32
「モリー、いらっしゃい」
「お邪魔します」
リリーは、笑顔で親友のモリーをタウンハウスに迎え入れた。
モリーとは、子どもの頃からの付き合いで、もっとも気心が知れている仲だ。
そんな彼女とも、随分と久しぶりに会う。
この数年は、リリーは家庭教師の仕事で忙しかったし、モリーも社交界シーズン以外は、首都から離れた領地にこもっているので、ほとんど顔を合わせることがなかったのだ。
だから、久しぶりにモリーと会えて、リリーは本当に嬉しかった。
表情も、自然と緩む。
「本当に久しぶりね、モリー。元気にしていた?」
「ええ、相変わらず本ばかり読んでいるわ。あなたも元気そうでなによりよ。最近は忙しいんでしょう?」
「家庭教師のこと?そうね、忙しく働いているわ。でも、思った以上に楽しくって。ジニーもかわいいし、やりがいがある仕事よ」
「それは、よかったわね。あなたが幸せそうで、わたしも嬉しいわ」
モリーは、まるで自分のことのように笑った。
おそらく彼女はずっとリリーのことを心配してくれていたのだろう。
リリーが、家庭教師をすると言い出した時、誰よりも案じてくれたのはモリーだった。
サイラスとの関係を話してから、彼女はずっとリリーのことを気にかけてくれていた。
リリーは、まさに崖っぷち状態だったからだ。
サイラスには見放されて離婚間近、両親は死に、金銭的に実家に頼れないとくれば、当然だが。
だからこそ、楽しく家庭教師の仕事に励むことで、モリーの不安を払拭できたことは、リリーとしても嬉しかった。
「幸せといえば、あなたはどうなの、モリー?」
数年前から、モリーには懇意にしている男性がいる様子だったので尋ねたのだが、モリーはなぜか表情を曇らせた。
「ごめんなさい。変なことをきいてしまったかしら」
「違うの。ただ……彼がわたしとの関係は、まだ周囲に秘密にしたいって言うの。だから、あなたにも詳しいことは言えなくて……リリー、ごめんなさい」
「わたしは、いいのよ。でも、相手の男性は、どうして二人の関係を秘密にしたいのかしら」
「彼は、わたしよりも年下なんだけれど、あまりご両親とうまくいっていないみたいなの。だから、ご両親に一人前だと認められるまでは待ってほしいみたい。それに、今、彼の実家はごたついているから……落ち着くまで、周囲には黙っていたいの」
「そうだったの……」
なぜ、五年間も関係が進展せず、未だに結婚しないのか、ずっと不思議だったが、どうやら相手の男性の都合だったらしい。
リリーは、俯くモリーの腕をそっと撫でた。
「あなたは、それでいいの?辛くない?」
「わたしは平気よ。彼は認められようと頑張っているんだもの。わたしだって頑張れるわ」
あの心配性なモリーが、こんなにも前向きに頑張っている。
なんだか、モリーが眩しく見えてならなかった。
凛とした彼女の横顔を見つめながら、リリーは知らず、微笑んだ。
「モリー、わたしはあなたの味方よ。応援するわ。でも、本当に辛くなったら、その時は言ってね」
「ええ、ありがとう」
まっすぐにリリーを見つめるモリーの瞳には、一切の迷いがない。
モリーが、こんなにも芯の強い女性だったことを痛感し、リリーは彼女のことを誇らしく思った。
「ところで、リリー」
「なあに?」
モリーは、客間の机上に無造作に置かれた紙束を指差して言った。
「さっきから気になっていたんだけれど、これってなに?」
「ああ。ジェイソンが生前書いたメモや手紙よ。掃除していたら見つかったの」
「これが?」
モリーは、目を丸くした。
彼女が驚くのも無理はない。
ジェイソンが書いたものは、すべて一見しただけではわからないようなアルファベットや記号の羅列だからだ。
ジェイソンは、昔から、独自に省略した単語や、暗号文めいた文章を書くのを好んだ。
手紙以外にも、思いついたら、そこら辺にメモを残すという癖もあり、屋敷中、よくわからないメモ書きでいっぱいになったこともあった。
しかも、彼の字は個性的すぎて、なかなか読み取れない。
手紙やメモを受け取ったほうは、内容がわからず、難儀するばかりだった。
もちろん、リリーもその被害者の一人である。
「昔、"Y"だけ書かれた手紙をもらったことがあるのよ」
「どういう意味だったの?」
「多分、"Why?(=どうして?)"って言いたかったんだと思うんだけど」
「多分って、彼に聞かなかったの?」
「それが、ジェイソンったら教えてくれなくて。手紙をもらう前に、晩餐会に出席できないっていう連絡をしたから、その返事だと思うんだけど」
「なるほどね……もしかして、他にもそんな内容の手紙やメモ書きがあるの?」
「あるわよ。例えば、これを見て」
リリーは、一枚のメモを引っ張り出して見せた。
そこには、ただ"ー ---- -ー ー- ー-ー ー-ーー ーーー --ー"とだけ綴られていた。
「点と線ばっかりでしょう?」
「本当だわ」
「これはね……」
「モールス信号をつかった文章ね!」
「え、ええ。よくわかったわね」
「最初の長い線一本が"T"で、次の短い線四本が"H"だから……」
ぶつぶつと呟きながら、しばらく考えこんでいたモリーは、ポンと手を打ってから言った。
「わかったわ!"Thank you(=ありがとう)"ね!あ、この手紙も見せてちょうだい。えーと、これは"L dp nhhq wr phhw brx djdlq!"か……意味のないアルファベットの羅列ね。ということは、もしかして、シーザー式暗号じゃないかしら」
「なに、それ?」
「アルファベットを三文字前にずらす暗号文よ。ほら、見て!"L dp nhhq wr phhw brx djdlq!"を三文字前のアルファベットになおしたら、"I am keen to meet you again!(=もう一度、きみに会いたくて仕方ないよ!)"になるでしょう?」
「ほ、本当だわ」
リリーは、感心して、モリーの横顔を見つめた。
次々とジェイソンの手紙やメモに目を通しては、内容を解読していくモリー。
こんなに興奮している彼女を見たのは、いつ以来だろうか。
「こっちのは、"Re:pics"……きっと略語だわ。えーと、picsということは……あ!"pictures(=写真)"ね!ということは、"写真について"って意味だわ」
「すごいわ、モリー」
リリーは、ほとんど呆気にとられたように呟いた。
「ほとんど解読しちゃったじゃない。あなたに、こんな特技があったなんて驚きだわ」
「特技ってほどじゃないのよ」
頬を染めたモリーは、言いにくそうに俯いた。
「実は、わたし、推理小説が好きで、よく読んでいるの。小説には、暗号文やダイイングメッセージがよく出てくるでしょう?それで詳しくなっただけなのよ」
「そうだったの。知らなかったわ」
「今まで黙っていて、ごめんなさい。隠していたわけじゃないんだけれど、この歳で子どもっぽい趣味だと思われたくなくて言わなかったの」
「そんなことないわ」
リリーは、首を振った。
身近にも、同じような趣味をもつ人間がいたので、リリーに抵抗感はない。
「ジェイソンが生きていたら、さぞ気があったでしょうね。彼も推理小説を愛読していたから」
「やっぱり!」
モリーは、パッと顔をあげた。
「あの手紙やメモを見た時から、そうじゃないかなって思っていたのよ」
興奮気味に言うモリーを、リリーは微笑んで見つめた。
そういえば、ジェイソンも推理小説を読んだ後は、こんな表情をしていたなと思い出す。
「ねえ、もしよかったら、書斎に行かない?あそこには、ジェイソンが読んでいた推理小説がたくさんあるのよ」
「本当?ぜひ、行きたいわ!」
大きく頷くモリーを引き連れて、リリーは書斎へと足を向けた。
ジェイソンの死後、彼の家族が処分しようとしたのをリリーが引き取ったので、このタウンハウスや実家にあるリリーの私室には、ジェイソン愛読の推理小説や冒険小説がたくさんおいてあった。
リリーは、あまりそういった類いの本は読まないので、モリーが代わりに読んでくれれば、ジェイソンもきっと喜ぶだろう。
リリーは、ウキウキとスキップを踏みそうな勢いのモリーを横目に、微笑んだ。
ーーーそういえば、モリーなら、あの詩集に書かれた文字の意味も、すぐにわかってしまうのかしら。
今も、ジェイソンにもらった詩集は、大切に保管してある。
一度、紅茶がかかって汚れてしまったものの、亡きジェイソンから贈られた唯一の品とあって、未だにベッド脇のサイドテーブルに置いて、リリーは時折、眺めていた。
だが、あの破られたページに書かれてある文字については、今もってなお解読できていない。
"Lily"なのか、それとも"〜cily"のように、なにかの語尾の綴りなのかは、わからないものの、あの特徴的な字体は間違いなくジェイソンのものだ。
当時、リリーは基本的に詩集は手元に置いていた。
唯一、リリーが用事で不在の時だけ、ジェイソンの書斎の棚に置かせてもらっていたのだが、リリーが覚えている限り、ジェイソンが死ぬ前日まで、あの詩集の目次のページには何も書かれてはいなかった。
おそらくリリーが屋敷を離れている間に、ジェイソンが手に取って、あの文字を書いたのだろうが、どういう意図で、どんな文章を書いたのか。
その意味するところは、全く謎だった。
リリーとしては、知りたいと思うと同時に、なんとなく知りたくないような気もするのだから、不思議なものだ。
知って傷つきたくない。
内容はわからないものの、それは紛れもなくリリーの本心だった。
あれには、きっとジェイソンの本心が記されているような気がしてならなかったから。




