26
リリーは、隣国へ来るのは初めてだったが、それで特に心踊ることはなかった。
旅行目的でないこともあるが、街並みや法律は違えど、そこにいる人やものに、そう違いはないからだ。
だから、リリーは特に隣国の風景に気を留めるでもなく、窓から、通りを行き交う人々の波を眺めていたのだが、ふと、とある人物に目を止めた。
それは一瞬のことだったけれど、傍目でもわかるくらいの美人だった。
「レディ・エイミー?」
まさかと思いつつも、彼女は一度見れば忘れないほどの絶世の美女である。
見間違うことはないだろう。
エイミーは、昔サイラスと付き合っていたらしい。
もしかすると、彼を追って来たのだろうか。
そうだとすれば、なんとも、積極的なことである。
その情熱は、リリーにはないものだった。
若さゆえの大胆さを、なんとなく眩しく感じる。
ーーーでも、ダメだわ。
さすがに、今のサイラスとエイミーを会わせるわけにはいかない。
それは、エイミーのためでもあった。
リリーは、そっと立ち上がった。
誰もリリーになど注意を払っていないので、リリーが屋敷を抜け出しても、気づくことはないだろう。
というわけで、リリーは屋敷を出て、エイミーが消えていった通りの角へと急いだ。
幸か不幸か、エイミーはまだそこにいた。
相もかわらず、リリーでさえ見惚れるほどの美貌である。
だが、その美しさにも翳りが見えた。
エイミーは、なにかをひどく恐れているようで、思いつめた表情を浮かべていたのだ。
この数ヶ月、あまり食事をとっていないのか、急激に痩せて、顔色もすこぶる悪かった。
リリーは、思わず心配になり、声をかけた。
「レディ・エイミー」
「!」
エイミーは、こちらに気づき、明らかに狼狽したようだった。
その体は、小刻みに震えている。
彼女の怯えを、否が応でも感じ取り、リリーの心はなんとも騒ついてならない。
リリーは、努めて、優しげな声で話しかけた。
「お久しぶりですね、レディ・エイミー。こんなところで出会うとは、奇遇ですわ。もし、よろしければ、ご一緒に……」
お茶でも飲みませんか?
そう続けようとして、リリーの口は固まった。
エイミーが恐怖の表情で、後ずさったからだ。
「ち、違う。わたしは、ただ……」
「え?」
まるでリリーが怪物で、今にも襲われるかのような怯えっぷりである。
わけがわからない。
リリーが首を傾げると、当のエイミーは綺麗な顔を歪めて叫んだ。
「わたしのせいじゃない!」
そう言うやいなや、エイミーはリリーが止める間もなく、通りに走り出てしまった。
急いで追いかけたものの、人混みにまぎれてしまい、もう彼女の姿は見えなかった。
まさに電光石火の出来事である。
呆気にとられたリリーは、ただただ、その場に立ち尽くすほかなかった。
エイミーは、震えながら、馬車に乗り込んでいた。
カタカタと歯がかち合い、極寒の地にでもいるかのような寒気が体中に走る。
馬車の馭者も、きみ悪げな視線をエイミーに送っていたが、彼女は気づいてすらいなかった。
エイミーは、ただ恐怖していた。
自分のせいでないとわかってはいても、しようとしたことの罪の重さが、彼女の幼い心を苛む。
「わたしは、悪くないわ……」
結局、未遂で終わったのだから。
悪いのは、エイミーをうまく言いくるめて、悪事を働かせようとした、あの人物なのだ。
むしろ、自分は被害者である。
エイミーは、己に必死で言い聞かせた。
わたしは、悪くない。
悪いのは、あいつだ。
わたしは騙されただけなのだ、と。
しかも、未遂だった。
それを免罪符のように、エイミーは両手を握りしめた。
ふと、先ほどのリリーの不思議そうな表情が脳裏に浮かび、エイミーはビクリと肩を揺らした。
リリーに、ここにいるところを見られてしまった。
彼女は気づくだろうか。
エイミーがしようとしたことを。
そして、サイラスに告げ口するだろうか。
もし、彼に知られれば、それこそ一生彼から恨まれる。
彼の愛を取り戻すことは、二度とできないだろう。
そうだ、わたしはサイラスを取り戻したかっただけなのだ。
それだけを望んでいたのに。
あんな人物の口車に乗せられて、あやうく犯罪を犯すところだった。
「ああ、サイラス……サイラス」
エイミーは、ただただ恐ろしくて、泣いた。
愛する人の名を呟きながら。