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社交界シーズンの到来と共に、リリーの生活は忙しいものとなっていった。
午前中は、公園への散歩や招待状の整理、使用人との打ち合わせを。
午後からは、親しい人との社交に加え、夜会に出かけるための準備に追われた。
舞踏会や晩餐会、観劇などに出かけるのは、その後だ。
深夜までいることもあるので、リリーは若干寝不足気味だった。
もちろん、今年、社交界デビューするジニーの比ではないけれど。
ジニーは、さらに多忙だった。
祖母であるブラッドリー公爵夫人は顔が広く、人望もあったので、孫であるジニーに社交場への招待状がひっきりなしにやって来るのだ。
招待を受けるのも大変だが、断るのはさらに神経を使う。
リリーも昔、洒落た断り文句を考えるのに頭を悩ませた経験があったので、ジニーの苦労はよくわかった。
父親であるダレンや公爵夫人がサポートしているとはいえ、不慣れなことの連続であるジニーは、リリーが見る限り若干まいっている様子だった。
そんな彼女を午後のお茶会に誘ったのは、骨休めをさせてあげたいという、リリーなりの気遣いだった。
お茶会といっても、親友のモリーしか参加していない。
モリーは、ジニーにとっても見知った相手なので、気兼ねなく過ごせるだろう。
前回、エイミーを招待したものとはまた違った意味で私的な集まりだった。
ちなみに、サイラスとエイミーの話し合いは、あまり上手くいかなかったらしい。
らしいというのは、帰宅するエイミーの瞳が涙で濡れているのを見たからだ。
わかり合えるまで対話を重ねていきたいとサイラスが言ったので、リリーも陰ながら応援したいとは思っているが、今後どうなるかは彼ら次第だった。
少なくとも、きちんと別れようとしていること自体は間違いではないはずだから。
「リリー、どうかしたの?」
目の前に座っているモリーとジニーが、不思議そうにこちらを見ている。
リリーは女主人の役目に集中することにした。
「何でもないわ」と言って、ジニーが気に入ってくれたローズティーをカップに注ぐ。
そっと二人に手渡すと、彼女たちはニッコリと微笑んだ。
「ありがとうございます。良い香りですね」
「本当に。しかも、とっても美味しいわ。リリー、今度、淹れ方を教えてね」
リリーも思わず微笑みながら、頷く。
二人が満足そうに飲んでくれているのを見つめながら、自分もカップにそっと口をつけた。
ローズの華やかな香りが鼻腔を駆け抜ける。
まさに至福の時だ。
「そういえば、リリー。あなたは今夜どうするの?舞踏会には出席する?」
「ええ、そのつもりよ」
「わたしがレディー・リリーにお願いしたんです。一緒に来てくださいと」
「まあ、そうだったのね。でも、よかったわ。二人とも出席するみたいで。実は、わたしも行く予定なのよ」
リリーは、おや?と眉を上げた。
モリーは夜会の中でも舞踏会が一番苦手で、なるべく参加しないようにしていた。
その彼女が、わざわざ出席するなんて珍しいなと思ったのだ。
「わたし、ダンスのステップがなかなか覚えられなくて……舞踏会はいつも憂鬱なのよ。でも、あなた達が参加するなら頑張れるわ」
「わかります!見知った相手がいてくださると、それだけで心強いですよね!」
ジニーもダンスが苦手なので、モリーに賛同している。
二人して手を握り合いながら、何度も頷いている姿を見やりながら、リリーは苦笑した。
かく言うリリーも、舞踏会は苦手だった。
サイラスと出会った夜会で、派手に転んだのが良い証拠だ。
ジニーのことがなければ舞踏会には出席しなかっただろう。
やはり、わたし達は似た者同士なんだなと、しみじみ思う。
その後、リリーが言うところの似た者同士である三人は、軽食と菓子を楽しんだ。
冷肉のサンドイッチ、ジャムやクロテッドクリームが添えられたスコーン、フルーツたっぷりのタルトに各々、舌鼓を打つ。
食とともに、三人の話も当然弾んだ。
社交界の噂やパーティの計画話に花を咲かせず、ひたすら本や絵画に話題が集中するのは、なんともリリーたちらしかったが、それが苦にならないのだから、やはり似た者同士と言えた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎ去り、気付けば陽が傾き始めている。
そのことに気付いたのは、モリーがしきりに窓の外を確認し始めたからだ。
急に落ち着きをなくしたモリーに、リリーは首を傾げた。
先ほど言われた時とは立場が逆転したなと思いながら、今度はリリーが「どうかしたの?」と問うと、モリーは恥ずかしそうに答えた。
「今日は、早く帰らないといけないのよ。ほら、舞踏会の支度があるでしょう?」
リリーは、目を瞬かせた。
リリー同様、あまり身支度に時間をかけるタイプではないモリーが、早く帰ってドレスアップをするというのは、本当に珍しいことだった。
よほど母親に言われているのか、それとも……。
「ごめんなさい。わたし、そろそろお暇するわ」
そう言って立ち上がったモリーに、思考を巡らせていたリリーは一瞬、対応が遅れた。
慌てて、モリーに倣おうとするも、それを制したのはモリー本人だった。
「見送りはいいわ」
「でも……」
「本当に大丈夫だから。リリー、今日はお茶会に招待してくれてありがとう。とても楽しかったわ。ジニーもありがとうね。じゃあ、二人とも、また今夜会いましょう」
そう言って、モリーはいそいそと退出して行った。
挨拶もそこそこに、その後ろ姿を見送ったリリーは、何も訊くまいと思った。
話したくなったら、きっとモリーの方から言ってくれる。
それまで待てばいいだけだ。
リリーは一つ頷いて、不思議そうにしているジニーに向かって微笑んだ。
なんでもないのよという意味を込めて。
「ところで、ジニー」
「はい」
「社交界シーズンが始まってしばらく経つけれど、どう?少しは社交の場にも慣れてきた?」
「それが……」
シュンと肩を落とすジニーに、リリーは変なことを訊いてしまっただろうかと、考えを巡らした。
「わたしには、無理です。お祖母様達は、良い方と巡り会うチャンスだと言いますが、ああいう華やかな雰囲気は、あまり好きではないんです。お父様やお祖母様の手前、なるべくお招きには参加していますが、たくさん人がいて落ち着かないし、よく知らない男性の方から話しかけられてもうまく喋れません」
リリーは、今のジニーと社交界デビュー時の自分の姿を重ねた。
リリーも昔、同じようなことを言って、母親のアリシアを困らせた過去がある。
内向的なジニーの気持ちは痛いほどわかった。
「そうよね、緊張してしまうわよね。あなたの気持ち、よくわかるわ」
「……レディー・リリーが?」
「ええ、わたしもあまり社交的な方じゃないから。社交界デビューの時は、本当に怖かったわ。失敗もたくさんしたのよ?」
「信じられません。レディー・リリーは完璧なレディーなのに」
「まさか。男性に話しかけられて緊張のあまり、しゃっくりが止まらなくなったり、ダンス中に盛大に躓いたりしたのよ?全然、完璧じゃなかったわ。あまりにひどいから、男性にはほとんど見向きもされなかった」
「でも、レディー・リリーは結婚しましたよね?夜会で出会った方と。その方がレディー・リリーを見初め、お二人は恋に落ちたのだと、お祖母様から伺いました。ロマンティックですね」
「え、ええ……」
リリーは表情が強張るのを必死で止めた。
リリーは確かにジェイソンに恋をした。
しかし、それは一方的なもので、彼は別にリリーのことを愛してくれていたわけではない。
昔の自分は、そのことに気づかなかった。
心から愛すれば、相手も愛を返してくれるはずだと信じて疑わなかった。
もちろん、ジェイソンにも家族としての情はあっただろうが、リリーへの気持ちがそれ以上発展することはなく、あっという間に彼は逝ってしまった。
それは決してロマンティックではないだろうとリリーは思ったが、ジニーに言うつもりはなかった。
彼女には、未来がある。
ジニーだけを心底愛し、幸せにしてくれる男性と必ず出会えるはずだ。
リリーの身もふたもないような過去の話で、それを台なしにしたくない。
だから、リリーは励ますようにジニーの腕を撫でた。
半分は、自分の気持ちをごまかすためだったけれど。
「ジニー、あなたは素敵なレディーだわ。だから、自信をもってちょうだい。それに、知ってる?緊張するのは相手も一緒なのよ?あなたと仲良くなりたいから、相手の男性も頑張ってあなたに話しかけたりダンスに誘ったりしているの。わたしはあなたが素敵な男性と出会った時、尻込みして欲しくないわ。きっとこの人だと思える男性と出会えるはずだから、あなたにはあなたらしく……って、ジニー、どうしたの?」
ジニーが急に俯いてしまったので、リリーはそっと背中を撫でてやった。
みるみる涙ぐむジニーを心配そうに見守ること暫し。
ジニーは、途切れ途切れになりながらも口を開いた。
「わたし、気になる人が、いるんです」
消え入るような呟きに、リリーは一瞬目を瞬かせ、その後内心で「まあ!」という感嘆の声を上げた。
「どんな方か伺ってもいいかしら?」
「この間の、舞踏会で一緒に踊った方です……」
リリーは急いで記憶を呼び起こした。
あの夜、ジニーは複数の男性と踊っていたが、一番印象に残っているのは、やはり最初にジニーをダンスに誘った青年だった。
後で、ダレンに聞いたところによると、その青年はライリー子爵というらしい。
とてもハンサムで、年齢的にもジニーとお似合いに見えた。
ジニーの想い人はその子爵だろうか。
「でも、ダメなんです。彼は素敵な方だから、わたしなんか相手にしてくれません」
「そんなこと言わないで。あなたに、わたしなんかだなんて卑下するようなことを言って欲しくないわ。ジニー、あなたはとっても素敵なレディーよ。あなたのお父様ご自慢のね」
もちろん、リリーにとっても自慢の教え子だ。
だから、自信を持ってと励ますと、ジニーは力なく、でも何度も頷いた。
ジニーが少し落ち着いたところで、リリーは「ところで」と切り出した。
「あなたは相手にしてくれないと言うけれど、わたしはそんなことないと思うわ。だって、舞踏会で男性が女性をダンスに誘うというのは、少なくとも結婚相手として興味があるということだもの。それとも、その方はもう特定の方とご婚約されているのかしら」
「いえ、していないと思います。でも……最近、会ってもお話しできないんです。挨拶は丁寧にしてくれますが、それだけで……すぐに立ち去るんです。わたし、きっと避けられているんだと思います」
リリーは何とも言えなかった。
ジニーの主観的な話だけでは、相手の気持ちを推し量れない。
もしかすると、相手にも何か事情があるのかもしれないし、そもそも相手にとってはジニーにつれない態度を取っているつもりがない可能性だってあるのだ。
――ジニーの結婚相手に関して、口を挟むつもりはなかったけれど……。
こんなに悩んでいるジニーを放っておくこともできなかった。
可能な範囲で、リリーにサポートできることはないだろうかと考えを巡らせる。
すると、ジニーの瞳に再び大きな涙が浮かんだ。
「わたしには、やっぱり無理です。好きな人を振り向かせることも、他に良い人を見つけて結婚することもできません。でも、わたしが頑張らないと、お父様やお祖母様に迷惑をかけてしまうし……失望させたくないんです。お家のためにも。わたし、だから……」
「まあ、ジニー……」
リリーは、なんだか責任を感じた。
全然、ジニーをサポートできていなかった。
こんなに思いつめてしまうまで、そのことに気付けなかった自分が許せない。
リリーは、思わずジニーを抱きしめた。
「ごめんなさい、ジニー。あなたがそんなに悩んでいるのに、何もしてあげられなくて。本当に不甲斐ない家庭教師だわ」
「そ、そんな、こと……」
「でも、これだけは言えるわ。ジニー、あなたのお父様やお祖母様は、決してあなたに失望なんかしない。迷惑だなんて微塵も思わないはずよ。だから、あなたは自分の気持ちと向き合って、焦らずに答えを見つけてちょうだい。あなたが幸せになってくれることが一番なんだから」
「ほ、本当、に?」
「ええ、だって、あなたのお父様もお祖母様も心からあなたを愛しているんだから」
「……レディー・リリーもですか?」
「もちろんよ、ジニー。当然じゃない」
ジニーは涙でぐちゃぐちゃになりながら、嗚咽を漏らした。
リリーの膝の上で。
まるで幼子のように。
どれくらい、そうしていたかはわからない。
しかし、リリーは構わなかった。
ジニーには、きっとはけ口が必要で、それがリリーであるならば、むしろ嬉しいとさえ思う。
昔、アリシアがそうしてくれたように。
リリーは優しくジニーの頭を撫で続けた。
後日、ジニーから手紙が届いた。
ダレンたちに気持ちを話したらスッキリしたこと。
気が乗らない場合は無理して社交場に行かなくても良いと言ってくれたこと。
結婚については焦らず、じっくり決めればいいと請け合ってくれたこと。
それらの内容に、リリーは微笑みながら目を通した。
これでジニーも一人で思いつめる必要はない。
どうするかはジニー次第だが、プレッシャーから解放されたのだ。
ゆっくり今後のことを考えればいい。
基本的に結婚は家同士の問題なので、普通は父親に決定権がある。
だが、あのダレンがジニーの意思を無視して無理やり結婚させるとも思えなかったので、ジニーにとってはこれで良かったのだろう。
ふと、自分の最初の結婚のことを思い出す。
ジェイソンに結婚を申し込まれた時、ジョージとアリシアはまずリリーに意見を求めた。
リリーはもちろんジェイソンが好きだったので、すぐにプロポーズを受けたのだが、今思うと、あれは珍しいことであった。
両親は家の損得ではなく、リリーの気持ちを優先してくれたことになるからだ。
――でも、なぜかサイラスとの時は押し切られたのよね。
ジェイソンが亡くなって二年間、ほぼ引きこもっていたリリーに社交界に復帰するよう説得することはあった。
しかし、決して強制されたことはない。
リリーが本当に嫌がることはさせないでくれた。
その彼らが――特に母親のアリシアが――サイラスとの再婚だけは、リリーの意見を無視して推し進めてしまった。
もともと強引なところはあったが、振り返って考えてみると、何だか引っかかる。
サイラスの出自や経済状況から、結婚相手として申し分ないことは明らかだったが、同じような条件の人は他にもいた。
別にサイラスにこだわる必要はなかったはずだ。
それとも、アリシアには何か思惑があったのだろうか。
結婚前、二人に面識はなかったはずだけれどと、リリーは首を傾げながら、一応それとなくサイラスに尋ねてみようと思ったのは、たまたま夕食の席で弟のピーターの話になったからだった。
「そういえば、君の弟はまだこちらには来ていないようだけれど、いつ頃到着予定なんだ?」
「来週よ」
リリーは微笑みながら答えた。
色々立て込んでいたらしく、領地を出発するのが遅れていたピーターではあるが、来週ようやくこの首都に到着するらしい。
それを知ったのは、つい今朝のことであった。
ピーターとは久しぶりに顔を合わせることになるので、リリーは非常に機嫌が良かった。
「彼の滞在先は?」
「もちろん、ウォリンジャー家のタウンハウスよ」
ピーターは、この社交界シーズン中、リリーがこの五年間住んでいたあのリリー・ハウスに滞在予定だった。
管理人であるハンクとも最近、会っていないので、リリーは来週会いに行くのを楽しみにしていた。
「お父様たちが亡くなってから、ピーターはずっと領地のことで忙しかったから、こちらでは少しでもゆっくりできればいいのだけれど」
議会に出席したり、社交の集まりに参加したりと、男性貴族もかなり多忙である。
ピーターはあまり競馬やスポーツ大会には興味がないのだが、誘われれば断れない場合もあるので、ピーターがゆっくりタウンハウスで過ごすことは難しいのかもしれない。
聞けば、サイラスも同じ意見のようだった。
「社交界シーズンは、何だかんだで忙しいからな。こればかりは、どうしようもないかもしれない。母上のように、あえてカントリーハウスに留まるなら話は別だが、彼の場合、議会もあるからそうはいかないだろうし。君の父君だって、そうだっただろう?」
「ええ、そうね」と相槌しながら、タイミング的には今しかないと思ったリリーは、思い切って切り出した。
結婚する前から、両親と面識はあったのかと。
サイラスは「個人的にはなかったよ」と首を振った。
「ただ、名前だけはもちろん存じ上げていた。モンゴメリー前侯爵といえば、先の戦争で国境沿いを守り抜いた英雄だ。あの砦での攻防戦は軍事史に残る素晴らしいものだったからね」
「そ、そう……」
父親であるジョージの武勇は、ある種の貴族の間では有名だった。
皆、サイラスのように瞳を輝かせながらジョージのことを語るのだが、リリーにはよくわからない感覚でもあった。
リリーにとってジョージは、いつもアリシアに頭が上がらない、そんな印象だったから。
「え、えーと、お母様のことはどう?」
「ん?そうだな、もしかしたら社交場で挨拶くらいはしたかもしれないが……どうだろう、よくわからないな。もし、気になるなら母上に手紙で尋ねてみようか?母上の方が詳しいと思うが」
「いえ、いいの。ありがとう」
断りながらリリーは、社交シーズンが終わって領地に帰った時にでも直接訊こうかなと思った。
そもそも、たとえサイラスたちが知り合いだったとしても、アリシアの意図まではわからないのだ。
亡くなった人間が、語ることはできない。
その真意を推し量ることは至難のわざだ。
だが、何となく気になったのも確かではあった。
アリシアにとって、サイラスとの結婚は一体どういう意味を持っていたのだろうか。
リリーは既にこの世にいない故人に想いを馳せた。




