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帰ってきた夫  作者: 西子
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サイラスにとって、ヴェロニカは特別な女性だ。

今までも、そして、これからも。

初恋の人で、運命の人。

それが、サイラスにとってのヴェロニカだった。

初めて出会った幼い時分から、ずっと好きだったし、大人になって再会してからは、心から愛を捧げられる存在であった。

彼女はすでに結婚していて、サイラスにその権利はなかったけれど。

悩んだ末に、想いを伝え、次第にヴェロニカがそれに応えてくれるようになった時は、天にも昇るような気持ちで、幸せを噛み締めたものだ。

だが、その幸福も長くは続かなかった。

リリーのせいで望まぬ結婚を余儀なくされたからだ。

サイラスの結婚を知ったヴェロニカは、特になにも言わなかったけれど、その美しい瞳が悲しげに伏せられるのを、サイラスは見逃さなかった。

だからこそ、半ば八つ当たりのように、リリーには辛くあたった。


結婚後も、ヴェロニカとの関係は続いた。

お互いに別の相手と結婚していても、心はいつも共にある。

サイラスは、そう信じて疑わなかった。

そんな時だ。

ヴェロニカの病気のことを知ったのは。

サイラスは居ても立ってもいられず、彼女を追いかけて隣国へ渡った。

軽率な行動だったが、ここで追いかけていかなければ、自分は一生後悔するとわかっていた。

どうしても、ヴェロニカを一人で逝かせるわけにはいかなかった。


だが、不幸なことに、サイラスはヴェロニカの最期を看取ることはできなかった。

母親であるマリーの計略で、ヴェロニカと引き離されている間に、彼女は呆気なく逝ってしまった。

サイラスは、彼女の亡骸に別れを言うことさえ叶わなかった。

なにもできなかったのだ。

不甲斐ない。

その一言に尽きる。

サイラスの胸中には、ただ悲しみと虚しさだけが去来した。


それからは、地獄だった。

頭ではわかっていても、ヴェロニカの死を、どうしても受け入れることができなかったのだ。

許されるなら、自分もヴェロニカのあとを追って死にたい。

そう思わずにはいられなかった。

そんな危うい精神状態のサイラスを心配して、従者が家に連絡を入れたせいで、一番会いたくなかったリリーと顔をつき合わせるはめになった時は、正直腹がたって仕方がなかった。

今は、今だけは、リリーに会いたくなかったのに……。

だからだろう。

リリーには随分と酷いことばを浴びせかけた。

しかし、彼女は耐え続けた。

先に音をあげたのは、サイラスのほうだった。

怒り続けることに、疲れてしまったのだ。

その後のことは、よく覚えていない。

なにをするでもなく、呆然としていたように思う。

だが、最愛の人を喪った悲しみと怒りは、強烈な感情として、ずっとサイラスの心の中にあった。

このままでは、いつか壊れてしまうのではないかと、サイラス自身でさえ怖かった。

農作業を勧められたのは、そんな時だ。

体を動かすことで、その複雑な気持ちを発散できたのは、本当にありがたかった。

決して、癒えることのない悲しみだったけれど、体を動かし続けている間だけは、なにも考えずにすむ。

遅い歩みではあったけれど、平静を取り戻しつつあることを、サイラスは感じていた。


しかし、その形ばかりの安寧は、リリーのせいで、あえなく霧散した。

ヴェロニカの形見のハンカチをリリーが台無しにしてしまったと聞かされた時、サイラスの中でくすぶっていた怒りが、再び爆発したことは言うまでもない。

リリーに罵詈雑言をまくしたて、そのあたりにあるものを片っ端から壊していった。

その際、リリーに手が当たってしまったことさえ、サイラスは愚かにも気づいていなかった。

ただただ、リリーが憎く、止めに入る従者が邪魔だった。


それから間もなく、リリーはサイラスの元を去った。

これ以上顔を合わせなくていいと思うと、むしろ、せいせいした。

その後、リリーから手紙が送られてきたが、当然サイラスは無視した。

視界に入れるのも、嫌だったのだ。

だから、未開封のまま送り返せば、そのうちリリーは手紙を書くのを諦めるだろうと考えていた。

予想に反し、リリーは五年間ずっと手紙を送り続けてきたけれど。

サイラスは、ただ鬱陶しく思うだけだった。


それから、一年が過ぎ、二年が過ぎた。

相変わらず、サイラスの胸中には哀しみが漂っていたけれど、以前に比べれば、随分と落ち着きを取り戻していたように思う。

ただ、以前の意欲的なサイラスはなりを潜め、無気力さが目立つようになった。

サイラスがしていることといえば、気が向いた時に農作業をしたり、家から送られてくる書類に目を通して決済をすませたりすることくらいだ。

傍目には、穏やかな日々だった。

反して、黒い影がサイラスの心を侵食し続けていたけれど。


さらに季節が二度巡り、サイラスはずっと避けていたヴェロニカの私物を整理し始めた。

捨てるつもりはなかった。

ヴェロニカとの思い出にふけりたい一心で、ひとつひとつ手にとって改める。

彼女の私物は、ほとんど残っていない。

ヴェロニカの夫のシドニー公爵が持っていってしまったのだ。

だから、数少なくなったヴェロニカの遺品の中に、サイラスが"それ"を見とめたのは、まったくの偶然ではなかった。


「これは……あの時のハンカチ?」


リリーが洗濯中に破いてしまったあのヴェロニカ愛用のハンカチである。

ヴェロニカが死ぬまで肌身離さず持っていた品だ。

サイラスは、そっとそのハンカチを手にとった。

端のほうだけ、やけに破れ具合が酷い。

不思議に思いつつ、パズルのピースをはめるように、細切れになった生地を並べていった。

そして、サイラスは気づいてしまった。

引き裂かれていてよくわからなかったが、破れ目を合わせていくと、その部分にシドニー公爵の名が刺繍されていることに。

凝った刺繍から、ヴェロニカが一針一針、丁寧に縫ったことが、サイラスの目にも見てとれた。


「ヴェロニカ、あなたは……」


夫を愛していたのか。

そのことばは続かなかった。

みぞおちを殴られたような痛みが、サイラスの胸を駆け抜けたからだ。

療養中、ベッドの中で大切そうにハンカチを握りしめていたヴェロニカの姿を思い出す。

一度も見舞いに来てくれなかった夫に想いを馳せていたのだと、今ならわかる。

サイラスは、疲れたように、近くの椅子を引き寄せて腰をおろした。


生前のヴェロニカを思い出す。

出会ってからずっと、彼女はサイラスが愛を囁くたびに、困ったように笑うだけだった。

恥ずかしいのだと思っていたが、違ったのだ。


ーーー彼女は、決して「愛している」とは言ってくれなかった。


「ごめんなさい」と呟いたヴェロニカの真意を、今初めて知った。

その、なんと残酷なことか。

サイラスは、思わず、口元を覆った。

胸を刺す痛みは、次第に増して、今にも張り裂けそうだった。

恋を失っただけではない。

心を失ったのだから。


失意とともに、さらに季節は巡る。

ヴェロニカの真意を知ったあの日から、一年。

サイラスは、ようやく心の整理をつけ、ヴェロニカの私物を片付けた。

サイラスにとっては、ようやく前進したということになるのだろうか。

胸に去来するのは、ただ悲しみと虚しさだけ。

それを前進と言うのであれば、だが。


サイラスは、重いため息とともに、窓から外を眺めた。

ちょうど、メイドが洗濯物を取り込んでいるところが見える。

強い風が、メイドの巻き毛をもてあそぶように揺らしていた。

それを、なんの気なしに見つめていたサイラスは、ふと、リリーのことを考えた。

とある疑問が、頭の中に浮かんだのだ。

リリーは、なぜハンカチを洗濯したのだろうか、と。

普通、洗濯は使用人がするものだ。

わざわざリリー本人が、洗濯をする必要はない。

では、なぜ?

サイラスは、どうしても、そのことが気になって仕方がなかった。

理由はわからない。

ただ、知らなければならないような気がしたのだ。

サイラスは、部屋を出て、階下へと向かった。

ちょうど、先ほどのメイドが洗濯物を取り込み終えたところに鉢合わせる。

すると、なんという偶然か。

そのメイドは、あの日リリーがハンカチを破ったところに居合わせた使用人だったのだ。

サイラスは、思いきって尋ねてみた。

メイドは、言いにくそうに、しかし、はっきりと証言してくれた。

リリーは刺繍を見て、なにかに気づいた様子で、ハンカチを必死に破っていたと。


ーーーもしかして、わざと破ったのか?


名前が刺繍されていた部分だけ、やけに細かく破れていたことから考えても、リリーが意図的にやったことがうかがえた。

サイラスが残酷な真実に気づかないように。

そのことで、サイラスが傷つかないように。

サイラスが激怒することを承知で、リリーはハンカチを破りすてたのではないか。

そんな考えが、頭をよぎる。

いや、まさかと首を振り、しかし、どうしても、その考えが頭から離れなかった。


サイラスは、リリーとの結婚の経緯についても、考えを巡らせた。

リリーが結婚を画策したのだと思っていたが、今、冷静に考えてみると、熱心だったのは母親のアリシアだけだった。

社交界のパーティーで、アリシアと出くわしたことがあったが、ヴェロニカと一緒にいるところを見ても、なにも言ってこなかったのを不思議に思っていた。

だが、アリシアがサイラスとヴェロニカの関係を知らなかったのだとすれば合点がいく。

リリーは、約束を守って、誰にも喋らなかったのではないだろうか。


そもそもリリーは結婚式の日に、サイラスに誤解だと訴えてはいなかったか。

信じてほしいと乞うてはいなかったか。


「わたしは、その時、リリーになんと返しただろう……」


ーーーわたしが、君を信じることは、もう二度とない。


そうだ。

自分は、リリーの方を見もしないで、そう突きつけたではないか。

サイラスは、己の行動を振り返り、だんだんと気分が悪くなってきた。


思えば、最初からリリーは誠実だった。

サイラスの辛辣な言動に、リリーは泣き言ひとつ言わず、辛抱強く耐えた。

サイラスが伯爵としての役割を放棄して、隣国に渡っている間も、屋敷のことを執り仕切ってくれているのは、送られてくる手紙からなんとなく察せられる。

サイラスがヴェロニカの死で自暴自棄になって八つ当たりした時、すべて受けとめてくれたのもリリーだった。

この地を去った後も、五年間、欠かさず手紙を送り続けてくれたリリーは、きっと……。


「妻としての義務を、ずっと誠実に果たそうとしてくれていたんだ」


今になって、ようやくそのことに思い至ったサイラスは、愕然とした。

自分は、果たして夫としての役割をまっとうしていただろうか。

リリーの誠実さに、きちんと応えてあげていただろうか、と。

すべて否だ。

むしろ、傷つける言動しかとっていない自信がある。

サイラスは、己の愚かさに、ただただ吐き気を催した。


しばらく洗面台で、胃のムカツキと格闘していると、従者の一人が手紙を持ってやって来た。

いつも定期的に送られてくるリリーからの手紙だ。

サイラスは、思わず、従者からそれを受け取った。

従者は、呆気にとられていたが、構わない。

いつもなら、読まずに送り返すのだが、内容が気になって仕方がなかったのだ。

サイラスは封を切り、書類とともに同封されている一枚の便箋を広げた。

そこには、リリーの綺麗な文字が並んでいた。

綴られた文章を、目で追う。

屋敷のこと、領地のこと、サイラスの家族や使用人たちのことが、丁寧に書かれてあった。

サイラスが少しでも関心を寄せる内容を選んで、ことばを綴っていることが、その手紙から伺えた。

リリー本人のことは、一切書かれていない。

そのことを、サイラスはひどく残念に思った。


文末を、サイラスの体調を案じる文言で締めくくられた手紙を、しばらく見つめていたサイラスは、おもむろに立ち上がった。

そのまま外に出て、遠くを見つめる。

ヴェロニカと過ごした家が、ここからでもよく見渡せた。

だが、不思議なことに、すべてが色あせた風景画のようにしか映らず、サイラスは戸惑った。

己の変化に、体がついていかず、目眩を感じる。

あんなにも、サイラスの大半を占めていたはずのヴェロニカの存在が、少し遠く感じられた。


「………」


サイラスは、無言で、外にあるカウチに座り込んだ。

ドッと疲れが押し寄せてくる。

よくわからない感情の変化に、心が追いつかないのだろう。

まるで竜巻が心中を通り過ぎ、乱していく感覚だった。

激しい。

そして、混沌の後に訪れるこの筆舌に尽くしがたい感情はなんなのだろうか。

とにかく落ち着かなければならない。

サイラスは、深呼吸を繰り返した。

気分転換にと、周囲を見渡し、そして視線は、とある一角でとまった。

そこには、なぜか一本だけユリが咲いていて。

風に揺られながら、優しげに頭を擡げている。

その柔らかい、しかし、凛とした佇まいから目が離せなかった。


サイラスは、無性にリリーに会いたくなった。

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