22
思えば、サイラスにとって、ヴェロニカが初恋の相手だった。
サイラスは女性全般に対して、冷めているとよく言われるが、それはただ彼に、すでに想い人がおり、他の女性に目がいかなかったからに過ぎない。
年上の、優しい、ヴェロニカという名前の女性が、サイラスの理想だった。
というわけで、サイラスはあの夏の日に出会い、再会を約束した少女を、ずっと探し求めていた。
社交の場に顔を出すたび、サイラスの視線は、自然、その少女を探して、周囲をさまよう。
だが、ヴェロニカの姿はどこにも見えず、サイラスは決まって肩を落とした。
一年が経ち、五年が過ぎても、彼女には会えなかった。
しかし、サイラスは諦めなかった。
いつか必ず会えると信じ、押し花にして大事に保管してあるネリネの花を眺めながら、自身を鼓舞し続けること約十年。
サイラスは、ようやくヴェロニカの面影を残す女性と再会した。
それは、とある夜会で。
庭先に出たサイラスは、ハラハラと小雨が降っていることに気がついたのだが、あの夏の日に見た奇跡のような虹を、ふと思い出し、思わず破顔した。
後になって気づいたのだが、ヴェロニカと初めて会ったあの日、突然、虹がでたのは、実は雨が降っていたからだった。
周囲が明るく、細雨だったので雨音も聞こえず、幼いサイラスにはわからなかったけれど、実は、その日は天気雨だったのだ。
少女の輪郭がキラキラ光って見えたのも、背後で細雨がチラチラ降っていたからだし、母親のマリーが傘を持っていたのも、それで頷ける。
思えば、あの日は屋敷に帰る道中、道がぬかるんでいた。
雨が止んだばかりだったからだ。
そんなことにも、サイラスは気づかなかった。
幼かったのだ。
いろいろな意味で。
そう苦笑しながら、バラの花壇の前を通り過ぎたサイラスは、ふと、黒髪の女性が花を持って佇んでいる場面に、偶然出くわした。
なんとなく惹かれ、甘い蜜に誘われる蝶のように、その女性に近づく。
見れば、彼女はなにか悲しいことがあったようで、一人で花を弄ぶように動かしていた。
その距離になって初めて、サイラスは女性が持っている花がヴェロニカだと気づき、瞠目した。
まさか、と。
この女性が、あの夏の日に出会った少女なのではないかという考えが、頭をよぎる。
儚げで、美しい、黒髪のその女性に声をかけたのは、そんな直感ゆえだった。
サイラスは、表面上、落ち着いた口調を心がけて、彼女に話しかけた。
「今夜は冷えますね」
意識して、なんでもない風を装ったが、内面では、心臓が張ちきれそうなほど緊張していた。
じっと、女性の反応を待っていると、彼女はゆっくりと振り返った。
サイラスを見て、一瞬驚いたようだったが、社交辞令だとわかる笑みをつくって、彼女は小さく頷いた。
「そうですね。これから雨がひどくなるそうですから、さらに寒くなるかもしれませんわ」
女性の声に、じっと耳を傾ける。
十年前の少女のものとは、若干違う気がしたけれど、声の記憶など、あてにならない。
サイラスは、失礼にならない程度に、女性の顔を眺めることにした。
思い出の中の少女の面影を、そこに見出そうとしたのだ。
だが、あの頃から十年以上経っていることもあり、なかなかうまくいかない。
当時、少女はずっと黒い帽子を被っていたので、サイラスには、髪や瞳の色がよく見えなかったこともある。
今、目の前にいる黒髪に青い瞳の美しい女性が、あの時の少女だと判別できないことに、サイラスはため息をついた。
もしかすると、勘違いだったのかもしれない。
そう思い始めた時だった。
女性の手が、動いたのだ。
彼女は無意識だっただろうが、ヴェロニカの花を弧を描くように、くるりと回す仕草に、サイラスは既視感を覚えた。
十年前、少女がしていた動作と、目の前の女性のそれが重なる。
サイラスは、思いきって尋ねてみることにした。
「どうして、花を回すのですか?」
すると、女性は、恥ずかしそうに俯いた。
「幼い頃の、くだらないあそびです。こうやって花を回すと……」
「虹がでて、花が躍る?」
ハッとなったように、女性はサイラスを仰ぎ見た。
「まあ。男性の方で、それをご存知の人がいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「実は、昔、同じ仕草をしている少女に出会ったのです。彼女は、元気になる魔法だと言っていました」
「ああ、きっと昔、流行った絵本の影響ですわね。そういう場面がありましたもの。たまたま、物語の中で魔法の杖として使われていた花が、わたしと同じ名前だったものですから、親近感が湧いて、わたしも、幼い頃はよくマネをしていました」
「へぇ、花の名前が……どんな名か伺ってもよろしいですか?」
「ええ。ちょうど、今わたしが持っているこの花ですわ。ヴェロニカといいます」
この人だと、サイラスは思った。
元気になる魔法のことを知っていて、名前が花の名と同じヴェロニカとなると、この女性こそ、サイラスが探し求めていた初恋の人に違いない。
夏の日に出会った少女と、目の前にいる女性が、サイラスの中で、やっと一致した瞬間だった。
やはり、運命だったのだ。
ヴェロニカと出会うのは。
約十年越しに再会できた。
あの約束どおりに、初恋の少女と。
サイラスは、はやる気持ちを抑え、尋ねた。
「もしかして、あなたは昔、馬小屋で、とある男の子に元気になる魔法をかけて励ましたことはありませんでしたか?」
じっと探るように見つめると、彼女は困ったように首をかしげた。
「さあ、どうでしょう。昔のことですから、よくわかりませんわ」
「そうですか……」
サイラスは、内心で激しく肩を落とした。
彼女から言質をとれなかったからだ。
サイラスとしては、この女性があの日、出会った少女だという確信があったが、向こうはまったくサイラスのことを覚えていなかった。
サイラスは、一度たりとて、彼女を忘れたことなどなかったというのに。
ーーーいや、悪い方向に考えるのはよくないな。
十年以上も前の出来事なので、彼女が覚えていなかったとしても、仕方がないと思い直す。
それよりも、大事なのは、これからのことだ。
あの夏の日に叶わなかった想いを、ヴェロニカに伝えよう。
もし、彼女がそれに応えてくれたならば、もうそれだけで十分じゃないか。
だが、その時。
サイラスは気付いてしまった。
ヴェロニカの左手の薬指に光る指輪を。
ヴェロニカは既婚者だった。
すでに、彼女は他の男と一生の愛を誓っていたのだ。
それとなく夫を尋ね、ヴェロニカがシドニー公爵夫人だとわかった時、サイラスがどれほど、その肩書を憎らしく思ったことか。
どんなにサイラスが深く想っていても、彼女は人妻。
手を出すことは、できなかった。
サイラスは、この時代の男性にしては珍しく、不倫には反対の立場であった。
あそびなら、まだいい。
お互いに割りきっているのであれば。
だが、サイラスにとって、これは真実の愛だ。
あそびなどではなく、真剣にヴェロニカを愛している。
不正なやり方で、彼女と結ばれたくなかった。
ーーーくそっ。
サイラスは、内心で舌打ちした。
なんとか頭を切り替え、一考する。
ーーーそうだ。シドニー公爵は、確か、わたしよりも三十歳は年上だったな。
であれば、不適切な言い方だが、公爵が亡くなるまで待つという手もある。
未亡人となれば、正式な手段でヴェロニカを娶ることができるからだ。
サイラスは、悩んだ末、待つ選択をした。
あの再会の約束を、十年待ったように。
今度は、ヴェロニカが独身になるのを待つのだ。
だから、サイラスはその日、何もヴェロニカには伝えなかった。
名残惜しいが、仕方がない。
彼女に再会できただけでも、幸せなことなのだ。
今は我慢しよう。
サイラスは、後ろ髪引かれる思いで、その夜、ヴェロニカと別れたのだった。
次に、ヴェロニカと会ったのは、知人が主催する舞踏会でだった。
サイラスは、ホール会場で、ヴェロニカの姿を見とめた時、胸が踊るのを感じた。
今夜の彼女も、とびきり美しい。
彼女の綺麗な黒髪が、モスグリーンのドレスに映えて、煌めいて見えた。
ただ、彼女の表情は、相変わらず、なにか悩み事でもあるかのように、暗かった。
どうしても、放っておけず、サイラスはヴェロニカに話しかけた。
彼女は、サイラスに気づくと、柔らかく微笑んでくれたけれど、やはり、その表情には影が残っていた。
サイラスは、心が苦しくなり、思わず胸を押さえたが、表情には一切出さなかった。
「また、会いましたね」
「ええ」
「今日は……シドニー公爵とご一緒に?」
周囲に公爵がいるのであれば、あまりヴェロニカと一緒にいない方がいいかもしれない。
そう思っての問いだったが、ヴェロニカはあからさまに表情を曇らせた。
「夫は……帰りました。仕事が忙しくて」
だから、ヴェロニカはこんなに沈んでいるのだろうか。
もしかすると、先日の夜会で会った時も、同じ理由で元気がなかったのかもしれない。
思わず、サイラスは彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
自分の腕の中で、彼女を慰めたかったのだ。
だが、それは許されない。
サイラスは、グッと堪えた。
その代わり、手を出して、ヴェロニカに微笑む。
「でしたら、わたしと一曲、踊りましょう」
「でも……」
「ほら、曲が始まりましたよ。大丈夫。わたしは、ダンスは得意なんです」
サイラスは、さっと、ヴェロニカの手を取った。
少し強引だったが、彼女は嫌がらなかった。
そのまま、ホールの端で、一曲踊る。
宣言通り、サイラスはダンスが得意だった。
初めは、浮かない表情のヴェロニカも、サイラスの軽快なステップとリードに、次第に笑みが広がる。
サイラスは、それだけで嬉しかった。
今、この一瞬でいい。
彼女が笑ってくれるなら。
だから、曲が終わった時、サイラスはひどく残念に思った。
もっと、ヴェロニカと踊っていたかった。
一緒にいたかったのだ。
だが、それは叶わない。
彼女と何曲も踊るわけにはいかなかった。
周囲に、変な噂を立てられて、ヴェロニカの評判を落としたくない。
サイラスは、名残惜しげに、ヴェロニカの手を離した。
「本当に、ダンスがお上手なのね。夫は、あまりダンスが好きではないので、誰かと踊るのは久しぶりですわ。とても楽しかったです」
「喜んでいただけたようで嬉しいです。わたしも、あなたのような素敵な女性と一曲ご一緒できて、楽しかった」
「あら、口がお上手なのね。えーと……」
そこで、ヴェロニカは困ったように、首をかしげた。
「そういえば、あなたのお名前をまだ伺っておりませんわ」
「わたしは、サイラス。サイラス・マクファーレンです」
「マクファーレン卿。今日は、本当にありがとうございました。とても楽しかったです」
「どういたしまして」
サイラスは、満面の笑みで答えた。
十年越しに、ようやく名前を名乗れたので、嬉しくて仕方がない。
今は、まだ無理だが、いつか、ヴェロニカに「サイラス」と呼んでほしい。
そんな日を夢見て、サイラスは頬を緩めた。
その後も、ヴェロニカとは何度か社交の場で顔を合わせた。
サイラスは言うに及ばず、ヴェロニカもまたサイラスと会うと、喜んでくれるようになったので、サイラスはひどく心が弾んだ。
周囲の目があるので、親しく接することはできなかったけれど。
少し挨拶を交わすだけでも、サイラスには十分幸せだった。
そんな、ある日。
てっきり、ヴェロニカも出席しているだろうと思っていたブラッドリー公爵夫人の夜会で、彼女の姿を見とめることができず、サイラスは肩を落としていた。
ヴェロニカに会えないのであれば、もう帰ろうかと、踵を返しかけて、サイラスは足を止める。
控え室に向かうヴェロニカの後ろ姿が、チラリと見えたからだ。
サイラスは迷った末、後を追った。
ちょうど、扉を開けようとしていたところに追いついたサイラスは、周囲に人目がないことを確認してから、声をかけた。
「ヴェロニカ、どうか……」
待ってください、と続けようとして、サイラスの口は止まった。
振り返ったヴェロニカが、ハラハラと大粒の涙を流していたからだ。
サイラスは、慌てて言った。
「大丈夫ですか?なにかあったのですか?」
「い、いえ。違うんです。ただ、わたし……」
悲しげに俯くヴェロニカを誘って、空いていた控え室に入る。
彼女が口を開くまで、ゆうに、一時間はかかったが、少しずつ、落ち着きを取り戻したヴェロニカは、サイラスに涙の訳を語った。
その内容に、サイラスはひどく狼狽した。
「シドニー公爵に暴力をふるわれたのですか!?」
夫が妻に手をあげることは、ままあることだが、まさかヴェロニカが被害にあっていたとは思わなかった。
「ち、違います。あれは、そういうのではなくて……先日、夫と些細なことで喧嘩をしてしまったのです。わたしの交友関係のことが理由でした。それで、言い争いになってしまい、怒った彼がグラスを投げました。それがたまたま、わたしに当たっただけなんです。故意じゃありません」
それでも、十分、許しがたい所業だったが、わざとでないのであれば、なぜ、ヴェロニカはこれほどまで悲しんでいるのだろうか。
「その喧嘩以来、夫は仕事を理由に、家に戻ってこなくなったんです。わたし、寂しくて……帰ってきてほしいと、正直にそう言いました。わたしのことも顧みてほしいのだと。そうしたら、彼は……」
「どうしたのですか?」
「夫は、わたしにこう言いました。"仕事で忙しく、構ってあげることはできない。だから、他に慰めを見つけてくれて構わない"と……」
「それは、つまり……」
愛人をもて、と。
公爵は、そう言ったも同然である。
一部の貴族の間では、夫婦間で取り決めて、妻に愛人をつくることを許容する夫がいる。
公爵も、それを望んだということか。
「わかりません……ただ、夫は、仕事人間で、家庭を顧みない人です。彼から愛されていると思ったことは、一度もありません……」
そう悲しげに呟く、ヴェロニカの横顔を見て、サイラスの決意は揺らいだ。
本当に、待つだけでいいのだろうか。
今、彼女に想いを伝えなくて、後悔しないだろうか、と。
サイラスの答えは、否だ。
手段としては間違っているが、今、彼女に想いを伝えたい。
寂しさに付け入るようで、心苦しいが、サイラスは思いきって、ヴェロニカの手を取った。
「ヴェロニカ、あなたを愛しています。心から、あなただけを、ただ愛しています」
「!」
「どうか、わたしの気持ちを受け取っていただけませんか?」
ヴェロニカは、肩を強張らせた。
その瞳には、戸惑いの色が浮かんでいる。
サイラスは、じっと待った。
ヴェロニカの答えを。
ややあって、ヴェロニカはただ頷いた。
なにも言ってはくれなかったけれど。
ヴェロニカは、サイラスの想いを拒まなかった。
それだけで、サイラスは天に昇るような気持ちになる。
これからだと思った。
ヴェロニカとの幸せは。
二人の未来は。
実際には、リリーのせいで、それは叶わなくなってしまったけれど。
結婚するに至った経緯を思い出し、サイラスは嫌悪感で眉を寄せた。
あれがなければ、もっと早く、ヴェロニカと幸せな時間を過ごすことができたというのに。
今は、彼女の病気のために、その時間さえ、ほとんど残されていない。
ーーーヴェロニカが亡くなったら、わたしも死ぬかもしれない。
体ではなく、心が。
ヴェロニカを失った自分は、おそらく立ち直れないだろう。
サイラスは、その時を思い、胸が苦しくなって、傍らで眠るヴェロニカを見た。
今日はやけに安らかな、彼女のその寝顔を見つめていた時。
それは、唐突に起こった。
「サイラスを出しなさい!」
階下から聞こえてくる、いやに聞き覚えのあるその声に、サイラスは慄いた。
ーーー母上だ。どうして、ここがわかったのだろう。
今、サイラスたちがいるのは、隣国の首都郊外にある閑静な住宅街の一室だった。
ヴェロニカ名義で借りているこの住所を知る者は少ない。
もしかすると、リリーが教えたのかもしれない。
サイラスは、口を真一文字に結んで、立ち上がった。
マリーは、おそらくサイラスを連れ戻しに来たのだろが、それがどうあれ、ヴェロニカの安眠を妨げる母の口を閉ざす必要がある。
サイラスは、生まれて初めて、マリーに刃向かおうとしていた。
厳格な母の、あの刺すような鋭い視線を思い出し、条件反射で体がピクリと反応したが、それも一瞬のことだった。
ヴェロニカを看取るその時まで、彼女の傍に寄り添っていたい。
せめて、今だけは、母に抗う必要があった。
サイラスは、拳を握りしめ、重い腰をあげた。
こうして、サイラスはマリーと対峙するのだった。




