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忘れたいと願っていたあの夜会での醜聞を、サイラスが耳にしたのは友人たちとポーカールームで談笑している時だった。
そこで初めて、サイラスはあの時の女性がリリー・ウォリンジャーという名前であることを知った。
「なんだよ、サイラス。今度は侯爵令嬢と逢い引きか?」
「へぇー、意外だな。お前、女の趣味が変わったのか」
からかうような友人たちの声音に、サイラスは「またか」とうんざり気味に肩を落とした。
どこへ行っても、あの夜会での噂がつきまとう。
覚悟していたとはいえ、辟易するのは止められなかった。
「何度も言わせるなよ。あれは誤解なんだ。彼女とは何でもない」
「ふーん。まあ、確かにリリー・ウォリンジャーはお前の好みのタイプじゃないよな。美人じゃないし」
「色気もない」
ケラケラと笑う友人たちは、相当酒が回っているらしい。
かなり言いたい放題だった。
「おい、飲み過ぎだぞ。そのへんにしておけ。いくら酔っているとはいえ、女性に対してその言いぐさはどうかと思うぞ」
サイラスはいくぶん、たしなめるように言った。
しかし、酔っ払いどもは全く意に介していない。
「でも、事実だ。サイラスだって、彼女が美人だとは思っていないだろ?」
「それは……」
サイラスは言い淀んだ。
先日のリリーの容姿を思い出し、内心で首肯する。
確かに、美人ではないと。
ただ、彼女の琥珀色の瞳はなかなか綺麗だったなと、ふと思った。
「……典型的な美人の類いではないかもしれない。だが、好みは人それぞれだし、個人的には立派な淑女だと思う」
サイラスがことばを選びながら慎重に答えると、友人たちは何が面白いのか、こぞって笑い出した。
「淑女って、お前、リリー・ウォリンジャーの噂を知らないのか?淑女からはほど遠い女だぞ、あれは」
「……どういう意味だ?」
「ほら、彼女、ウィンターベル侯爵と付き合っているだろ。数年前に決闘騒ぎがあったじゃないか」
「そうそう。愛人と決闘させて夫を死に追いやった女だよ」
そこで、ようやくサイラスもその噂を思い出した。
ウィンターベル侯爵フレデリック・スペンサーとの浮気が原因で、夫であるジェイソン・キャトリーが決闘を申し込んだ末に、返り討ちにあって亡くなったというのは当時、社交界では有名な話だった。
ジェイソンは女あそびが激しいプレイボーイだったときく。
リリーと結婚したのも、愛ではなく、その莫大な結婚持参金ゆえだと目されていた。
だから、妻であるリリーが浮気をしたことで、己のプライドをへし折られたと感じたのだろう。
あのジェイソンが、フレデリックに決闘を申し込む理由など、それ以外に考えられなかった。
ーー噂では、彼女は決闘を止めなかったらしいが……。
らしいというのは、リリーをはじめ関係者全員が、固く口を閉ざして真実を語らないからだ。
とはいえ、社交界の人間はほとんどその噂を信じて疑わない。
夫の葬儀で、リリーが一切涙を流さなかったからだ。
彼女は終始無表情で、落ち着き払っていたらしい。
あまつさえ、愛人と目されるフレデリックを葬儀に参列させたという。
周囲からは反対されたそうだが、リリーは頑なに突っぱね、結局わがままを通したらしい。
それが、噂の信憑性をさらに助長させているのだと、彼女が気付いているのかいないのか。
夫の死後も定期的に会っていることから、二人の愛人関係はいまだに続いていると推測される。
であれば、彼女は別にどう思われても構わないと思っているのかもしれなかった。
リリー・ウォリンジャーはふしだらで冷たい女。
世間からそうみなされても、痛痒など微塵も感じはしないのだと。
だから、友人たちの言い分もわからないわけではない。
噂だけを鵜呑みにすれば、リリー・ウォリンジャーという女性は、ひどく外聞の悪い人物にしか思えなかった。
だが噂は所詮、噂でしかない。
本人たちが否定しないからといって、それがすなわち真実とは限らないのだ。
それに、とサイラスは先日の夜会で出会ったリリーの様子を思い出した。
サイラスの接近に頬を染めたり、睨んだだけで震えたりするような女性だ。
噂通りの、ふしだらで冷たい女とはイメージが違いすぎる。
だが、サイラスはその考えを友人たちに披露するつもりはなかった。
リリーを下手に弁護して、先日の噂に拍車を掛けることもあるまいと思ったのだ。
「俺なら、あんなとんでもない女、願い下げだな」
「いや、あっちの方は意外と上手いのかもしれないぜ」
「お前、今度誘ってみろよ」
サイラスは友人たちのそんな下卑た会話に、眉根を寄せた。
だから、お酒を取りに行く振りをして、そっとその場を離れる。
ーーヴェロニカは今、どうしているだろうか。
サイラスは最愛の女性に想いを馳せた。
サイラスにとって、今一番大切なのはヴェロニカとのことである。
数ヶ月間は、リリーにも嫌な思いをさせるだろうが、サイラスとの噂などすぐ忘れ去られる。
彼女には申し訳ないが、大事なのはサイラスとヴェロニカの関係が周囲に知られないこと、引いてはヴェロニカの評判を守ることである。
リリーがもともと評判がよくない女性だったおかげで、噂の内容も彼女の貞操のなさに集約されている。
周囲の注目がリリーにばかり向かうのを申し訳なく思いつつも、サイラスは正直ありがたかった。
ーーあと、少しの辛抱だ。
サイラスは己に言い聞かせた。
ヴェロニカには夜会でのことを謝罪し、決して迷惑がかからないようにすると説明してある。
ちゃっかり、また密会できるよう約束も取り付けた。
リリーとの噂さえ下火になれば、全て元通りになる。
サイラスはそう信じて疑わなかった。
翌日、リリーの両親が訪ねてくるまでは……。
「先日の夜会での件、我が娘リリーより聞いた」
サイラスは、眉をあげた。
突然、リリーの両親が訪ねてきた時は首を傾げたが、真向かいに座るジョージ・ウォリンジャーの含みのある言い方に、嫌な予感を感じた。
「何を、どうお聞きになったのですか?」
サイラスが探るようなトーンで尋ねると、ジョージは妻のアリシアに一瞬、物言いたげな視線をやった。
どういう意図があったのかはわからないが、アリシアは頷き、それを確認したジョージはすぐさまサイラスに向き直った。
そして、咎めるような表情で言ったのだった。
「もちろん、すべてだ。あの夜会での真実をリリーからすべて聞いた」
「真実というのは、つまり……」
「父親であるわたしに、あなたの行動の詳細を述べさせないでいただけるとありがたいのだがね」
もちろん、これはハッタリである。
詳細もなにも、リリーからは「何もなかった」としか聞いていない。
しかし、ジョージには関係なかった。
アリシアには何としても伯爵を言いくるめて、リリーと結婚してもらうように仕向けて欲しいと言われている。
愛する妻の願いを叶えるべく、ジョージは必死だった。
そして、サイラスはさらに必死だった。
ーー真実って……まさか、ヴェロニカとのことを喋ったのか!
ジョージの含みのある言い方や、咎めるような表情が、既婚者であるヴェロニカとの不倫を非難しているように見えて、サイラスは内心で悪態をついた。
あれほど釘を刺しておいたのに、リリーはあっさり喋ってしまった。
なんとなく彼女ならば、約束通り黙っていてくれると思っていたのに。
サイラスは裏切られたような気分になって、ひどく傷ついていた。
「リリーは、あなたとの醜聞をひどく気にしている。口さがない噂でも耳に入ったのだろう」
ジョージの抑揚のないセリフを、サイラスは黙って聞いた。
体は自然とこわばっている。
サイラスは必死に冷静さを取り戻そうとしていた。
「……仰りたいことはわかりました」
一拍置いて、サイラスは覚悟を決めた。
真正面からジョージとアリシアの顔を見る。
「どうすれば、口さがない噂を黙らせることができますか」
つまり、どうすればヴェロニカとの関係を黙っていてくれますかという意味を込めて尋ねる。
すると、ジョージではなく、アリシアの方が待っていましたと言わんばかりの表情で答えた。
「結婚する以外に、噂を消すことはできません」と。
その半ば予想していた返答に、サイラスは二人に気付かれないように、掌を固く握りしめた。
ヴェロニカとの関係をばらされて、彼女を醜聞に巻き込むつもりは毛頭なかった。
ヴェロニカは繊細な女性なので、そもそも耐えられないだろうし、そのことが原因で二度と会えなくなるような事態は絶対に避けたかった。
だから、サイラスは握られた拳を、爪が食い込むほどの力を入れてさらに握りしめながら、吐き出すように言った。
「レディ・リリーとの結婚を承諾してください」
ジョージは頷き、アリシアは満足そうに微笑んでいる。
それを、サイラスは無表情で見つめた。
リリー・ウォリンジャーはやはり噂通りとんでもない女だったと思いながら。
リリーの両親が意気揚々と帰った後、一人、書斎に篭ったサイラスは、力任せに壁を殴りつけた。
掌に痛みが走るが、どうでもいい。
今は何も考えられなかった。
リリーに対する怒りで、頭の中がいっぱいだったのだ。
半ば、脅迫するような形で結婚を迫られたことも腹がたったが、何より最愛の女性であるヴェロニカを巻き込もうとしたことが、サイラスには一番許せなかった。
リリーはそんなことをするような女性ではないと、心のどこかで思っていた自分が情けない。
何となく信じていたからこその反動だったが、サイラスは虚空を睨みつけながら呟いた。
「絶対に許さない」と。




