19
リリーの親友であるモリー・マクゴイルは、まるで少女のような軽やかな足取りで、古書店から出てきた。
胸には、大切そうに一冊の絵本を抱えている。
弾む心そのままに、彼女の眼鏡の奥の瞳は笑っていた。
ーーー掘り出しものを見つけたわ。リリーにあげたら、きっと喜んでくれるわね。
彼女の頭にあったのは、リリーの喜ぶ姿である。
モリーは、今日たまたま入った古書店で、昔流行った『花の魔法使い』という絵本の初版本を見つけたのだった。
状態が良い上に、稀少な初版本とあって、心配性なモリーにしては珍しく、即決で購入した。
モリーの年頃の女性であれば、みんな一度は子どもの頃に読んだであろう、この絵本は、もちろんリリーも大好きである。
プレゼントすれば、必ず喜んでくれるだろう。
ーーー懐かしいわ。昔、よくリリーと魔法使いのマネをしてあそんだのよね。
絵本の中の主人公の少女になりきり、花の杖で、少年に魔法をかけるシーンが、二人は好きだった。
モリーはパラパラと絵本をめくり、その場面を探し当てた。
***
「もう泣かないで。わたしが、魔法であなたに元気をあげる」
「魔法?」
「そうよ。これが、魔法の杖なの」
少女は、青紫色の花を取り出しました。
少年は、虎の尻尾みたいな形のその花を、不思議そうに見つめます。
「さあ、見てて」
少女は、花先を少年の頭に向けて、弧を描きました。
「魔法、魔法。元気になあれ」
すると、どうでしょう。
頭上に虹ができ、色とりどりの花々が躍っているではありませんか。
「なんて、綺麗なんだ。すごいよ」
もう、少年は泣いていません。
そこには、花が咲き綻ぶような笑顔の少年と少女がいました。
二人は、誓い合います。
必ず、また会おうと。
***
「ここで、次巻に続くのよね」
シリーズものということで、この後、二巻、三巻と続いていくのだが、少年と少女はなかなか再会を果たせず、最終巻になって、ようやく、大人になった二人が出会えるストーリーになっている。
魔法がつかえるならば、さっさと会えないものかと、子どもの頃はヤキモキしていたのだが、作者は、どうやら魔法は万能ではなく、自分の力で幸せを掴みとることに価値があると言いたかったのだと、大人になって気付いた。
確かに、その通りではある。
あるのだが、女性は合法的な奴隷であると言われている現在の社会で、女性が幸せを自力で掴むのは至極難しいであろうことも、モリーは大人になって、わかってしまった。
わかりたくなかったが、仕方がない。
花をつんで、魔法使いごっこをしていた、あの幼い少女時代には、もう戻れないのだから。
モリーは、そっと絵本を閉じ、路肩に駐車する馬車に近寄った。
「待たせてしまって、ごめんなさい。買い物は終わったから、そろそろ家に……」
そこで、モリーは口を閉ざした。
視線は、道路沿いに注がれている。
無意識に、眼鏡に触れて、目を細めた。
「あれは……リリー?」
反対車線を、ちょうどマクファーレン家の馬車が走っている。
窓際に映るリリーの横顔を見とめたモリーは、手を挙げて呼び止めた。
「リリー!ちょっと待って!」
しかし、リリーが乗る馬車は、あっという間に走り去ってしまった。
積荷が見えたので、遠出するのかもしれない。
途中、大通りをそれて、街道に続く道へと向かう馬車の後ろ姿を見つめながら、思わず、モリーは肩を落とした。
ーーーせっかくだから、絵本を渡そうと思ったのに……。
だが、行ってしまったものは仕方がない。
また、今度、渡せばいいと思い直した。
「でも、あんなに慌てて、どこに行くのかしら」
モリーは、首をかしげた。
あの方向から察するに、首都を離れて、隣国まで行くのだろうか。
いや、リリーの実家は、隣国との国境沿いにあるので、そこに向かっている可能性もある。
どっちみち、ここからは遠く離れているので、帰ってくるのは、だいぶ先になる。
絵本を渡すのは、おそらく数ヶ月後、いや、下手したら、半年、一年後になるかもしれない。
それに、リリーが出かけた理由も気になった。
あんなに急いでいるからには、きっと重大事なのだろうが、心配性なモリーは、最悪の事態を想定して、表情を曇らせた。
もし、リリーや彼女の家族になにかよくないことが起きて、そのために急いでいるのだとしたら……
「やあ」
「!」
モリーは、飛び上がるほど驚いた。
もの思いにふけっていて、近づいてくる人物に気づかなかったからだ。
あまつさえ、声をかけてきたのが、思わぬ人物だったので、さらに鼓動は早鐘のように鳴っている。
モリーは、眼鏡の位置を直しながら、そっと言った。
「驚かせないでください、スペンサー卿」
少し責めるような口調になってしまったが、スペンサー卿ことフレデリック・スペンサーは、特に気にした様子を見せなかった。
「ごめん、ごめん。君を見かけたから、思わず、声をかけちゃったんだ。それより、さっきはどうしたの?珍しく大声を出していたようだけれど」
「そ、それは……」
モリーは、まごついた。
まさか、馬車に向かって叫んでいるところを見られていたとは、思わなかったのだ。
モリーは、言い訳するように、言った。
「はしたないところをお見せして、申し訳ありません。でも、これには理由があるのです。先ほど、リリーが乗る馬車を見かけたものですから、呼び止めようとして、それで……」
「え?リリーがいたの?」
フレデリックは慌てたように、道路側に視線をやって、周囲を確認した。
「リリーは?どこ?」
「いえ、彼女はもう行ってしまいました……」
「そう……」
肩を落とすフレデリックに、モリーは首をかしげながら、尋ねた。
「もしかして、リリーになにかご用ですか?」
「え?ああ、うん。実は、そうなんだ……」
歯切れ悪く頷くフレデリックを、モリーはじっと見つめた。
ウィンターベル侯爵フレデリック・スペンサーは、金色の明るい巻き毛と、愛くるしいアーモンド形の瞳が、なんともチャーミングな美男子である。
モリーより二、三歳ほど若いのだが、背が高いわりに、ほっそりしているので、なんとなくもっと年下に見えた。
いつもお洒落に気を遣っており、その容姿と相まって、社交界では主に年上女性から人気がある。
彼には、姉が三人もいるので、女性の扱いにも慣れたものだ。
それゆえの年上人気だろうと思われた。
そんな少年らしさが抜けきらないチャーミングなフレデリックは、頭をかきながら、言った。
「もうすぐ八月だろう?今年も、集まれないかと思ってさ」
「ああ」
モリーは頷いた。
フレデリックが言っているのは、二年前から開催している『ユリの鑑賞会』のことだろう。
といっても、本当にユリを鑑賞するわけではない。
もともと、リリーとフレデリックが会うための口実として設けられた会だからだ。
二人きりでは支障があるので、カモフラージュとしてモリーたちも参加する。それだけだ。
集まりの内容はどうでもいいのである。
開催場所が、リリーの実家のタウンハウスなので、ユリを名目にしているに過ぎなかった。
「でも、あなたもわかっていらっしゃると思いますが、リリーは再婚したばかりです。今年は、無理ではないでしょうか」
「わかっているけど、どうしてもリリーに会いたいんだ。それに、彼女なら優しいから、きっと来てくれるよ」
「………」
こういう時、モリーは彼らの関係がよくわからなくなる。
リリーとフレデリックは、傍で見ている限り、友人同士だった。
本人たちも、そう言っているので、間違いないだろう。
リリーはモリーに嘘をつかないし、フレデリックはすぐに顔に出るので、嘘をつき通せないからだ。
ただ、それにしても、彼らの関係は不思議だと思う。
もともと愛人関係ではないかと疑われているので、普段は顔を合わせないようにしている二人が、八月にさしかかると必ず会うのだ。
二年前は、八月の下旬。
昨年は、八月の中旬頃だった。
やはり、ジェイソンの死が関係しているのだろうかと、モリーは考えた。
ジェイソンの命日は、八月十日である。
彼の死後、二人が決まって、八月に会うようになったことからも、その予想は外れていないはずだ。
ただ、なんのために会っているのかは、よくわからなかった。
リリーは、ジェイソンの死を悼んでいるのだと言う。
フレデリックは、ジェイソンの親友であったので、親交の深い者同士、積もる話があるのかもしれないが。
ただ、フレデリックは、どうしても会いたいといった様子なのに対して、リリーはあまり乗り気ではないのが気にかかる。
いつも、フレデリックに懇願されて、リリーが折れるといったていなのだ。
集まりでの、二人の様子も奇妙だった。
二人はモリーたちを放っておいて、顔を突き合わせてなにかを話し合っているのである。
いや、正確には、フレデリックが一方的に喋っていて、リリーが相槌を打つ感じだが。
二年前など、フレデリックは目を真っ赤にして、泣き腫らしていたので、二人がただの友人同士だとわかっていても、どんな会話がなされていたのか気になって仕方がなかった。
リリーは、ただジェイソンの昔話をしていたのだと言ったが、それでどうして、フレデリックがあんなに泣くことに繋がるのか。
モリーの疑問は、膨れ上がった。
昨年も、やはりフレデリックは悲しんでいたからだ。
いや、ジェイソンの死を悼んでのことなのかもしれないが、それにしたって異常である。
フレデリックが落ち込むのを、リリーが慰めるといった様子だからだ。
いったい、この二人はどういう関係なんだろう。
友人同士であるのはわかるが、モリーの知らない事情がまだありそうだった。
「リリーは、おそらく遠出したと思います。どっちみち、帰りはいつになるかわかりませんわ。八月中に戻ってこない可能性もありますし」
「そんな……」
「どうしてもと仰るなら、リリー抜きで集まりますか?どなたか、キャトリー卿と仲の良かった方を呼んで」
「………」
無言で、首を横に振ったフレデリックを見て、やはり彼はリリーに会いたいのだろうなと、モリーは思った。
ただ、こればかりは仕方がない。
お互い、独身だった頃とは違い、今やリリーは既婚者なのだ。
もちろん、夫の許可が出れば、また話は違うだろうが、サイラスがわざわざ妻を、愛人と目される人物に会わせるわけがないので、その考えを捨てる。
モリーは、慰めるように、フレデリックを見つめた。
「スペンサー卿。その、元気を出してください」
「うん……」
フレデリックは、眉を下げて、力なく頷いた。
悲壮感を漂わせながら立ち去る、彼の後ろ姿を、モリーは見えなくなるまで見送った。