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帰ってきた夫  作者: 西子
24/126

20

サイラスは、傍のベッドで、瞳を閉じて寝息を立てているヴェロニカを愛おしそうに見つめた。

病気のために、恐ろしく痩せて、肌も青白いヴェロニカではあるが、サイラスの目には十分美しく映った。

今、ヴェロニカは、痛み止めを飲んだばかりなので、普段のように、苦しそうに表情を歪めていない。

それだけで、サイラスには嬉しかった。

少なくとも、今だけは、痛みを感じていないとわかるからだ。

サイラスは、細っそりした彼女の手を、優しく握った。

その手に、若干、反応が返ってくる。

見れば、ヴェロニカはうっすら瞼を開けていた。


「ヴェロニカ」


愛おしげに名を呼ぶと、ヴェロニカは視線だけ、こちらに寄こしてきた。

サイラスは、とろけるような甘い声で言った。

「愛してるよ」と。

ヴェロニカは、ただ困ったように微笑んだだけだった。

少し残念に思っていると、ややあって、彼女の口元がわずかながら動いたような気がしたので、サイラスは、そっと耳を近づけた。

「ごめんなさい」

そう囁いたような気がした。

確かめるすべはない。

すぐに、ヴェロニカが瞳を閉じたからだ。

サイラスは、再び安らかに胸を上下させるヴェロニカの寝顔を、愛情のこもった目で見つめた。


ーーーどうか、このままで。


このまま、二人で安らかに過ごせますように。

サイラスの儚い呟きは、誰の耳にも届かず、室内に消えていった。





サイラスが、ヴェロニカと初めて出会ったのは、爵位を継いで、しばらく経った頃だった。

遠くで、蝉が己を主張するかのように、激しく鳴いている。

そんな中、例によって、サイラスは馬小屋に一人こもっていた。

蝉とは対照的に、ひっそりと涙を流して。

父亡き後、サイラスにかかるプレッシャーは相当のものだった。

血反吐を吐くほど、努力した。

伯爵として、立派に義務を務めるために。

だが、そんなサイラスを支えてくれる人はいなかった。

周囲には求められるばかりで、自分から求めることはできない。

虚しく、そしてひどく孤独だった。

本当は、父を想って泣きたかったけれど、母の手前、それは叶わなかった。

母は、サイラスに容赦しなかった。

女子どものように取り乱さず、当然のように、毅然とした態度を求めたからだ。

だから、サイラスはどうしても我慢できなくなった時だけ、この馬小屋に避難した。

ちょうど、この時間帯は、馬番もいない。

誰の目もはばかることなく、悲しみにくれることができた。


「どうしたの?」


だから、最初、そう声をかけられた時、サイラスは非常に驚いた。

ビクッと肩を揺らして、声のした方向を仰ぎ見ると、

馬小屋の中に顔だけ覗かせた少女がいた。

少女は、サイラスと目が合うや、不思議そうに首を傾げ、馬小屋の出入り口まで進み出た。

全身、黒ずくめだった。

黒い帽子に、黒いドレス、黒い靴。

夏にしては、暑苦しい格好だった。

両手には、たくさんの花々が入った大きな手籠を抱え、いかにも重そうである。

年の頃は、サイラスよりもいくらか上だろうと思われた。


「泣いているの?」


少女は、心配そうに尋ねてきた。

泣いているところを見られたばつの悪さから、サイラスはそっぽを向いた。


「泣いていないよ。放っておいて」


少女は、一瞬迷うような素振りを見せたが、サイラスの意に反して、その場を立ち去らなかった。

手籠を地面に置き、中身を探っている。

少女は「あった」と言って微笑み、青紫の円錐形の花を一本、取り出した。


「魔法をかけてあげる」


サイラスは、目を丸くした。

少女の顔は、逆光になって、よくわからなかったけれど、その背後の風景がキラキラ光って見える。

すごく神秘的だ。

服装と相まって、少女がまるで魔女のような、そんな錯覚を覚える。

少女は、花先をサイラスに向けて、ゆっくり回した。


「魔法。魔法。元気になあれ」


意外にシンプルな呪文だなと呑気に考える。

その間も、少女はサイラスの頭上で、一生懸命、花をクルクル振っていた。

その行動の意味がわからず、サイラスは訝った。


「どうしよう。虹が出ないわ」


少女は、情けない声で言った。

なにが悲しいのか、少女はシュンと肩を落としている。

先ほどまで見えていた煌めきも、もうなかった。

ややあって、サイラスは、ため息混じりに、立ち上がった。

少女の横を通り過ぎる際、「こんなことで、虹ができるわけないよ」と。

そう言おうとして、サイラスはハッとなった。


「虹だ」


馬小屋から一歩出て、確認するように、空を仰ぐ。

間違いなく、そこには虹がかかっていた。


「すごい。なんて綺麗なんだろう」


思わず、感嘆をこめて呟く。

雨は降っていなかった。

それにも拘わらず、空には七色の橋が架かっている。

奇跡のような光景に、ただひたすら魅入った。

その瞬間、突然、目の前に色とりどりの花々が舞った。

驚いて、振り返れば、それが少女の仕業だとわかる。

少女は、手籠の中の花々を両手いっぱい抱え、サイラスの頭上から、一心不乱に散らせていた。


「なにをしているの?」


純粋な疑問だった。

サイラスには、少女の行動の意図がわからなかったから。

少女は、手を止めず、言った。


「花を躍らせているのよ」


やはり、よくわからない答えが返ってきたので、サイラスは首をひねった。

ややあって、尋ねる。


「……手伝おうか?」


何度もジャンプして、サイラスの頭上から花を振らせる少女は、見ていて、いかにも大変そうだった。

手を貸した方がいいかもしれないと、そう思ったのだ。

だが、少女は断固として、首を横に振った。


「大丈夫よ。これは、わたしがやらないといけないの。でも、ありがとう」


そういうものなのかと、よくわからないなりに、サイラスは頷いた。

少女が頑張っているのだから、邪魔せず、大人しく待っていようと決めたのだ。

しばらくして、少女は満足したように微笑んで、ようやく手を止めた。


「終わった?」

「ええ。バッチリだわ。それより、どう?元気になった?」

「え?」


ここにきて、ようやく、この一連の謎の行動すべてが、サイラスを励ますための、少女なりの思いやりの結果だとわかる。

サイラスは、無意識に、自分の目元に触れた。

もう涙は出ていない。

サイラスは、素直に頷いた。


「うん。元気になったよ」

「よかった」


少女は、心底、嬉しそうに微笑んだ。

優しさに溢れた、少女の可愛い笑みに、サイラスはちょっと頬を赤くさせた。

まごつきながら「ありがとう」と言って、チラリと少女を仰ぎ見る。

仰ぎ見るのは、少女の方が、背が高いからだ。

サイラスは、意識して、背伸びをした。

視線の高さがほぼ平行になったことに、少し満足する。


「やっぱり、魔法の杖はすごいわね」

「魔法の杖?」

「ほら、これよ」


少女は、再び、青紫色の細長い花を持ちあげてみせた。

この花が魔法の杖だと言いたいらしい。

サイラスには、やはりよくわからない感覚だった。

ただ、そのことは言わない。

下手なことを言って、少女に嫌われたくなかったのだ。


「えっと、すごいね」


上手い褒めことばが思い浮かばず、そう言うと、少女は、それでも十分嬉しそうに、口角を上げた。

よく笑う子だと思う。

少女は優しく、ふんわり微笑むのだ。

サイラスの周囲にはいないタイプの女の子だった。

同じ異性でも、家族であるマリーは、いつも眉を寄せているし、アンは無表情。

年頃の近い令嬢たちは、最初はニコニコしているのだが、サイラスを挟んで、女の子同士でいがみ合いを始めることが多く、目を三角にしている印象しかない。

もう少し年上の令嬢になると、なにやら含みのある笑みを向けられる始末だった。

少女のように、無邪気に、ただ優しく笑う女の子というのは、サイラスの目には、非常に好ましく映った。


ーーー仲良くなりたいな。


それは、サイラスにとって初めてのことだった。

自分から興味を持ち、近付きたいと思う。

この感情の名前を、サイラスはまだ知らなかった。


「……名前はなに?」


サイラスは、思いきって尋ねた。

先ほどから、少女の名前を知りたくてたまらなかったのだ。

少女は最初、可愛らしく小首をかしげた。

次に、手元の花を見つめ、「ああ」と納得したように微笑んで言った。


「"ヴェロニカ"よ」

「ヴェロニカ……」


それが、少女の名前だった。

サイラスは、何度も口の中で、その名を呼んだ。

なんて、素敵な響きだろう。

少女にぴったりの、綺麗な名前だ。


ーーー僕の名前も、呼んでほしいな。


少女の可愛い声で、"サイラス"と呼ばれるところを想像し、サイラスは意味もなく、頬が緩んだ。

そして、気付いた。

そういえば、サイラスはまだ名乗ってさえいない。

こうしてはいられない。

サイラスは、勢い込んで言った。


「ぼくの名前は」

「待って。言わなくていいわ」

「え……」


サイラスは、勢いを削がれ、ショックのあまり俯いた。

名乗らせてくれないということは、少女は、サイラスと仲良くなりたいと思っていないのだ。

サイラスは、この世の終わりのような情けない声で、未練がましく尋ねた。


「……どうしてもだめ?」


すると、少女、もとい"ヴェロニカ"は、口元に手を当てながら、思案するように言った。


「だめというか……君の名前は、もう知っているもの。君は"少年"くんでしょう?」


確かに、サイラスの年の頃は、少年といって差し支えない。

だが、それは自分の名前ではなかった。

サイラスは、どうしても"ヴェロニカ"に、自分の名前を呼んでほしかったのだ。

理由は、よくわからなかったけれど、サイラスとしては切実な願いである。

どう伝えれば、わかってもらえるだろうか。

サイラスが頭を悩ませていると、遠くの方から女性の声が聞こえてきた。


「どこにいるの〜?出てきなさ〜い」


その瞬間、"ヴェロニカ"は、弾かれたように、振り返った。


「いけない。お母様だわ。わたし、もう行かないと」

「そんな……」


サイラスは、眉を下げた。

もっと、"ヴェロニカ"と一緒にいたい。

仲良くなりたい。

サイラスの名前を呼んでほしいと、そう思った。


「……また、会える?」


手籠を抱え直し、今にも立ち去ろうとする"ヴェロニカ"の前に回り込んで、サイラスは泣きそうになりながら尋ねた。

"ヴェロニカ"は、目を丸くして、サイラスを見つめていたが、ふと手籠の中に視線をやり、ニッコリ微笑んだ。


「これをあげるわ」

「?」


手籠から取り出したものを、少女は、サイラスに向かって差し出す。

差し出されるままに、サイラスはそれを受け取った。


「これは……」

「じゃあね、"少年"くん」


そう言い残し、サイラスが止める間もなく、"ヴェロニカ"は、パチャパチャと泥土を跳ね上げながら、走り去ってしまった。

サイラスはなすすべなく、グングン小さくなる"ヴェロニカ"の後ろ姿を見つめ続けた。

なんだか、今までの出来事がすべて白昼夢のように感じる。

果たして、"ヴェロニカ"は、本当に実在したのだろうか。

そんな夢とうつつの狭間のような、フワフワした気分を破ったのは、硬質な声音だった。


「サイラス?なにをしているのですか?」


現実に引き戻されるように、サイラスは声のした方向に顔を向けた。

すでに、声の正体はわかっている。


「母上……」


見慣れた、マリーの厳しい表情を見やる。

彼女は、サイラスを咎めるように言った。


「もう、休憩はおしまいです。早く屋敷に戻りなさい。いつまでも、油を売っていてはいけませんよ」


そこまで一息に言ったマリーは、ふと、サイラスの手元に視線をやった。


「それは……ネリネ?この時期に、珍しいですね。早咲きかしら」

「え?」

「サイラス、その花はどうしたのです」


マリーに指摘されて初めて、サイラスは先ほど"ヴェロニカ"に手渡されたものに気付く。


ーーーそうだ、これが。この花が、少女が実在したことの証明ではないか。


サイラスは、じっと手元の花を見つめた。

ネリネという名らしい。

キラキラと輝く花びらが美しいなと、思った。

サイラスは、大切そうに花を握りしめながら、言った。


「……女の子に、もらいました」


マリーは、最初、眉を寄せていたが、ややあって「女の子……ああ、あのーーーね」と呟いた。

サイラスには、残念ながら、よく聞き取れなかったが。


「さあ、とにかく屋敷に入りましょう」


マリーは、そうキッパリ言い、傘を持ち直した。

どうして、傘を持っているのか、少し不思議に思ったが、サイラスはあまり深く考えなかった。

頭の中は、"ヴェロニカ"のことでいっぱいだったからだ。



その夜、サイラスは眠る前に植物図鑑で、こっそり調べた。

一輪挿しにさしたネリネを、チラリと見て、微笑む。

ネリネの花ことばは『また逢いましょう』だった。

それが、ひどく嬉しい。


ーーー"ヴェロニカ"と、また会える。


サイラスは、そう確信した。

"ヴェロニカ"がくれたネリネは、ピンとまっすぐ天井に向かって伸びている。

きっと、約束を違わない。

そんな決意の表れのように感じて、サイラスは幸せな気持ちになった。

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