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サイラスは、朝から気分がよかった。
ずっと想いを寄せていたヴェロニカが、ようやく心を開いて、サイラスの誘いにのってくれたからだ。
「今夜の夜会で、二曲目のダンスの後にテラスで落ち合おう」
人目をはばかって、そう誘惑した時、ヴェロニカは最初困ったような表情をしたが、最後には頷いてくれた。
そのことに気分をよくしたサイラスは、この夜会をずっと心待ちにしていたのである。
そして、今、二人は薄暗いテラスで抱き合っていた。
サイラスの腕の中で、愛するヴェロニカが喘ぎ声を漏らしているのを、サイラスは万感の思いで見つめる。
ようやく想いが通じた。
そう思ったのに……。
さあこれからという時になって、ガタンという無機質な音が、サイラスたちの親密な雰囲気を台無しにしてしまった。
サイラスは悪態をつきそうになるのを、必死で堪えた。
「誰かがいるわ」
ヴェロニカは、不安げに言った。
慌てたようにサイラスの腕の中から離れていく彼女を、追いかけることはできない。
ヴェロニカもそれは望んでいないだろう。
だから、そそくさと去って行くヴェロニカの後ろ姿を見送りながら、サイラスは眉根を寄せた。
ヴェロニカのことは、何年も前から想い続けてきた。
それこそ途方もないくらい長い時をかけて。
再会できることを信じ、決して諦めなかった。
その初恋の女性と、ようやく想いが通じ合ったと思ったのに。
例えるなら、すくい上げた砂が掌から溢れ落ちる感覚に似ているだろうか。
知らず、眉間のしわが濃くなっても仕方がない。
ーーどこのどいつが邪魔をしたんだ!
怒りに任せて、サイラスは柱の陰から進み出た。
すると、どうだろう。
カウチに腰かける女性がいるではないか。
忍び足で近づくと、その女性は明らかに満足げに胸をなでおろしていた。
サイラスの機嫌はさらに悪くなる。
ーー彼女のせいで!
自分でも驚くくらいの不機嫌顔で、サイラスは女性の前に立った。
一瞬遅れて、サイラスに気付いたらしい。
女性は顔を上げた。
しばし、彼女の琥珀色の瞳と、サイラスのそれがかち合う。
女性から物欲しそうに見つめられることはよくあった。
サイラスも、慣れたものだ。
いちいち反応することはない。
しかし、彼女の視線はまるで絵画を鑑賞するかのような審美眼そのもので。
そのことに、サイラスはひどく動揺し、同時に腹を立てた。
理由はわからない。
ただ、不愉快さを前面に押し出して女性を睨むことしかできなかった。
やや間があって。
ようやく女性は驚いたように、体を震わせた。
琥珀色の瞳は伏せられ、カウチに深く身を引く。
少しでも、サイラスから離れたいといわんばかりだ。
サイラスは、茶色の巻き毛が体の震えとともに不安そうに揺れるのを、苛立たしい思いで見つめた。
まるで、サイラスが猛獣か強盗であるかのような態度に、ひどく傷ついている自分がいる。
ーー怖がるんじゃない。そして、目をそらすな。
なぜ、そう思ったのか、サイラスでさえよくわからなかった。
怖がらずにこちらを見て欲しかったのか。
はたまた、正当性を主張したかったのか。
あるいは、ただ彼女を見つめていたかっただけなのか……。
そこまで考えて、サイラスは首を振った。
目の前に、ヴェロニカの非難するような表情がちらついたからだ。
ーー今はとりあえず口止めをしなければ。
ことは急を要した。
サイラスだけならまだしも、ヴェロニカの名誉がかかっているのだから。
サイラスは腰を屈めて、女性との距離を縮めた。
しっかり言いきかせるように語りかける。
「君は、何も見ていない」
頭の回転が人並みならば、すぐにサイラスの真意は伝わるだろう。
そう思ったのに、女性は何も言わなかった。
馬鹿にしているのか、それともサイラスの意図を汲み取れないのか、サイラスにはイマイチ判断ができなかった。
内心で舌打ちしつつも、さらに女性との距離を詰めてカウチに片膝を乗せたサイラスは、意識して低い声を出した。
「聞いているのか」
今度は反応があった。
女性は泣きそうな顔で、何度も大きく頷いたのだ。
怯えきっているのが手にとるようにわかったので、サイラスは少し申し訳なく思った。
ーーさすがに、やり過ぎたか。
女性の体はひどく震えていた。
その線の細さの、なんと頼りないことか。
年齢はサイラスと同じか、少し上だろう。
決して年若いわけではなかったが、なんとなく年齢よりもはるかに老成した印象を受けた。
「は、……れて………い」
サイラスがあれこれ考え込んでいたせいで、女性のことばを聞き逃してしまった。
いや、そもそも声がくぐもっていてよく聞き取れなかったのかもしれない。
どちらにせよ、女性の囁きは消え入るほど小さいものだった。
しかも、理由はよくわからないが、女性の頬は真っ赤に染まっている。
サイラスは首を傾げた。
反射的に、女性の小さな唇に耳を近付けようと顔を寄せ。
そして、それは起こった。
いくつもの好奇な眼差し。
囁かれる非難の声。
それからは、何もかもが悪夢としか言いようがなかった。
放心している女性を引っ張って、テラスから連れ出したのはサイラスだった。
さすがに、あの場に女性一人残していくのははばかられる。
ホールに入ってすぐだったか。
血相をかえて近付いてきたレディーがいたので、これ幸いと女性を託したサイラスは、その場を離れることに成功した。
途中、ちらりと振り返ると、母親らしき人物に両肩を掴まれて揺さぶられている女性の姿が目に入った。
なんとなく可哀想に思いつつも、視線は別の女性を探していた。
ヴェロニカだ。
だが、すでに彼女の姿はなかった。
おそらく、もう帰ってしまったのだろう。
サイラスは落胆した。
ーーヴェロニカには明日、連絡を取ろう。
そして、もう一度、口説けばいい。
ヴェロニカとの関係は、まだ始まってすらいないのだから、いくらでも挽回できる。
そう自分に言いきかせ、サイラスは近くにいた給仕係からグラスを受け取り、赤ワインを飲み干した。
ふと、先ほどの女性の赤く染まった頬が脳裏に浮かび、狼狽する。
なぜ、連想してしまったのか。
サイラス自身でさえ、よくわからない。
が、すぐに自分には関係ないことだと思い直した。
ーー今日のことは、さっさと忘れてしまいたい。
あの女性とは、ある程度噂になるだろうが、ゴシップが絶えない社交界では、すぐに忘れられる類いのものだ。
しばらく我慢すれば、周囲も飽きる。
そう楽観的に考えて、サイラスは自分を納得させた。
そうこうしている内に、先ほどの件を聞きつけた貴族たちが、サイラスの周囲に集まってきた。
「誤解だ」「彼女とはなんでもない」
サイラスのその説明を、明らかに信じていない様子の貴族たちだったが、それはまさに真実以外のなにものでもなかった。
サイラスの言を信じるか信じないかは、相手次第である。
サイラスは、ちらりとホールに視線をやった。
あの女性の姿は既にない。
おそらく母親に連れられて帰宅したのだろう。
彼女が帰るまでの時間稼ぎはできたらしい。
となれば、サイラスにこれ以上、この夜会に留まる理由はなかった。
さっさと馬車を呼び、帰宅の準備を進める。
普段と変わらぬ、手慣れた様子で。
サイラスにとっては、それだけのことだった。
噂の寿命は短く、新しい話題に事欠かない社交会では、すぐに忘れ去られる類いの些細な出来事だろうと。
だが、サイラスのその目論見は見事外れることになる。
最も意外な、不愉快な形で。
その時のサイラスはまだ知らなかった。
夜会での一件が醜聞となって、社交界を駆け巡ったことを。