20
サイラスは、傍のベッドで、瞳を閉じて寝息を立てているヴェロニカを愛おしそうに見つめた。
病気のために、恐ろしく痩せて、肌も青白いヴェロニカではあるが、サイラスの目には十分美しく映った。
今、ヴェロニカは、痛み止めを飲んだばかりなので、普段のように、苦しそうに表情を歪めていない。
それだけで、サイラスには嬉しかった。
少なくとも、今だけは、痛みを感じていないとわかるからだ。
サイラスは、細っそりした彼女の手を、優しく握った。
その手に、若干、反応が返ってくる。
見れば、ヴェロニカはうっすら瞼を開けていた。
「ヴェロニカ」
愛おしげに名を呼ぶと、ヴェロニカは視線だけ、こちらに寄こしてきた。
サイラスは、とろけるような甘い声で言った。
「愛してるよ」と。
ヴェロニカは、ただ困ったように微笑んだだけだった。
少し残念に思っていると、ややあって、彼女の口元がわずかながら動いたような気がしたので、サイラスは、そっと耳を近づけた。
「ごめんなさい」
そう囁いたような気がした。
確かめるすべはない。
すぐに、ヴェロニカが瞳を閉じたからだ。
サイラスは、再び安らかに胸を上下させるヴェロニカの寝顔を、愛情のこもった目で見つめた。
ーーーどうか、このままで。
このまま、二人で安らかに過ごせますように。
サイラスの儚い呟きは、誰の耳にも届かず、室内に消えていった。
サイラスが、ヴェロニカと初めて出会ったのは、爵位を継いで、しばらく経った頃だった。
遠くで、蝉が己を主張するかのように、激しく鳴いている。
そんな中、例によって、サイラスは馬小屋に一人こもっていた。
蝉とは対照的に、ひっそりと涙を流して。
父亡き後、サイラスにかかるプレッシャーは相当のものだった。
血反吐を吐くほど、努力した。
伯爵として、立派に義務を務めるために。
だが、そんなサイラスを支えてくれる人はいなかった。
周囲には求められるばかりで、自分から求めることはできない。
虚しく、そしてひどく孤独だった。
本当は、父を想って泣きたかったけれど、母の手前、それは叶わなかった。
母は、サイラスに容赦しなかった。
女子どものように取り乱さず、当然のように、毅然とした態度を求めたからだ。
だから、サイラスはどうしても我慢できなくなった時だけ、この馬小屋に避難した。
ちょうど、この時間帯は、馬番もいない。
誰の目もはばかることなく、悲しみにくれることができた。
「どうしたの?」
だから、最初、そう声をかけられた時、サイラスは非常に驚いた。
ビクッと肩を揺らして、声のした方向を仰ぎ見ると、
馬小屋の中に顔だけ覗かせた少女がいた。
少女は、サイラスと目が合うや、不思議そうに首を傾げ、馬小屋の出入り口まで進み出た。
全身、黒ずくめだった。
黒い帽子に、黒いドレス、黒い靴。
夏にしては、暑苦しい格好だった。
両手には、たくさんの花々が入った大きな手籠を抱え、いかにも重そうである。
年の頃は、サイラスよりもいくらか上だろうと思われた。
「泣いているの?」
少女は、心配そうに尋ねてきた。
泣いているところを見られたばつの悪さから、サイラスはそっぽを向いた。
「泣いていないよ。放っておいて」
少女は、一瞬迷うような素振りを見せたが、サイラスの意に反して、その場を立ち去らなかった。
手籠を地面に置き、中身を探っている。
少女は「あった」と言って微笑み、青紫の円錐形の花を一本、取り出した。
「魔法をかけてあげる」
サイラスは、目を丸くした。
少女の顔は、逆光になって、よくわからなかったけれど、その背後の風景がキラキラ光って見える。
すごく神秘的だ。
服装と相まって、少女がまるで魔女のような、そんな錯覚を覚える。
少女は、花先をサイラスに向けて、ゆっくり回した。
「魔法。魔法。元気になあれ」
意外にシンプルな呪文だなと呑気に考える。
その間も、少女はサイラスの頭上で、一生懸命、花をクルクル振っていた。
その行動の意味がわからず、サイラスは訝った。
「どうしよう。虹が出ないわ」
少女は、情けない声で言った。
なにが悲しいのか、少女はシュンと肩を落としている。
先ほどまで見えていた煌めきも、もうなかった。
ややあって、サイラスは、ため息混じりに、立ち上がった。
少女の横を通り過ぎる際、「こんなことで、虹ができるわけないよ」と。
そう言おうとして、サイラスはハッとなった。
「虹だ」
馬小屋から一歩出て、確認するように、空を仰ぐ。
間違いなく、そこには虹がかかっていた。
「すごい。なんて綺麗なんだろう」
思わず、感嘆をこめて呟く。
雨は降っていなかった。
それにも拘わらず、空には七色の橋が架かっている。
奇跡のような光景に、ただひたすら魅入った。
その瞬間、突然、目の前に色とりどりの花々が舞った。
驚いて、振り返れば、それが少女の仕業だとわかる。
少女は、手籠の中の花々を両手いっぱい抱え、サイラスの頭上から、一心不乱に散らせていた。
「なにをしているの?」
純粋な疑問だった。
サイラスには、少女の行動の意図がわからなかったから。
少女は、手を止めず、言った。
「花を躍らせているのよ」
やはり、よくわからない答えが返ってきたので、サイラスは首をひねった。
ややあって、尋ねる。
「……手伝おうか?」
何度もジャンプして、サイラスの頭上から花を振らせる少女は、見ていて、いかにも大変そうだった。
手を貸した方がいいかもしれないと、そう思ったのだ。
だが、少女は断固として、首を横に振った。
「大丈夫よ。これは、わたしがやらないといけないの。でも、ありがとう」
そういうものなのかと、よくわからないなりに、サイラスは頷いた。
少女が頑張っているのだから、邪魔せず、大人しく待っていようと決めたのだ。
しばらくして、少女は満足したように微笑んで、ようやく手を止めた。
「終わった?」
「ええ。バッチリだわ。それより、どう?元気になった?」
「え?」
ここにきて、ようやく、この一連の謎の行動すべてが、サイラスを励ますための、少女なりの思いやりの結果だとわかる。
サイラスは、無意識に、自分の目元に触れた。
もう涙は出ていない。
サイラスは、素直に頷いた。
「うん。元気になったよ」
「よかった」
少女は、心底、嬉しそうに微笑んだ。
優しさに溢れた、少女の可愛い笑みに、サイラスはちょっと頬を赤くさせた。
まごつきながら「ありがとう」と言って、チラリと少女を仰ぎ見る。
仰ぎ見るのは、少女の方が、背が高いからだ。
サイラスは、意識して、背伸びをした。
視線の高さがほぼ平行になったことに、少し満足する。
「やっぱり、魔法の杖はすごいわね」
「魔法の杖?」
「ほら、これよ」
少女は、再び、青紫色の細長い花を持ちあげてみせた。
この花が魔法の杖だと言いたいらしい。
サイラスには、やはりよくわからない感覚だった。
ただ、そのことは言わない。
下手なことを言って、少女に嫌われたくなかったのだ。
「えっと、すごいね」
上手い褒めことばが思い浮かばず、そう言うと、少女は、それでも十分嬉しそうに、口角を上げた。
よく笑う子だと思う。
少女は優しく、ふんわり微笑むのだ。
サイラスの周囲にはいないタイプの女の子だった。
同じ異性でも、家族であるマリーは、いつも眉を寄せているし、アンは無表情。
年頃の近い令嬢たちは、最初はニコニコしているのだが、サイラスを挟んで、女の子同士でいがみ合いを始めることが多く、目を三角にしている印象しかない。
もう少し年上の令嬢になると、なにやら含みのある笑みを向けられる始末だった。
少女のように、無邪気に、ただ優しく笑う女の子というのは、サイラスの目には、非常に好ましく映った。
ーーー仲良くなりたいな。
それは、サイラスにとって初めてのことだった。
自分から興味を持ち、近付きたいと思う。
この感情の名前を、サイラスはまだ知らなかった。
「……名前はなに?」
サイラスは、思いきって尋ねた。
先ほどから、少女の名前を知りたくてたまらなかったのだ。
少女は最初、可愛らしく小首をかしげた。
次に、手元の花を見つめ、「ああ」と納得したように微笑んで言った。
「"ヴェロニカ"よ」
「ヴェロニカ……」
それが、少女の名前だった。
サイラスは、何度も口の中で、その名を呼んだ。
なんて、素敵な響きだろう。
少女にぴったりの、綺麗な名前だ。
ーーー僕の名前も、呼んでほしいな。
少女の可愛い声で、"サイラス"と呼ばれるところを想像し、サイラスは意味もなく、頬が緩んだ。
そして、気付いた。
そういえば、サイラスはまだ名乗ってさえいない。
こうしてはいられない。
サイラスは、勢い込んで言った。
「ぼくの名前は」
「待って。言わなくていいわ」
「え……」
サイラスは、勢いを削がれ、ショックのあまり俯いた。
名乗らせてくれないということは、少女は、サイラスと仲良くなりたいと思っていないのだ。
サイラスは、この世の終わりのような情けない声で、未練がましく尋ねた。
「……どうしてもだめ?」
すると、少女、もとい"ヴェロニカ"は、口元に手を当てながら、思案するように言った。
「だめというか……君の名前は、もう知っているもの。君は"少年"くんでしょう?」
確かに、サイラスの年の頃は、少年といって差し支えない。
だが、それは自分の名前ではなかった。
サイラスは、どうしても"ヴェロニカ"に、自分の名前を呼んでほしかったのだ。
理由は、よくわからなかったけれど、サイラスとしては切実な願いである。
どう伝えれば、わかってもらえるだろうか。
サイラスが頭を悩ませていると、遠くの方から女性の声が聞こえてきた。
「どこにいるの〜?出てきなさ〜い」
その瞬間、"ヴェロニカ"は、弾かれたように、振り返った。
「いけない。お母様だわ。わたし、もう行かないと」
「そんな……」
サイラスは、眉を下げた。
もっと、"ヴェロニカ"と一緒にいたい。
仲良くなりたい。
サイラスの名前を呼んでほしいと、そう思った。
「……また、会える?」
手籠を抱え直し、今にも立ち去ろうとする"ヴェロニカ"の前に回り込んで、サイラスは泣きそうになりながら尋ねた。
"ヴェロニカ"は、目を丸くして、サイラスを見つめていたが、ふと手籠の中に視線をやり、ニッコリ微笑んだ。
「これをあげるわ」
「?」
手籠から取り出したものを、少女は、サイラスに向かって差し出す。
差し出されるままに、サイラスはそれを受け取った。
「これは……」
「じゃあね、"少年"くん」
そう言い残し、サイラスが止める間もなく、"ヴェロニカ"は、パチャパチャと泥土を跳ね上げながら、走り去ってしまった。
サイラスはなすすべなく、グングン小さくなる"ヴェロニカ"の後ろ姿を見つめ続けた。
なんだか、今までの出来事がすべて白昼夢のように感じる。
果たして、"ヴェロニカ"は、本当に実在したのだろうか。
そんな夢とうつつの狭間のような、フワフワした気分を破ったのは、硬質な声音だった。
「サイラス?なにをしているのですか?」
現実に引き戻されるように、サイラスは声のした方向に顔を向けた。
すでに、声の正体はわかっている。
「母上……」
見慣れた、マリーの厳しい表情を見やる。
彼女は、サイラスを咎めるように言った。
「もう、休憩はおしまいです。早く屋敷に戻りなさい。いつまでも、油を売っていてはいけませんよ」
そこまで一息に言ったマリーは、ふと、サイラスの手元に視線をやった。
「それは……ネリネ?この時期に、珍しいですね。早咲きかしら」
「え?」
「サイラス、その花はどうしたのです」
マリーに指摘されて初めて、サイラスは先ほど"ヴェロニカ"に手渡されたものに気付く。
ーーーそうだ、これが。この花が、少女が実在したことの証明ではないか。
サイラスは、じっと手元の花を見つめた。
ネリネという名らしい。
キラキラと輝く花びらが美しいなと、思った。
サイラスは、大切そうに花を握りしめながら、言った。
「……女の子に、もらいました」
マリーは、最初、眉を寄せていたが、ややあって「女の子……ああ、あのーーーね」と呟いた。
サイラスには、残念ながら、よく聞き取れなかったが。
「さあ、とにかく屋敷に入りましょう」
マリーは、そうキッパリ言い、傘を持ち直した。
どうして、傘を持っているのか、少し不思議に思ったが、サイラスはあまり深く考えなかった。
頭の中は、"ヴェロニカ"のことでいっぱいだったからだ。
その夜、サイラスは眠る前に植物図鑑で、こっそり調べた。
一輪挿しにさしたネリネを、チラリと見て、微笑む。
ネリネの花ことばは『また逢いましょう』だった。
それが、ひどく嬉しい。
ーーー"ヴェロニカ"と、また会える。
サイラスは、そう確信した。
"ヴェロニカ"がくれたネリネは、ピンとまっすぐ天井に向かって伸びている。
きっと、約束を違わない。
そんな決意の表れのように感じて、サイラスは幸せな気持ちになった。




