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気詰まりなあの朝食から、一週間。
まるでそれが義務であるかのように、リリーはサイラスと毎回、食事を共にしていた。
朝夕、両方の時もあれば、どちらか一方だけのこともあったけれど、毎日一度は顔を合わせている計算だ。
ーー無理をしていないといいんだけれど。
リリーが心配するほど、とにかくサイラスは多忙だった。
領地に出かけたり、書斎で書類に目を通したり、それだけ言うと簡単なような気もするが、どうやらサイラスは仕事以外の用事もあるようで、常に慌ただしかった。
それでも、食事時は欠かさず顔を見せてくれるし、その日帰れない場合は必ず連絡をくれる。
サイラスが変わったと思うのは、こういう時だ。
ーーやり直そうって、こういうことだったのかしら。
リリーには、正直よくわからなかったけれど。
サイラスが、以前と違うことだけはわかる。
それが、彼なりの"やり直そう"ということなのか。
本当はこれがサイラスの真実の姿で、五年前はリリーへの怒りのあまり、本来の自分を見失っていただけの可能性もあるが。
どちらにせよ、今までのサイラスとして考えているうちは、さまざまな面で齟齬をきたすだろう。
リリーは、ハーブティーを飲みながら、ぼんやりとサイラスを見やった。
正確には、サイラスと執事のエルバートのやり取りを。
「旦那様、まだアーティチョークが残っていますよ」
「だから、もう十分飲んだと言っているだろう」
サイラスのカップに淡々とお茶を注ぐエルバートと、それを嫌そうに拒むサイラス。
朝から、なにをやっているのだろうと思う人も多いだろうが、この一週間、二人は毎日こんな感じなので、リリーをはじめ、他の使用人たちも見慣れてしまった。
誰も口をはさもうとしないのは、そのためである。
ーーやっぱり、サイラスはあまりお茶の類が好きじゃないんだわ。
それでも、律儀に一杯は飲むのだから、サイラスもかなり真面目である。
ただ、リリーはなんとなくエルバートがわざと飲ませようとしているように感じていた。
一度、試しに飲ませてもらったことがあるのだが、サイラスに提供されているお茶は、とにかく苦かった。
苦味が好きなリリーでさえ、眉を寄せるくらいなのだから、相当である。
おそらく、他のハーブとブレンドしていないから、こんなに苦いのだろう。
それを、エルバートが体にいいからと無理に飲ませようとするから、サイラスと口論になるのだ。
「わたくしは、旦那様のお身体を心配しているんです」
「ものはいいようだな」
サイラスが皮肉に言っても、エルバートはシレッとして肩をすくめるだけ。
どうやら、たびたびサイラスがお酒の匂いをさせて帰ってくることが、エルバートとしては気に入らないらしい。
サイラスは、ほとんど飲んでいないと言っているのだが、エルバートはまったく聞く耳を持たなかった。
ーーエルバートも、意地悪ね。
リリーは苦笑した。
エルバートも、本当はわかっているのだ。
サイラスが酒場に行くのは、飲酒以外の目的があることを。
それを知っていて、苦手なハーブティーを飲ませようとしているのだから、笑ってしまう。
サイラスも本気で怒っていないあたり、相当仲の良い主従だった。
「エルバート、そのくらいにしてあげて。残りは、わたしがいただくわ」
「奥様は、こちらのカモミールティーをどうぞ。はちみつをたっぷり入れてありますので、美味しいですよ」
「おい。わたしにも、そっちを……」
「いけません。旦那様はアーティチョークでないと。これは、肝臓にいいんです。お酒にだらしない飲んべえな旦那様にはピッタリですよ」
「わたしは、飲んだくれじゃない!」
喧嘩するほど仲がいいということばが頭をよぎる。
リリーは、もう口をはさむまいと思った。
言われた通り、エルバートに手渡されたカモミールティーに口をつけ、微笑む。
ーー美味しいわ。
カモミールもそうだが、はちみつもきっといいものを使っているのだろう。
はちみつの歴史は人類の歴史。
人の生活に古くから根ざした万能の甘味料を、しばし、かみしめる。
すると、視界の端でサイラスが苛立ったように立ち上がるのが見えた。
「もう出かける!夕食までには帰ってくるから!」
「……逃げましたね」
「違う!」
サイラスは、舌打ちしそうな勢いで言ってから、扉へと直進した。
そこで一瞬足を止め、リリーの方を振り返る。
「……行ってきます」
リリーは、慌ててカップを置き、立ち上がった。
呑気に傍観していた自分が、恥ずかしい。
リリーは、スカートの裾を払って、居住まいを正した。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
「ああ」
サイラスはひとつ頷いて、出かけていった。
パタンと閉まった扉をしばし見つめ、リリーは思わず息を吐き出した。
ーー油断していたわ。
最近、サイラスは必ずリリーに挨拶してから出かけるようになっていた。
もちろん帰ってきた時も、同様に挨拶を交わす。
それが家族として当たり前の光景ではあるのだが、サイラスと結婚して以来、久しくそんなやり取りとは無縁だった。
だから、意識していないと、先ほどのように慌ててしまうのだ。
これではいけないと思いつつも、慣れとは恐ろしいもので、この五年間で染みついた考えや行動はそう易々と変えられない。
リリーは、もっと気を引き締めなければならないと改めて思った。
「奥様、そう肩肘はる必要はありませんよ」
まるで、リリーの考えを読んだかのようなタイミングで、エルバートが言うものだから、リリーは目を見張った。
「わ、わたしは別に……」
「旦那様は、そこそこぞんざいに扱っても平気です」
それは絶対に違うわと思ったが、上手くことばにできない。
というのも、この一週間、再三にわたって、サイラスとエルバートの気安げなやり取りを垣間見てきたからだ。
もしかすると、エルバートはわざとそういう場面をリリーに見せているのかもしれないが、それが許されるのは、エルバートだからである。
長い間サイラスに仕え、信頼関係が構築されているからこその、やり取りだった。
リリーには、とうてい真似できないし、何年経ったとしても、その極みには到達できないだろうとも思った。
「わたしには、無理だわ」
そもそも、妻というのは半歩後ろに控え、夫をたてるものだ。
エルバートが言うような、気安げで対等な関係でいいわけがない。
ーーでも、そういえば、お父様たちは違ったわね。
リリーの亡き両親であるジョージとアリシアは、貴族にしては珍しく恋愛結婚だったのだが、そのこともあり、二人は大変仲が良かった。
だからというわけではないが、アリシアはジョージに対し、言いたいことは言っていたし、その際は一切躊躇しなかったように思う。
もちろん、人前では遠慮して大人しく控えるだけの常識はあったが、家ではどちらかというと、アリシアの方が発言力があったくらいである。
もともと、リリーがサイラスと結婚することになったのも、アリシアがジョージを説得して働きかけるように画策したからだった。
そう考えると、結構身近に、その手の見本になる夫婦がいたことになるが……。
そこまで考え、リリーは、いやいやと首を振った。
両親は、特殊だったのだ。
あんな夫婦が、そうそういるわけがない。
ーーそれに、お父様たちは、本当に愛しあっていたもの。
だからこその、関係性なのだ。
リリーとサイラスとでは、そもそもの根っこが違う。
「わたくしは、そうは思いません。奥様であれば、きっと旦那様と対等な関係を築けます。もちろん、強制はいたしませんが。……かくいうわたくしも、偉そうなことは言えませんしね」
そう言って、少し寂しそうに微笑むエルバート。
エルバートのプライベートに関して、リリーはほとんど知らない。
だが、リリーが知らないだけで、もしかすると彼にも、覚えがある感情なのかもしれなかった。
その日の夜。
サイラスは約束通り、夕食の時間に間に合うように戻ってきた。
二人揃ってとる食事も、数えれば、両手では到底足りないくらいの回数にのぼっている。
慣れるほどではないが、少しずつ定着しつつあるといったところだろうか。
リリーは、ローストビーフを口に運びながら、サイラスがエルバートに明日の予定を確認しているのを聞いていた。
明日は、月曜日。
実は、リリーにも予定があった。
話しかけるタイミングを見計らっていたのは、そのためだ。
この一週間、ずっと言いたくて言えなかったことを。
あらかた、サイラスたちの話が終わったところで、リリーは咳払いした。
言うなら、このタイミングだと思ったのだ。
サイラスが、チラリとリリーを見つめたので、思いきって口を開く。
「明日なんですが、わたしも出かけてきて構いませんか?」
サイラスは、おや?という風に、一瞬動きを止めた。
リリーが出かけるのは珍しい。
驚いたのは、そのためだろう。
「構わないよ。わざわざ、わたしの了承を得る必要もない。君にだって、付き合いはあるのだから」
「は、はい。ありがとうございます。あの、実は、そのことで少しご相談したいことがあるのですが……」
「相談?」
「はい。わたし、実は家庭教師の仕事をしていたんです」
「それは……」
「わかっています。非常識でしたよね。反省しています」
貴族の、しかも既婚女性が働くのは、非常にはしたなく常識がないこととされている。
それは、リリーにもわかっていた。
サイラスには離婚を言い渡されると信じて疑っていなかったので、実家の財政事情も含め、自立する以外、手がないと考えていた頃とは違うのだ。
サイラスの考えは今もってよくわからないが、やり直そうと言われた時点で、彼が離婚をするつもりがないことも理解している。
だから、これ以上、家庭教師として働くことができないことは至極当然だった。
リリーも、そこは理解している。
だが、どうしても教え子であるジニーのことが気がかりだった。
ジニーとは、この五年、二人三脚で頑張ってきた。
そのジニーも今年で十六歳、社交界デビューを果たす。
もうすぐ社交界シーズンが到来する今、彼女のことを無責任に放り出したくなかった。
「家庭教師として働くのは、もうやめます。でも、社交界デビューする教え子を見守ってあげたいんです。きっと、ものすごく不安だろうから」
自分の時のことを思い出し、リリーは俯いた。
あの緊張感と心許なさは、独特のものがある。
母親がいないジニーにとって、それはひとしおだろう。
もちろん、父親のダレンはジニーを精一杯サポートするだろう。
だが、女親にしかわからないこともある。
だからこそ、リリーは内向的なジニーが、社交界デビューを果たす時は、絶対に傍にいてあげようと思っていたのだ。
「彼女が慣れるまでで構いません。社交界の集まりに付き添わせてください」
精一杯の気持ちで、頭を下げる。
ややあって、サイラスは口を開いた。
「教え子というと、アルバーン子爵のご令嬢のことだね」
「はい、レディー・ジニーです」
サイラスに家庭教師のことは話していなかったが、彼はもしかすると調べて知っていたのかもしれない。
でなければ、"アルバーン子爵のご令嬢"というフレーズは出てこないだろう。
だが、これはリリーが悪かった。
本当であれば、真っ先にサイラスに話しておかなければならないことだったのだから。
「君は、アルバーン子爵とも親しいのだろうか」
リリーは、肩を揺らした。
やはり、サイラスはあの日、リリーとダレンの様子を目撃してから、二人の関係を大なり小なり疑っていたのだと思った。
正直、焦る。
やましいことがあったからではなく、ダレンに迷惑がかかると思ったからだ。
リリーは必死に言い募った。
「子爵とは懇意にさせていただいていますが、もともと家同士、付き合いがあったからなんです。家庭教師として働くようになってからは、雇用主と労働者という関係以外、特になにかあるわけではありません。本当です!そもそも子爵は、困っていたわたしを、雇ってくださっただけで!」
「困っていた?」
言い過ぎたと思った。
リリーが家庭教師として働こうと思ったのは、そもそもサイラスに離婚を言い渡されると考えていたからだ。
だが、彼にその意思がない以上、そのあたりの事情は話し辛い。
苦し紛れに、リリーは言った。
「その、実家が、両親が亡くなって、それで……」
「ああ、そういうことか」
サイラスは納得したように頷いた。
なにを納得したのかは、よくわからないが、サイラスはそれ以上、リリーが働き始めた理由については問わなかった。
これ幸いと、畳み掛ける。
「と、とにかく子爵とはなんでもないんです」
「そうか……」
なぜか、ちょっと残念そうなサイラス。
複雑な表情の理由はわからないが、彼は、しばし考えた末にキッパリと言った。
「わかった」
「え?」
「子爵との関係も、レディー・ジニーの付き添いの件もわかったと言ったんだ」
「それは、つまり……」
「子爵とは、家同士、懇意にしているのだろう?だったら、レディー・ジニーとは今後も仲良くさせていただくといい。もちろん、相手の都合もあるだろうが、社交界の集まりでは、できるだけ力になってあげるといいんじゃないか」
「本当ですか!?」
リリーは、彼女にしては珍しく、大きな声を出した。
サイラスは一瞬、驚いた表情を見せたものの、力強く頷いてくれた。
「ありがとうございます!」
リリーは、思わず満面の笑みで言った。
これで、ジニーを悲しませなくてすむ。
少なくとも、心細い社交界デビューにはならないだろう。
ダレンのことだから、ジニーに付き添ってサポートはしてくれるだろうが、女性には同性にしかわからないこともある。
そこを支えるのが、リリーの役割だった。
「ああ、よかった。これで少しは安心……って、サイラス?どうかなさったの?」
口元を押さえて俯くサイラス。
心なしか、耳が赤い。
もう一度「サイラス?」と呼びかける。
すると、サイラスは咳払いをして、立ち上がった。
「なんでもない。まだ仕事が残っているから、わたしはこれで失礼するよ。……エルバート、笑うんじゃない」
最後の方はよく聞こえなかったが、エルバートを見ながら言ったので、彼に向けての発言だったのだろう。
であれば、リリーには関係ない事柄なのかもしれない。
リリーは、首を傾げつつも、特にそれ以上追及せず、サイラスを見送った。
そして、扉が閉まってから、思わずガッツポーズをとる。
ーーよかったわ。これで明日ジニーに会った時、悲しませずにすむわね。
リリーは、安心したように微笑むのだった。
サイラスは、書斎でぼんやりと報告書を眺めていた。
内容は、まったく入ってこない。
考えるのは、先ほどのリリーの表情だった。
ーーリリーが笑ったのを見るのは、初めてかもしれない。
今まで、誰かに対して微笑んでいる姿は見たことがあった。
しかし、サイラスに向けての素の笑顔は、おそらく今回が初めてだろう。
しかも、その笑みをサイラスは真正面から見てしまったのだ。
サイラスの前では、いつもどこか不安そうに顔を伏せていることが多いリリー。
だからこそ、予想していなかった。
リリーは、あんなに幸せそうに笑うのだと。
ふわりと咲くユリのような、そんな優しい笑みに、サイラスは照れてしまったのだと思う。
エルバートにその姿を見られたのはシャクだったが、考えないことにした。
リリーに対して言ったことが正しかったのだとわかり、安堵する気持ちの方が大きかったからだ。
伯爵という立場上、百パーセント正しい決断ではなかったかもしれない。
だが、これで良かったのだと自信を持って言える。
リリーの笑顔が、その答えのすべてだった。
ーーしかし、参ったな。
サイラスは、微妙な表情で、頬をかいた。
リリーとダレンは良い仲だと思っていたのだが、リリーにはその認識がなかったらしい。
ただの雇い主だと力説する彼女を思い出し、ため息が出た。
リリーの身の安全が確保できたらーー離婚するかどうかは彼女の意見を聞いてから決めるとしてーーサイラスは身を引くつもりだった。
そして、相応しい相手にリリーを託すのだ。
その相手として、ダレン・アルバーンは完璧な人物だった。
少なくとも、彼の方はリリーを憎からず思っているだろうとも思っていたのだが。
ーー肝心のリリーがあれではな……。
アプローチに気づかないというより、誰かに好意を持たれることはないと考えている節が、リリーにはあった。
どうやら彼女の自己評価は低いらしい。
そんなことはないのにと、サイラスは思った。
リリーほど、優しく慈愛に満ちた女性はいない。
表面的なもの以上に、内面の美しさが彼女にはあった。
それに気付き、愛しみを抱く男性は必ずいる。
ーーそう、子爵のように。
そこまで考えて、サイラスは先ほどのリリーの笑顔をふと思い出した。
なぜか、また頬が熱くなる。
「風邪か?」
戸惑い気味に首を傾げ、今夜は暖かくして寝ようと、サイラスは思った。




