35
それから約一ヶ月。
サイラスは、今までの行いを振り返って、己の愚かさと向かいあっていた。
リリーに対する数々の所業、伯爵としての責任を放棄した無責任な行動。
倫理に悖る言動の数々が、ひどく情けなく、ただただ己に対する不甲斐なさを痛感する日々だ。
周囲の人たちに、どれほど迷惑をかけたか。
考えるだけで、頭が痛い。
特に、リリーへの態度は、どう繕っても正当化できなかった。
取り返しがつかないことをしてしまった。
その一言に尽きる。
リリーにあわせる顔がなかった。
今、サイラスにできることといえば、リリーに謝罪し、彼女の一番の幸せを念頭においた償い方を施行するだけだ。
そう考えると、このまま別居したままでいるか、いっそのこと離婚してしまった方がいいかもしれない。
ただ、どちらを選んだとしても、リリーの立場はひどく悪くなってしまう。
離婚された女性がどう扱われるか、サイラスもよく知っていたし、かといって、このまま別居を続けることが、果たしてリリーの幸せに繋がるかと問われれば、それもまた疑問である。
別居の原因がなんであれ、責められるのは常に女性側だからだ。
おそらく自分は、リリーに会うべきではないのだろう。
今さら帰ったとしても、ただ嫌な思いをさせるだけだとわかっている。
だが、せめて。
せめて、今までの行いを、誠心誠意、謝罪することだけはしておきたかった。
もちろん、許してくれるとは思っていない。
殴られるかもしれないし、そもそも話さえ聞いてくれないかもしれない。
いや、リリーのことだから、こんな愚かな自分でも受け入れてくれる可能性はあったが、それではいけないのだ。
本当にリリーのことを思うなら。
今までのリリーの誠意に応えるならば、自分はこれ以上、彼女の人生に関わるべきではなかった。
だからこそ、サイラスは悩んでいた。
二度と、リリーの前に姿を現わすべきではないと思う反面、謝りたい、そして彼女の正当な怒りを受け止めたいとも思った。
そして、リリーが不利にならない形で、夫婦という関係を継続させるか終わらせるか、腹をわって話し合いたい。
それが許されることなのか。
サイラスの自己満足で終わりはしないか。
この一ヶ月、ずっと考えていた。
ようやく結論に至ったのは、使用人たちのふとした会話からだった。
その時、サイラスは一ヶ月前に見つけたあの一本のユリの花を、二階の窓から見つめていたのだが、外で話している使用人たちの会話が耳に入ってきた。
彼らは、ちょうどサイラスがいる部屋の真下あたりで休憩していたらしく、窓を開けた状態では、会話すべてが筒抜けだった。
「なあ、あそこに咲いているのって、この間、旦那様が見つけられたユリか?」
「そうらしい。珍しいよな、あんなところに一本だけ咲いているなんて。でも、綺麗なユリだ」
「ユリといえば、昔、エルバート様もユリがどうのと仰ってなかったか?」
「いつの話だよ」
「あれは、そうだなぁ。俺がここに来る前のことだから……四、五年前だったかな。お前は今年、こっちに来たばっかりだろう?エルバート様がなにか仰っていなかったか?」
「ああ、そういえば聞いた気がする。毎年、夏に発見される赤いユリの話だろう?考えてみると、なんだか不気味だよな。屋敷の敷地内にも周囲の土地にもユリは咲いていないのに、年に一度、どこからか真っ赤なユリが見つかるとか、ちょっとしたホラーだ。もしかして、幽霊の仕業だったりして」
「幽霊なら、まだいいけどさ。もし、誰か悪意のある人物の仕業だとしたら、問題じゃないか?俺は実際に、そのユリを見たことがあるが、毒々しいってことばがピッタリの色合いなんだぜ?気味が悪いよ」
「言われてみれば、そうだな」
「……なあ、五年前くらいからユリが発見されるようになったってことは、やっぱりあれなのかな」
「なんだよ」
「奥様さ。旦那様が結婚されてからだろう?ユリが発見されるようになったのは。ということは、あれは奥様に向けたメッセージなんじゃないのかな」
「メッセージねぇ。でも、あんな不気味な色のユリを送るか?」
「だから、いい意味じゃなくて、悪い意味のメッセージなんだよ。つまり、脅迫状みたいなさ」
「うーん……そう言われてみれば、そうだな。奥様にはユリのことは内密にするようにとエルバート様が通達されていたから、あの方も同じように考えていらっしゃったのかもしれないし……」
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
サイラスは、窓から身を乗り出し、使用人たちの頭上から声をかけた。
驚いて固まっている使用人たちに、その場で待っているよう伝え、サイラスは階下へと急いだ。
外に出ると、先ほどの使用人たちが真っ青な表情で立ち尽くしている。
別に彼らを叱りつけるつもりはなかった。
赤いユリの話が気になったので、詳しく聞きたかっただけだ。
なるべく怖がらせないように注意しながら、質問を重ねる。
そして、サイラスは赤いユリの話の詳細を知った。
最初に思ったのは、やはり使用人たちが言っていたように、赤いユリはリリーに対するメッセージではないかということだった。
なにかリリーにだけわかる内容のものなのかもしれないが、なんとなく、そこに悪意を感じてならない。
エルバートがリリーに知らせないのも、同じように思ったからだろう。
「今までに、リリーに害が及んだわけではないようだが……」
それでも、胸がざわついてならなかった。
ようやく帰る決意が固まったのは、その不安があったからだ。
もしかすると、これはただ帰るための口実をつくろうとしているだけなのかもしれない。
だが、リリーが心配だったのも事実だ。
サイラスは、しばらく悩んだ末に、従者を呼びつけた。
その彼に、帰国のための旅支度をするよう伝える。
最初、従者はポカンと口を開けたまま固まっていたが、サイラスが辛抱強く待っていると、ハッとした表情で、急いで支度にとりかかってくれた。
「ああ、ようやく帰れるんですね」
感慨深げに言う従者を見て、サイラスは急に申し訳なくなった。
隣国に来て、約五年。
この従者をはじめ、使用人たちには、自分の事情に無意味に付き合わせてしまった。
長らく、故郷の土を踏んでいない彼らが内心でどう思っていたか、そんなのわかりきっている。
「迷惑をかけたな」
「旦那様?」
「五年という長い間、わがままに付き合わせて申し訳なかった。この礼は必ずするよ」
「!」
弾かれたように肩を揺らした従者は、しばらく口を開閉させていたが、意を決したように言った。
「とんでもございません。お側に置いていただいて光栄でした。それに、旦那様がお元気になられて、本当に嬉しいです」
「……ありがとう」
よくできた従者だと思った。
もともと、この隣国出身の彼は、いつもサイラスを影ながら支えてくれた。
今も、主人の回復を一番に喜んでくれている。
自分は恵まれていたのだと、ようやく気づくことができた。
それに報いるためにも、今後は伯爵として立派に振る舞おう。
リリーに対しても、彼のような使用人たちに対してもだ。
サイラスは、ギュッと拳を握りしめた。
視線は、窓の外。
遙かかなたにある我が家へと、思いをはせる。
サイラスは今後のことについて、今一度、考えていた。
帰国したら、真っ先にリリーに謝ろう、と。
そして、リリーが謝罪を受け入れるか拒否するかは、また別の話として、今後の夫婦生活について話し合う必要がある。
別居するか、離婚するか、リリーの意思を尊重した上で、最善の方法を模索するのだ。
もちろん、その際は、なるべく経済的にも社会的にもリリーが不利にならないように配慮しなければならない。
それから、使用人たちにも、今までの無責任な行為について謝罪しよう。
そして、彼らの奉公に報いる手だてを、打診することも忘れてはならない。
領民に対しても同様だ。
いっそう努力を重ね、領地を立派に盛り立てるのだ。
落ち着いたら、政にも関わる必要がある。
今まで、あまり議会に顔を出すことはなかったが、これからは政治に対しても真摯に取り組もう。
貴族としての義務を果たすのだ。
サイラスは、大きく深呼吸を繰り返した。
果たして、帰国するという自分の決断は正しかったのだろうか。
それは、帰ってみてはじめてわかることだろう。
「……さあ、行こう」
どこか不安げに、サイラスは言った。
そのことばの響きは、どこか頼りなく、今後の彼の行く末を予見していた。
サイラスは、馬車に揺られながら、外の景色を眺めていた。
どうして目にとまったのか。
よくわからなかったけれど、サイラスはおもむろに馬車を停車させた。
「少し休憩しよう」
「かしこまりました」
馬車から降りて、周囲を見渡す。
隣国との国境を越えたばかりとはいえ、故郷に帰ってきた気がしない。
なんとなく、サイラスが知る本国の雰囲気と違うからだ。
「そうか。土壁のせいか」
サイラスは、独特の雰囲気がある家々の壁を見つめながら呟いた。
土壁の家が多いので、異国風の町並みに感じたのだろう。
「そういえば、昔エルバートが屋敷のサンルームを土壁にしていたな」
土壁の効果は、サイラスも実際に体験しているので好感がもてた。
積極的に土壁を取り入れている領地があると聞いたことがあったが、ここがそうなのだろう。
さて、この領地の名前はなんといったか。
そう考えを巡らせている時だった。
ふと見知った顔を見かけたのだ。
「どうして、ここにいるんだ?」
それは、寄宿学校時代からの知り合いで、飲み仲間の一人だった。
社交界好きで首都から離れるのを厭う彼が、こんな遠方にいるのは珍しい。
気になって近づいていくと、相手もサイラスを見とめたようだった。
かなり驚いた表情で、こちらを見つめている。
「え?サイラス?本当にサイラスか?なぜ、こんなところにいるんだ?隣国にいるんじゃなかったのか?」
「そろそろ帰ろうと思ってね」
「なんだって!?」
やけに焦った様子の知人に、サイラスは眉を寄せた。
「どうして、そんな顔をするんだ。わたしが帰国してはいけないのか」
「ち、違うよ。驚いただけだって。そうか、帰るのか……」
なにやら思案し始めた知人に、サイラスはさらに眉根のしわを深くした。
「君こそ、どうしてこんなところにいるんだ」
「え?あ、ああ。ワインだよ。ここの地ワインは最高なんだ」
ああ、そういうことかと、サイラスは思った。
彼は、サイラスを飲みに誘っては、浴びるほど酒を飲む生粋の酒豪だ。
であれば、酒好きが高じて、わざわざワインの産地まで出向くこともあるだろう。
サイラスは、一応納得して頷いた。
「これから一杯やるのか?」
「そう言いたいところだが、馬車を待たせてあるんだ。もう行くよ。それに、することもできたしな。またな、サイラス」
「ああ。道中、気をつけろよ」
「君も、な」
手を挙げて去って行く知人の後ろ姿を見送り、サイラスは歩き出した。
周囲を見渡し、嘆息する。
ワインの産地だけあって、水が透き通った美しい川が、たくさん見えた。
「大きいな」
今、眼前に広がる光景に圧倒される。
そして、気づいた。
思った以上に、川幅が広く、水の流れが早いことに。
「向こう岸に渡ってみるか」
そう考え、視線を巡らせたサイラスは首を傾げた。
いくら見渡しても、橋一つかかっていない。
そんな馬鹿なことがあるものかと、しばらく川岸を歩き続けていると、ここの領民だろうか。
積み上げられた材木の前で、こちらに背を向けた状態でしゃがみこんでいる一人の農夫を発見した。
サイラスは、思いきって、声をかけた。
「申し訳ない。向こう岸に渡りたいのだが、橋は……」
どこにかかっているだろうか。
そう問おうとして、サイラスはやめた。
振り返った農夫を見て、なにかがおかしいと思ったのだ。
「君は……農夫ではないな」
「!」
サイラスは、相手の男の日焼けしていない顔と、マメ一つない手を交互に見て、どこか断定的に言った。
男は動揺した表情で、あとずさった。
その拍子に、手から火打石が落ちる。
「どうして、こんなものを持っているんだ?」
問うと、明らかに狼狽した様子で、男は一目散に駆けていった。
反射的に追いかけ、背後から捕らえる。
「なぜ逃げる?なにか、やましいことでもあるのか」
「ち、違う!俺は頼まれたことをしようとしただけだ!」
「?どういう意味だ」
「材木に火をつけて、橋の工事を妨害すれば、金をやると言われたんだ!俺は悪くない!」
饒舌に語るままに、男の話をきいていたサイラスは「いや、それでも十分悪いだろう」と呆れながら、さらに男を縛りあげる腕に力を込めた。
「い、痛っ!」
「とにかく、お前が悪人だということだけはわかった」
警吏にでも突き出すかと、周囲を見渡し、ちょうど通りかかった本物の領民に、サイラスは事情を説明した。
その領民に、縄を借りて、男を手早く拘束する。
「これで逃げることはできないだろう。申し訳ないが、あとを頼めるだろうか」
「は、はい。あの、ありがとうございました」
頭を下げられ、サイラスは肩をすくめた。
「別にたいしたことはしていない」
「いえ、あなたが橋の工事を妨害する悪人を捕まえてくれたおかげで、ようやく工事が進みます。本当にありがとうございました」
「事情はよくわからないが、役にたてたようでよかった」
「ぜひ、お礼をさせてください。領主様もきっと喜びます。よろしければ、あなたのお名前を……」
「いや、名乗るほどのことはしていない。それに、礼も結構だ。急いでいる身でね、ここには少し立ち寄っただけなんだ」
なんとなく不審者を発見し、捕まえただけなので、サイラスとしては、こんなに感謝される理由がいまいちよくわからなかった。
会話の内容から、どうやら領民が橋の工事が滞っていたことで困っていたのだろうとは察せられたが、それが捕まえたこの男の仕業とは限らない。
そもそも、この男は、頼まれただけだと言った。
それが事実なら、裏で命令を下した人物がいるわけで、まだ完全に解決したわけではないのだ。
だが、たまたま立ち寄っただけのサイラスに、これ以上してあげられることはなかった。
先を急ぐ身でもある。
サイラスは、何度も頭を下げる領民に別れを告げ、その場を立ち去った。
「なんだか、物騒な土地だな」
風景は優美で、いたってのどかな印象を受けたが、内情は違ったようだ。
見た目だけでは、わからないこともあるものだと、しみじみ思い、ふと、自分の領地に思いをはせた。
五年という長い間、簡単な決裁以外、まったく領地経営には関わっていない。
書類を見る限り、困ったことにはなっていないとわかってはいたが、やはり気にかかるのは事実だった。
早く帰らなければならない。
決意をあらたにしたサイラスは、向こう岸に渡るのは諦め、待たせてあった馬車に向かって、方向転換しようと一歩踏み出したのだが……。
「だれか〜助けてくださ〜い」
思いきり出鼻をくじかれたのだった。