し、夜遅くまでたわいもない話をした。
恋人関係になるのは自然な流れだったように思う。
フレデリックは、別に男性が好きなわけではなかった。
ジェイソンだから好きになったのだ。
どこか浮世離れしていて、楽天的で、でも繊細で。
多様な表情を見せるジェイソンから目が離せなかった。
ジェイソンの性癖も、フレデリックにはそこまで気にならなかった。
愛されているとわかっているからこそ、受け入れられた。
幸せだった。
否定されることに慣れきった自分を、肯定して受け入れてくれる、その安心感。
全てジェイソンのおかげだった。
彼がいたからこそ、惨めな人生の中で、唯一満ち足りた日々を過ごすことができたのだから。
その幸せは卒業してからも続いた。
男性ばかりだった学校という狭い社会とは違い、卒業後はこの関係を続けるために細心の注意を要した。
貴族という以前の問題として、一般的に、この愛を知られてはいけないことくらい、フレデリックにもわかっていた。
だからこそ、社交の場やお互いの領地で、こっそりと逢瀬を楽しんだ。
それだけで良かった。
許されない関係とわかっていても、会えるだけで嬉しかった。
ジェイソンには他にも相手がいたようだが、自分が一番愛されているという自信が、フレデリックにその幸せを壊させなかった。
もちろん、ジェイソンがリリーと結婚してからも、その関係は続いた。
結婚すると聞いた時、フレデリックは初めこそ不満に思っていたが、リリーを紹介されてすぐに察した。
ジェイソンはフレデリックとの関係を続けるために、大人しくて御し易そうなリリーを選んだのだと。
その証拠に、ジェイソンは常にフレデリックを優先した。
満足だった、全てが。
愛する人がいて、愛される自分がいることに。
何の不満も感じなかった。
予想外だったのは、リリーがとても善良な人間だったことだ。
フレデリックにとって女性は皆、姉たちのように苛烈で意地悪な存在だと思っていた。
しかし、リリーは違った。
常に優しく、親切だった。
こんな女性もいるのだと初めて知った。
フレデリックが面と向かって女性と話せるようになったのも、実はリリーの影響が強かった。
リリーほど善良でなくとも、きちんと話してみれば大概の女性は悪い人ではないとわかった。
それもリリーが教えてくれたことだった。
元々、フレデリックの見た目が女性好きするのも手伝って、今では特に、歳上の貴族女性から人気を集めるほどの社交性を身に付けていた。
おそらく姉たちが特殊だったのだろうと今ならわかる。
全てリリーがいてくれたからこそ、気付けたことだ。
そんな心優しきリリーと、友人関係になるのは、フレデリックにとって自然なことだった。
フレデリックは、リリーのことが本当に好きだった。
姉のような、母のような、甘えられる存在。
いや、半ばそれ以上の神聖な何かをリリーに感じていたのかもしれない。
フレデリックにとってリリーは、間違いなく特別な存在になっていた。
だからこそ、罪悪感は募るばかりだった。
ジェイソンを愛する自分と、リリーを敬愛する自分が、常に反目し合っていた。
ジェイソンは何も言わなかった。
そもそも、特に思うところはなかったのかもしれない。
が、確かめる勇気はなかった。
もし、リリーを選ぶと言われたら、その瞬間フレデリックの幸せは瓦解してしまうから。
だから、どっち付かずの現状に満足するしかなかった。
その時のフレデリックにとっては、それが一番の幸せでもあった。
そんな中、彼の幸せに終止符を打つことになる出来事があった。
ある晴れた日のこと。
リリーに、妊娠したことをこっそり打ち明けられたのだ。
まだジェイソンにも話していないというその秘密は、フレデリックにとって衝撃だった。
リリーはジェイソンの子どもを産むことができる。
ジェイソンと家族になることができるのだ。
全てフレデリックには出来ないことだった。
悔しさと悲しみがない混ぜになったような、筆舌に尽くしがたい感覚に陥る。
それは嫉妬だった。
男性の自分が、女性であるリリーに持つ激しい劣等感だった。
でも、そこで気付いたのだ。
リリーの幸せそうな表情を見て。
ジェイソンとの関係を終わらせる時が来たことを。
生まれてくる子どもやリリーの幸せを考えれば、当然だった。
ジェイソンは上手く隠し通すつもりでいるのかもしれないが、フレデリックにはできない。
悲惨な幼少期を過ごしてきたフレデリックにとっては特に。
子どもには無条件の愛が必要だったから。
別れようと思った。
奇しくも、妊娠に詳しい医師の診察を受けるためにリリーが屋敷を離れるという。
ジェイソンに別れを告げるなら今しかないと思った。
二人きりで会って話がしたいと、ジェイソンに約束を取り付けた。
それが、あの日だった。
忘れもしない八月の、あの夜。
約束通り、ジェイソンは一人で待っていてくれた。
屋敷には誰もおらず、静まり返っていた。
いつものように書斎で落ち合う。
そこで、フレデリックはただ別れたいとだけ切り出した。
胸が張り裂けそうだった。
この悲しみを終わらせられるならば、死んでしまいたいと思うほど。
半身を失ったような虚無感が、フレデリックを覆う。
侵食するような、静かな絶望だ。
対照的に、ジェイソンは猛烈な怒りに襲われていた。
いつも陽気な彼とは別人のように。
怒りを露わにしていた。
それほど、フレデリックとの関係を終わらせたくないと思っているのか。
それとも、ただ単に振られたことに腹を立てているのか、フレデリックにはもうわからなかった。
最初こそ冷静でいようと思っていたが、フレデリックもつられて自然、声を荒げるようになる。
気付けば、激しい口喧嘩になっていた。
それはジェイソンと出会ってから初めてのことだった。
お互い散々、言い合って。
とうとう「別れたら死ぬ」とまで言い出したジェイソンに、フレデリックは言った。
「リリーが可哀想だ」と。
それに対してジェイソンは嘲るように言い返した。
「何を今さら、馬鹿なことを。君だって共犯者だろう」
その言い方にカチンときたフレデリックは、反射的に叫んだ。
「リリーは妊娠しているんだ!君は父親になるんだよ!」
言った瞬間、しまったと思ったが、口から出てしまったことばを戻すことはできない。
フレデリックは内心の動揺を隠すように、背を向けた。
「だから……だからこそ、この関係は終わらせるべきなんだ」
そう言うのが精一杯だった。
対して、ジェイソンからの応えはない。
少し振り返ると、ジェイソンはどこかぼんやりとした表情で、本棚の辺りを見つめていた。
こんな時ですら、他人事のように振る舞うのかと腹が立って、フレデリックは足音荒くその場を立ち去った。
別れ話は、上手くいかなかった。
その悔しさと、別れの悲しみと共に、フレデリックは酒場に向かった。
強い酒を浴びるように飲む。
でも、全然酔えなかった。
次第に後悔ばかりが募ってきたのは、飲み始めてからすぐのことだ。
ーーあんな別れ方をするべきではなかった。
愛した人だ。今でも愛している人だ。
関係を終わらせるにしても、こんな形では嫌だと思った。
フレデリックは思い切って屋敷に戻った。
もう一度、話し合うつもりだった。
お互いのために。
これからのために。
そして、それは永遠に叶わなくなった。
屋敷の玄関に足を踏み入れた瞬間、異様な雰囲気を感じ取ったのは、もしかすると第六感というやつだったのかもしれない。
先ほどまでジェイソンと一緒にいた書斎まで、真っ直ぐに歩く。
書斎のドアは開いていて、中から灯りが漏れていた。
室内を覗く。
と、なぜかリリーが居て、フレデリックは驚いた。
恐怖で震えているリリーに、嫌な予感が過ぎる。
声をかけようとして、フレデリックは見てしまった。
血溜まりの中、横たわるジェイソンを。
数時間前まで元気だった彼の変わり果てた姿を。
身体は勝手に動いていた。
急いで駆け寄り、すがり付く。
ジェイソンからの反応はなかった。
いつもならば、真っ先に抱きしめ返してくれるのに。
それ以降のことは、狼狽しきってよく覚えていない。
泣き叫んだような気もするし、茫然自失状態になっていたようにも思う。
とにかく後悔したことだけは、鮮明に覚えていた。
自分のせいだと思った。
別れを切り出したから、ジェイソンは自殺したのだろうと。
もともと自傷癖があることは知っていたのに「別れたら死ぬ」ということばを真に受けなかった。
そのせいで、フレデリックは愛する人を失ったのだ。
到底、一人では抱えきれない罪だ。
その罪悪感に耐え切れず、フレデリックはリリーに洗いざらい話した。
リリーはそんな時でさえ、優しかった。
ーーそうだ、リリーは決して僕を責めなかった。
愛する夫を奪った裏切り者の自分を。
罵倒されて当然のことをしたにも関わらず、慰めてくれた。
辛い時はいつだって傍に居て、話を聞いてくれた。
この七年間ずっと変わらない慈しみを与えてくれたのは、他ならないリリーだった。
「リリーはあなたにとって常に良い友人ではありませんでしたか?」
サイラスにそう言われて初めて気が付いた。
リリーはいつだって良き理解者で居てくれた。
フレデリックに対して誠実であり続けてくれたというのに。
ーー僕は何も返せていない。
フレデリックにとって、リリーはどこか聖女のような存在だった。
理想の女性で、理想の母親で、理想の友人。
それがリリーだった。
わかっていなかったのだ。
リリーだって、一人の人間で、悲しんだり怒ったりすることを。
リリーならきっと受け止めてくれる。
リリーなら甘えさせてくれる。
リリーなら、リリーなら。
それが、彼女の親切を当たり前のように享受してきた理由だった。
彼女が今までどんな思いでいたかなんて考えもせずに。
それでも、リリーはフレデリックの期待に応えようと努力してくれた。
フレデリックの力になろうとしてくれていたというのに。
他ならないフレデリック自身が、それを忘れ、疑い、傷付けたのだ。
リリーの友人として、彼女の優しさを享受する資格はない。
あれからずっと、変わらなければならないというサイラスのことばが頭から離れなかった。
ジェイソンのことを忘れたくない。
過去として乗り越えたくないという気持ちは今もなお強くある。
ーーでも、そうしないと今度はリリーを失ってしまうんだ。
フレデリックは胸元に手をやった。
ジェイソンがくれた指輪がそこにある。
肌身離さず持ち歩いていたそれを触ったのは、無意識の行動だった。
ふと、思う。
リリーはあの詩集を今もなお読んでいるのだろうか、と。
ジェイソンから貰った古い詩集を、リリーが後生大事に持っていることは知っていた。
が、もう読んではいないのではないかと、フレデリックは直感的に思った。
リリーは前に進み出した。
過去と向き合い、変わろうとしている。
足を引っ張っているのは自分だけで。
それを悟った瞬間、フレデリックは無性に情けなくなった。




