65
ウォリンジャー家の町屋敷で、リリーは弟のピーターと久しぶりに再会した。
ピーターは先週末にようやく領地からこの遠い都市部まで辿り着き、今はタウンハウスに滞在している。
到着時、出迎えることが出来なかったことを詫びると、ピーターは「気にしないで」と首を振って、リリーの手を取った。
「ハンクに聞いたよ。大変だったね。モリーは大丈夫なの?」
モリーとも親しかったピーターは、先日の仮面舞踏会での出来事を聞き、大層心を痛めている様子だった。
それは、もちろんリリーも同様で、心痛な面持ちで「何とか助かったわ」と囁くように言った。
「打ち所が悪かったら、どうなっていたかわからなかったらしいけれど……お医者様が近くにいて本当に良かったわ」
冷たくなったモリーの身体を今でも覚えている。
二度と会えなくなってしまうのではないかという恐怖と戦ったあの夜を思い出し、リリーの身体は自然と震えた。
ピーターはそれに気付いたのか、そっとリリーの肩を撫でてくれた。
「辛かったね」と言って。
「誰の仕業かわからないけれど、本当に許せないよ。犯人はまだ捕まっていないの?」
リリーは苦し気に胸を押さえながら頷いた。
未だ、モリーを襲った犯人が野放し状態であることが怖かった。
「早く捕まるといいね。モリーのためにも」
「ええ、本当に」
「そういえば、姉さんは見舞いに行ったんだろう?モリーの様子はどうだった?元気そうなら、僕も会いに行きたいんだけれど」
「それが……」
歯切れ悪い様子のリリーに、ピーターは表情が曇った。
「もしかして、そんなに酷い状態なの?」
「いいえ、違うの。もちろん大変な怪我だったけれど今は安定しているわ。だから、安心してちょうだい。ただ……」
「ただ?」
「会ってくれないのよ」
リリーは悲しそうに俯いた。
最初は体調が優れないのだと思っていた。
だから、見舞いを断られるのだ、と。
たが、どうやらモリーはリリーと会いたくないらしいのだ。
らしいというのは、モリーの母親にやんわりとだが「あなたは来ないで欲しい」と言われたからだった。
「きっと何か理由があるんだよ。モリーはまだ襲われたショックで、人と会える状態じゃないんじゃないかな」
そうかもしれない、とリリーは思った。
あんなことがあったばかりなのだから、モリーはまだ恐怖で震えていて、人と会うことに抵抗を感じている可能性は十二分にあった。
しかし、何となくだが、それだけでないような気もした。
昔から、お互いを知り尽くした二人である。
直感的に、モリーは別の理由があってリリーを避けているのではないかと思ったのだ。
「とにかく、落ち着くまで待つしかないよ」
「……そうね」
リリーは素直に頷いた。
気にし過ぎているだけかもしれないし、今はただモリーが一日でも早く元気になってくれればそれでいい。
その方が、ずっと重要だ。
そっと瞳を閉じて、モリーの快復を心の中で祈る。
ピーターもリリーに寄り添うように目蓋を閉じたので、きっと同じように祈ってくれているのだろう。
しばらく、二人でモリーに想いを馳せる。
その静寂を破ったのは、リリーでもピーターでもなかった。
「失礼してよろしいでしょうか」
バリトンの落ち着いた声音に、リリーは顔を上げた。
ピーターが「どうぞ」と返事をすると、その声の主は丁寧な仕草で室内に入ってきた。
タウンハウス管理人のハンクである。
髪に白いものが目立ち始めて久しい彼だが、背筋がピンと伸びていて、今なお矍鑠としている。
リリーは元気な様子のハンクに微笑んだ。
「久しぶりね、ハンク。会えて嬉しいわ」
「わたくしもです。奥様がお元気そうで、本当に嬉しく思います」
ハンクと会うのも久しぶりだった。
サイラスが帰って来てからは、一度もタウンハウスには来ていなかったし、今朝、訪ねた時もピーターが連れて来た領地の屋敷の使用人が対応してくれハンクとは会っていないからだ。
未だにリリーを奥様と呼ぶハンクの相変わらずな様子に、何だか笑みが溢れる。
「そういえば、後からサイラスも来るから、よろしくお願いね」
「……はい」
今の間は何だろうと思う間に、ハンクはピーターに連絡事項を簡潔に伝えて、退出してしまった。
首を傾げつつ、ピーターに向き直ると。
「……伯爵も来るんだね」
嫌そうに視線を逸らして呟くピーターに、リリーは目を瞬かせた。
彼がこんな態度を取るのは珍しい。
しかも、伯爵とはやけに他人行儀な言い方だった。
「サイラスは用事を片付けてから来ると言っていたわ。何かの取り引き話をまとめるとかで、忙しいみたい」
「へぇ……伯爵は相変わらず、姉さんを放っておいても構わないと思っているんだね」
言い方にトゲがあるなと、リリーは思った。
今まで二人にはあまり接点がなかったから、そのせいだろうか。
そう考えながらも、リリーは尋ねずにはいられなかった。
「何だか、あなたらしくないわ。ピーター、どうかしたの?」
「……姉さんは、伯爵とやり直すの?」
リリーの問いには答えず、ピーターは苦虫を噛み潰したような表情でそう言った。
どういうつもりで、それを問うているのだろうかとリリーは戸惑った。
が、戸惑いつつも、正直な気持ちを吐露するしかないとも思い、リリーは正直に「わからないわ」と首を振った。
「サイラスが帰ってきて困惑したのは確かよ。彼には嫌われていると思っていたから。でも、彼ね、謝ってくれたのよ。今までのことを、これからの自分で償うって」
「もしかして。そんなことばだけで許しちゃったの?駄目だよ。本当に人がいいんだから」
「わたしは別に人がいいわけじゃないわ」
リリーは苦笑しながら言った。
確かに、辛い思いをしたこともあった。
が、それをいつまでも引きずるほど、リリーはサイラスを知らない。
もし、これがジェイソンであれば、また違っただろう。
ずっとジェイソンの死を引きずっていたのは、とどのつまり、彼を愛していたからだ。
許せなかったし、許したくないと思った。
ずっと心を縛られていたかった。
ーーでも、サイラスの場合はまた違うような気がするのよね。
サイラスとの結婚生活は、決して幸せなものではなかったけれど、悲しいだけでもなかったような気がするのだ。
憎しみや諦観でもない。
確かに、五年前はそうだったのかもしれない。
しかし、サイラスが帰って来てからは、それだけではないようにも思う。
では、サイラスのことが好きなのか。
そう問われたら、それはそれで困ってしまう。
今ようやく、自分の気持ちに向き合おうとしている段階のリリーである。
ピーターにサイラスを許してはいけないと言われても、正直それほど心揺さぶる何かをサイラスに抱いているのかどうか、判断できなかった。
だからこそ、リリーは「許す許さないの問題じゃないのよ」と言った。
それが、精一杯だった。
「世の中には、本当に不当に扱われている女性が沢山いるんだから」
ただね、とリリーは続けた。
「わたしも、ことばだけで心からサイラスを受け入れた訳じゃないのよ。最初、やり直そうと言われて頷いたけれど、それは義務感からだった。それが変わったのは、サイラス自身が変わったとわかるからよ」
「変わっても、昔の行いが帳消しになる訳じゃないよ」
「そうね。でも、わたしね、サイラスと過ごしていて思ったの。許すことで過去を変えることはできないけれど、未来は変えることができるかもしれないって」
そうなのだ。
リリーはサイラスとの関係もそうなのだが、それ以上にジェイソンのことを許さなければならなかった。
ジェイソンを過去として受け入れ、乗り越える。
その先に、リリーの今があるはずだった。
いつまでも過去を引きずっていてはいけない。
もう自身を責めるのは止めようと誓ったから。
これからは、サイラスのことを含めた自分の未来について考えてきたい。
サイラスは謝罪して、これからの行動で償うと言ってくれた。
それを無碍にはしたくなかったのだ。
素直にそう伝えると、ピーターは複雑そうに視線を逸らした。
その表情には、納得できないという感情がありありと見て取れる。
リリーはふと思うところがあって尋ねた。
「ピーター、あなたもしかして、サイラスと何かあったの?」
「……伯爵から聞いていない?」
「?」
リリーはそこで初めてモンゴメリーの領地で何があったのかを、ピーターから聞かされた。
リリーは青ざめながら、確認するようにピーターの顔を覗き込んだ。
「足の具合はもういいの?」
「うん、ただの捻挫だったから」
「そう。大事に至らなくて良かったわ。でも、なんだか怖いわね。突き落とされるなんて」
最近のモンゴメリー領は、治安が悪化しているのだろうかと、リリーは不安になった。
両親のひき逃げ事故や橋の工事の遅延等、何だか物騒なことが続いていて怖い。
サイラスが偶然、通りかかってくれたから大事には至らなかったが、ピーターだって下手したら無事では済まなかったかもしれないのだ。
サイラスには、後でお礼を言わなければならないと思った。
「それにしても、あなたがサイラスに帰れと言ったなんて……信じられないわ」
サイラスの謝罪を受け入れずに突っぱねたというのは、ピーターらしくない言動だった。
しかし、当の本人は「当然だろう?」と言わんばかりに言い募った。
「僕は腹が立っていたんだ。伯爵の姉さんに対する仕打ちは到底、許せるようなものじゃない。姉さんが言わないなら、僕がケリをつけるしかないと思ったんだ。それに、伯爵は責められても弁明しなかったよ。彼に非があるのは明らかだったからだ」
「そもそも」と、ピーターは憤懣やる方ない様子で続けた。
「姉さんを殴ったのが、僕は一番許せないんだ」
「ピーター!それは違うと何度も言っているでしょう!」
リリーは慌てて言った。
「あれは、たまたま手が当たっただけで、故意じゃないのよ」
「どうして姉さんは、伯爵を庇うんだよ」
ピーターは不服そうに眉根を寄せているが、リリーも引き下がる訳にはいかなかった。
五年前、サイラスの手がリリーの顔に当たってしまったのは事実だ。
しかし、あれは言ってみれば事故だったし、サイラスは意図して人に手をあげるようなタイプではないと、リリーは思っている。
それは、結婚当初リリーのことを酷く憎んでいた時でさえ、サイラスが決して暴力に訴えることがなかったことからも察せられた。
だからこそ、リリーは必死に言い募った。
庇っている訳ではなく、事実を捻じ曲げて欲しくなかったのだ。
「ピーター、あなたがわたしのことを心配して言ってくれているのはわかるわ。その気持ちは本当に嬉しいのよ。でも、サイラスは暴力を振るうような人じゃないと思うの。結婚してから、物理的に傷付けられたのはあの時だけだったもの」
「じゃあ、姉さんは精神的に傷付けられるのはいいって言うの?!」
リリーは押し黙った。
確かに、リリーは今まで物理的な暴力がなかっただけ、まだ幸せな方だと考えていた。
五年前は、良い妻、良い人間であろうとし過ぎてわからなかったのだ。
だが、今ピーターに言われて、精神的な痛みもまた暴力であり、不幸なことなのだと思う自分がいた。
我慢は美徳ではない、と。
そう感じるようになったことは、決して間違ってはいないはずだから。
ーーああ、そうなんだわ。わたし、サイラスに伝えなければならなかったのよ。
サイラスが帰って来て謝られた時。
簡単に受け入れず、自分がどう感じていたか、どう思ったか、もっとことばにしなければならなかった。
それがきっと、本当の意味で"やり直す"ことだったのではないのか。
「伯爵は、父さんたちの葬儀にさえ来てくれないような薄情な男だ!姉さんはいつも伯爵はその時、傷ついていたんだって言って庇うけど、それは姉さんも同じだったじゃないか!姉さんだって、ずっと傷付いていた!伯爵に蔑ろにされ続けていたし、父さんたちを喪ったばかりだった!でも、姉さんは決してそれを理由に理不尽なことはしなかったじゃないか!」
自分が傷ついたからといって、誰かを傷つけていい理由にはならないと説くピーターに、リリーは何も言えなかった。
「父さんたちの葬儀が終わって数日後、姉さんの顔に青あざがあることに気付いた時の僕の気持ちがわかる?姉さんが伯爵を庇う度、僕がどんな思いでいたか……そもそも、姉さんは自分のことを、もっと大切にするべきなんだ」
泣きそうになりながら語るピーターに、リリーは胸が締め付けられた。
こんなにもピーターを悲しませていたことに気付いたからだ。
リリーが我慢する度、きっとピーターはリリー以上に苦しかったのだろう。
リリーが怒りや悲しみを表に出さないからこそ、余計に苦しくなるのだ。
ーーああ。わたしは、きっとピーターを知らず知らずのうちに傷付けていたんだわ。
リリーを傷付けるものを、ピーターは決して許さないでいてくれた。
それが本当に嬉しくて、同時に悲しい。
「ピーター、ごめんなさいね。わたしは、あなたを不安にさせてばかりだったわ」
「やめてよ」
ピーターは唇を震わせながら、かぶりを振った。
リリーと同じ色の瞳が不安気に揺れている。
まるで自身を責めるような後悔の色を見て取って、リリーはたじろいだ。
「ピーター?」
「どうしたの?」と続ける前に、ピーターは顔を逸らしてしまった。
背を向けて俯くピーターを、リリーはじっと見つめた。
思い出すのは、まだ幼い頃、母親のアリシアに怒られて落ち込むピーターの後ろ姿だった。
そういえば、あの時もリリーはこうやって彼の背中を見つめていたのだった。
「ピーター、隣に行っていい?」
昔と変わらず優しく声をかけると、ピーターは小さく頷いた。
何も言わず、そっと寄り添う。
それも昔と同じだった。
何かを言わずとも、考えていることは何となくわかった。
でも、それを曝け出した方がいい時もある。
ピーターにはきっと必要なことだ。
だから、リリーは待とうと思った。
ピーターの気持ちを彼のことばで聞きたかったから。
「……姉さん」
しばらくして、ピーターが呟くように言った。
声変わりしていても、どこか不安そうな声音に昔のピーターが重なる。
「さっきは取り乱してごめん。吃驚させたよね」
「いいのよ。気にしないで。むしろ、あなたがわたしのことを本当に心配してくれているのがわかって嬉しかったわ。ピーター、ありがとう」
「違う…違うんだよ、姉さん」
ピーターは力なく首を振った。
肩を落としながら、俯き加減に呟く。
「僕は姉さんに感謝されるような人間じゃないんだ。僕はずっと伯爵が嫌いだった。姉さんを傷付けてばかりの伯爵に腹が立って仕方がなかった。でもね、本当に腹が立ったのは僕自身に対してなんだよ」
「どういう意味?」
「伯爵のしたことを知って、苛立ったのは本当だけれど、同時に気付いたんだ。姉さんを蔑ろにしていたのは、僕も同じだって」
「何を言っているのよ。あなたはいつだって、わたしの味方でいてくれたじゃない」
むしろ、ピーターを傷付けていたのは自分の方だと言おうとして、それは叶わなかった。
ピーターが泣きながら頭を下げたからだ。
「五年前、父さんたちの葬儀の時、僕は自分のことしか考えていなかった。悲しくて、寂しくて、怖くて……そんな自分の気持ちに押しつぶされそうだった僕は、姉さんを頼った。葬儀の手配も、参列者の対応も、両親の死後の諸々の手続きは全て姉さんに押し付けた。姉さんだって同じように嘆き悲しみたかったはずなのに。僕が頼ってばかりだっただから、姉さんはそれができなかった。僕が、その機会を奪ったんだ。姉さんは、あの時、僕を慰めてくれた。僕の気持ちを受け止めてくれた。それなのに、僕は姉さんに何もしてあげられなかった」
「そんなこと……」
「あるんだ。だって、僕は姉さんの青あざに気が付かなかったんだから。葬儀が終わって、少し落ち着いた時に、メイド頭に言われて初めて知ったんだよ。同じ立場なら、姉さんは絶対に気付いてくれたはずだ。それなのに、僕はただ姉さんに甘えてばかりで自分のことしか見えていなかった。さっき、感情的になって伯爵を責めたのは、僕自身への憤りもあったからだと思う。だから、今さらだけど、本当に今さらだけれど、姉さんには心から謝りたいんだ。一番大切な時に守ってあげられなくて、本当にごめん。不甲斐ない弟でごめん。これからは、絶対に姉さんを蔑ろにはしないよ」
リリーは咄嗟にピーターを抱きしめた。
その身体を包み込むことはできなかったけれど、そうせずにはいられなかった。
五年前、ピーターはまだ子どもだった。
自分のことだけで精一杯である彼を、誰が責められようか。
だが、それをことばにはしない。
きっとピーターは、それを望んではいないから。
だから、ただリリーは呟いた。
「ありがとう」と。
ピーターは大きくなった手で、リリーをすっぽりと包み込むように抱きしめ返してくれた。
幼かった弟は、もう立派な青年へと成長していた。