18
マリーに屋敷を追い出されてから、数ヶ月。
リリーは、実家に身を寄せていた。
実家といっても、住み慣れた領地の屋敷ではなく、社交界シーズンだけ利用するウォリンジャー家所有のタウンハウスだ。
今は、両親も弟も、モンゴメリーの領地に引っ込んでいるので、リリーは一人で、そのタウンハウスに滞在している。
リリー・ハウスと称される、このタウンハウスは名前の由来通り、庭にたくさんのユリが咲いている。
もともとは、リリー男爵という貴族のタウンハウスだったのを、リリーが産まれて間もない頃、売りに出されていたため、リリーの父親であるジョージが購入した経緯がある。
リリーは、自分と同じ名前のこのタウンハウスを、とても気に入っていた。
もちろん、ユリの花も、同じ理由で大好きである。
このタウンハウスを管理しているのは、初老の男性だ。
彼は、リリーが突然帰ってきても、何も詮索しなかった。
心得たように頷いて、優しく迎え入れてくれたので、リリーは非常に感謝していた。
「奥様、本日もお庭に行かれるのですか?」
この管理人、名をハンクと言うのだが、実は、リリーの前の夫であるジェイソンに仕えていた執事である。
一人息子であったジェイソンの死後、爵位は遠縁の者が継ぐことになったのだが、ハンクは「自分が主人として仰ぐ方以外に仕える気はありません」ときっぱり宣言して、執事の職を辞したのである。
その後、たまたまこのタウンハウスの管理人が隠居し、リリーの父親であるジョージが新しい人を探していたので、リリーが口利きし、見事、ハンクは管理人として再就職するに至ったのである。
ジェイソンの妻だったリリーは、子を成さなかったので、すでにキャトリー家の人間ではなかったのだが、ハンクとしては、仕えるべき主人という認識だったらしい。
いまだに、リリーのことを"奥様"と呼ぶのは、それゆえである。
本来であれば、リリーの母親であるアリシアが"奥様"なのであるが、ハンクはアリシアのことを"大奥様"と呼び、本人も構わないと言うので、この呼び方が定着し、今に至る。
リリーは、相変わらずの様子であるハンクに、微笑んだ。
「そうね。今日もお庭でユリを見て過ごすわ」
「かしこまりました」
サイラスの屋敷の庭には、ユリの花が一本も咲いていなかったので、このタウンハウスに滞在するようになってからというもの、リリーは頻繁に庭に出ては、ユリを鑑賞していた。
今日も、例に漏れず、庭に行こうと、腰をあげた。
同時に、ハンクもついてこようとするので、丁重に断る。
両親が領地に引っ込んでいるので、今、このタウンハウスには使用人がいない。
ハンクがほとんど一人で管理人の仕事をこなしており、やるべき仕事は山積みだった。
これ以上、ハンクの仕事を増やすのは、本意でない。
「一人で大丈夫よ。行ってきます」
渋るハンクを残し、勝手知ったるなんとやらで、さくさく目的地まで進む。
庭先に出た途端に、色とりどりのユリが風に揺れている様が、ここからでも確認できる。
リリーは、知らず、微笑んでいた。
心浮き立つ思いで、花壇に一歩近づこうとして、足を止める。
ちょうど、玄関に続く砂利道を歩く人影を見とめたからだ。
玄関口と庭先は、ほぼ隣接しており、垣根の背も高くない。
その人物の横顔は、よく見えた。
「レイチェル?」
リリーが呟くと、小さな声音だったにも関わらず、その人物は頭をこちらに向けた。
やはり、それはレイチェルだった。
外套を羽織っているので、普段見慣れたメイド服とは雰囲気が違うものの、間違いない。
なにやら思いつめた様子が気になって、リリーは駆け寄った。
「どうしたの?わざわざ、こんなところまで。一人?なにかあったの?」
心配顔で矢継ぎ早に尋ねると、レイチェルは首を横に振った。
「わたし一人で来ました。特に、なにかあったわけではありません。ただ……」
俯くレイチェルに、リリーは首をかしげた。
「大丈夫?なんだか、元気がないわね。よかったら、中に入って、お茶でもいかが?」
「いえ、結構です。もうお暇しますから。ただ、奥様の顔を拝見したかっただけなんです。それに……」
最後は尻切れとんぼのようになっていたので、「なあに?」と促す。
ややあって、レイチェルは顔をあげた。
なにかを決意したような、そんな表情である。
「奥様は、いつお屋敷にお戻りになるのですか?」
「………」
リリーは、答えられなかった。
義母のマリーに追い出されてしまった以上、そうそう簡単に屋敷に戻れるとは思えない。
誤解を解いて説得するにしても、もう少し時間が必要だった。
それほどまで、マリーの剣幕は凄まじかったのである。
だから、リリーは困ったように、微笑んだ。
「今すぐ、とはいかないわね」
「もしかして……」
レイチェルは今にも泣き出しそうな表情で言った。
「奥様がお戻りにならないのは、わたしのせいですか?」
「え?」
意外なことばに、リリーは目を瞬かせた。
「わたしが奥様の詩集を台無しにしてしまったから……だから、奥様は戻っていらっしゃらないのではありませんか?」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「わたし、あれから反省しました!もう仕事中にお喋りに夢中になって、粗相することはありません!いつも黙って、仕事に励んでいます!本当です!アンさんにだって、一度も叱られていません!メイド仲間のみんなには、変な物でも食べたんじゃないかって疑われていますが、誤解です!わたし、拾い食いなんて、はしたないことしません!いえ、昔はしていましたが……でも、過去のことです!わたしは生まれ変わったんです!無口で働き者の立派なメイドになったんです!」
リリーは一瞬、ポカンとした。
しかし、不意におかしくなって、吹き出す。
「どうして笑うんですか……」
口を尖らせるレイチェルに、リリーはさらに笑みを深くした。
「ごめんなさいね。笑ってしまって。ただ、おかしくて……」
「?」
「レイチェル、あなたは誤解しているわ。わたしが戻らないのは、あなたのせいじゃないの。わたしが悪いのよ。だから、あなたが責任を感じる必要はないわ」
「……」
レイチェルは探るような視線をよこしてきた。
リリーは安心させるように頷き「本当よ」と請け合った。
リリーは、内心おかしくてたまらなかった。
レイチェルも、あの日のリリーとマリーとのやり取りは知っているだろうに、自分に責任があると思い込んでいる。
真面目なのか、ただの心配性なのか、よくわからない。
ただ、それを引っくるめて、愛嬌があって可愛いなと思った。
「でも、残念ね」
「……なにがでしょうか?」
「あなたが、お喋りするのをやめてしまったことよ。わたしね、あなたの楽しそうな話し声を聞くのが好きだったの」
「!」
レイチェルは、ハッとしたように、リリーを見つめた。
リリーはその視線を、笑顔で受け止めた。
レイチェルに言ったことは本当だった。
なにを話しているのかはわからなかったが、レイチェルの周りにはいつも誰かいて、楽しそうにお喋りしている様を、密かに羨ましく思っていたのだ。
リリーには友人が少ないので、そういう経験があまりなかった。
だからこそ、話の輪には入れずとも、風にのって耳に届く、レイチェルの無邪気な笑い声がたまらなく好きだった。
「アンには内緒よ?」
人差し指を口に立てて、クスクス笑うと、ようやくレイチェルの表情にも笑顔が戻った。
その刹那。
「奥様?」
話題にあがったアン本人が、なぜか背後におり、リリーたちは飛び跳ねた。
いつの間に、現れたのだろう。
まったく気が付かなかった。
「まあ、驚いたわ。アン、いつからいたの?」
「たった今でございます」
であれば、先ほどの話は聞かれていないだろう。
リリーは、こっそり息をついた。
見れば、レイチェルも同様に安堵している。
「奥様、ご無沙汰しております。お元気そうでなによりでございます」
「ありがとう。アンも元気そうね。会えて嬉しいわ」
数ヶ月、合わなかっただけだが、久しぶりに見たアンの顔が、ひどく懐かしい。
リリーは、にっこり微笑んだ。
対して、アンは胡乱そうに、レイチェルを見つめた。
「ところで、レイチェル。あなたは、ここでなにをしているのですか。今日はお休みの日でしょう?」
「そ、それは……」
「偶然、会ったのよ。久しぶりだったから、話し込んじゃって。引き留めて申し訳なかったわ」
「……そうでございますか」
リリーが間に入ったことで、アンは引いてくれた。
そのことに、ホッと胸をなでおろす。
「そういえば、アン。あなたは、どうしてここに?」
「ああ、そうでした。突然、お邪魔してしまい申し訳ありません。本来であれば、ご連絡してから伺うべきところ、緊急事態でしたので、急ぎ参りました。実は、旦那様のことで、ご相談したいことがあります」
そこで、アンはレイチェルに鋭い視線を送った。
「レイチェル、あなたはもう帰りなさい。いつまでもお邪魔していては、奥様にご迷惑ですよ」
「は、はい!わかりました!……それでは、失礼いたします」
リリーをチラチラと伺う様子から、レイチェルはもう少し留まりたいと思っているのかもしれない。
だが、アンに睨まれては、抗うすべがないだろう。
レイチェルは、後ろ髪引かれるようにして、立ち去った。
リリーは内心で苦笑しつつ、アンに向き直った。
「とりあえず、アン。入ってちょうだい。お話はそれからにしましょう」
「ありがとうございます」
リリーは応接間まで、アンを案内した。
アンは「お構いなく」と言ったが、せっかくなので、紅茶を入れて、カップを手渡す。
恐縮したように受け取るアンを見つめながら、リリーは切り出した。
「じゃあ、さっそくだけど、お話を聞かせていただける?サイラスのことだったわよね」
「はい。その前に、一言よろしいですか?わたくし、エルバートから、旦那様とシドニー公爵夫人のことを伺いました。事情を知ったのは、今朝方ですが」
「まあ、そう……」
なんと言っていいかわからず、言い淀む。
アンも、サイラスの恋人事情など知りたくなかっただろうに。
だが、アンが事情を知っていてくれれば、いろいろと助かることもあるかもしれない。
これは、これで良かったのだと、リリーは思うことにした。
「でも、今朝方って、どうして?」
「はい。実は、旦那様に同行した従者から、今朝方、便りがあったのですが、急ぎの連絡でしたので、わたくしが中身を確認しました」
それで、事情を知ったというわけか。
リリーは、頷いた。
「その急ぎの連絡ですが」
「なあに?」
「シドニー公爵夫人のことでした」
「?」
「……夫人が亡くなったそうです」
リリーは、表情を曇らせた。
ヴェロニカとは、ほとんど面識がなかったが、誰であれ、人の訃報を聞けば悲しくなるものだ。
愛する人を亡くしたサイラスの悲痛は、リリーの比ではないだろう。
サイラスのことを思うと、やはり心が痛い。
リリーは声を落として呟いた。
「残念ね。彼女は苦しんだのかしら」
「詳しいことはわかりません。ただ、最期は安らかに逝ったそうです」
「そう……それだけが救いね」
苦しまずに逝ったのであれば、それに越したことはない。
リリーは、そっと瞳を伏せた。
心の中で、ヴェロニカの冥福を祈る。
しばらくして、リリーは尋ねた。
「ところで、サイラスはどんな様子?大丈夫なのかしら」
やはり気になるのは、そこだ。
リリーも、ジェイソンが死んだ時は、あまりの悲しみ
で、茫然自失しそうになった。
サイラスのヴェロニカに対する想いを考えると、心配でならない。
「実は、そのことで参りました。旦那様は悲しみのあまり自暴自棄になっているそうなのです」
「まあ、可哀想に……」
リリーには、サイラスの気持ちが手に取るようにわかったので、思わず同情した。
今まで隣にいてくれた人が、もういない。
ただ、それだけのことが胸を刺す痛みとなって、返ってくるのだ。
二度と笑いかけることも、触れることも叶わない、その人を想って。
ただ泣くことしかできない。
その無力感たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。
リリーは、眉を下げて、俯いた。
「奥様?大丈夫ですか?」
「ええ、ただ、サイラスが心配で……」
「僭越ながら、わたくしやエルバートも同感でございます。旦那様のことが心配でなりません。そこで、ご相談なのですが、奥様に旦那様の元へ行っていただけないかと思いまして」
「それは…」
リリーは、言い淀んだ。
別に、行くのを渋ったわけではない。
サイラスが嫌がるのではないかと思ったのだ。
サイラスは、リリーのことを嫌っている。
そんな相手に、今、サイラスが傍にいてほしいと思うだろうか。
答えは否である。
リリーは、慎重に言った。
「わたしは、その……行かないほうがいいんじゃないかしら。ほら、サイラスもその方が……落ちつけるだろうし」
自分で言っていて情けなくなるが、事実なので仕方がない。
今は、サイラスの精神衛生を最優先にするべきだろう。
「それが、そうもいかないのです」
「どういう意味?」
「……今、旦那様の元に、大奥様がいらっしゃるからです」
リリーは首をかしげた。
サイラスの母親であるマリーが傍についているのであれば、なにもリリーが出て行くこともあるまいにと、思ったのだ。
いくらマリーでも、悲しむサイラスを目の前にして、叱りつけはすまい。
出奔したことで腹を立ててはいても、サイラスは彼女の大切な息子である。
彼に寄り添ってあげるはずだ。
しかし、眉根を寄せているアンの様子を見て、リリーは嫌な予感がした。
「もしかして、お義母様はサイラスを責めたの?」
「はい……」
リリーは、開いた口が塞がらなかった。
「大奥様は、旦那様を軟禁し、ひどく叱りつけてから、無理やり連れ帰ろうとなさいました。その間に、シドニー公爵が夫人のご遺体を連れ帰ってしまいましたので、旦那様は十分にお別れもできず、ひどく取り乱されて……正直、手がつけられない状態です」
「………」
リリーは、サイラスのことを思った。
ただでさえ、ヴェロニカの死で苦しいのに、ろくにお別れもできなかったとあれば、どれほどの悲しみを感じていることだろう。
しかも、マリーはサイラスを慰めなかった。
実の母親であれば、悲しむ息子を前に、責めたりなどしないはずなのに。
それでは、あまりに……あまりに、サイラスが不憫ではないか。
リリーは、考えた。
サイラスには、邪魔されずに愛する人の死を悼む時間が必要なのだ。
そのための時間を確保する。
それが、今、リリーにできる精一杯のことだ、と。
「わかりました。サイラスの元に行きます」
リリーは、決意の眼差しで、言った。
サイラスを慰めてあげることは、リリーにはできない。
彼も、それは望んでいないだろう。
サイラスのためにしてあげられることは、ほとんどないと言っていい。
しかし、マリーへの盾となり、ヴェロニカの死を受け止めるまでの時間稼ぎくらいなら、リリーでもできるかもしれない。
マリーが相手である以上、使用人のエルバートやアンでは、立場上どうしても逆らえないからだ。
ーーーきっと、これがサイラスのためにしてあげられる唯一のことだわ。
ともすれば、結婚して初めて、サイラスの役に立てるのではないだろうかと考え、リリーは苦笑した。
皮肉にも、それが真実であることを、リリーだけは知っていたから。
その後、リリーは隣国へと渡った。
サイラスとは、最近ほとんど顔を合わせていなかったので、真正面から向き合うのは、約十ヶ月ぶりのことであった。




