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帰ってきた夫  作者: 西子
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レイチェルの視点

レイチェルは、自他共に認める、お喋り好きである。

その悪癖のせいで、メイド頭のアンに叱られたり、仕事がなかなか終わらず迷惑をかけたりするのだが、本人はあまり悪びれる様子を見せなかった。

彼女にとって、お喋りに勤しむのは、呼吸をするのと同じくらい、日常のことであったのだ。


というわけで、その日もレイチェルは、いつものように口を動かしていた。

リリーの部屋で、お茶の準備をしながら。

話し相手は、歳が近いメイド仲間の一人だったので、手以上に口が忙しくなる。

話題は、当然、リリーのことだった。

彼女ほど噂に事欠かない人はいない。

レイチェルにとって、かっこうの話のタネである。


「奥様ったら、いつまで旦那様と別々のお部屋で過ごされるのかしら。こんな隅っこの客間に追いやられるなんて、よっぽど嫌われているのね。いくら奥様の方に非があるとはいえ、わたしだったら、絶対に耐えられないわ。そういえば、知ってる?この間もね、奥様ったら、廊下で珍しく旦那様と鉢合わせしたんだけど、奥様が口を開く前に、手で制されてたわ。"話しかけるな。あっち行け"ってね。奥様、俯いて、踵を返してたわよ。その時の奥様ったら、まるで捨てられた子犬みたいだったわ。みっともない。まあ、旦那様の気持ちもわかるけどね。素行の悪い妻を持つと、大変なのよ」


そこまで、一気に言って、レイチェルは意地悪く笑った。

もう一人のメイドも、クスクスと忍び笑いを漏らす。

実は、こういうやり取りは、彼女たちに限らず、屋敷の中では日常茶飯事だった。

だから、別にレイチェルは、リリーに対して申し訳ないとは思っていない。

面と向かって言わないだけで、リリーに非があると、誰もが思っていたからだ。

それほど、人の先入観とはすごい。

真偽はどうあれ、よくない噂がたてば、それだけで、その人は噂通りのレッテルを貼られてしまい、中身を見てもらえなくなるのだ。


レイチェルはふと、会話が途切れた瞬間に、サイドテーブルを見た。

最初、机上にあるそれを、ゴミかと思った。

あまりにも汚らしかったからだ。

だが、よく見れば、古い詩集だとわかる。

レイチェルは、不思議に思って、手に取った。


「ちょっと、勝手に触っちゃ、まずいわ」


メイド仲間に注意されたが、レイチェルは気にしなかった。

パラパラと中を確認し、そして、含み笑いする。

それが、愛を綴った詩集だったからだ。

サイラスからは一切愛されていないのに。

いや、だからこそ、愛のことばを望むのか。

リリーがこんなものを読んで、己を慰めているのかと思うと、おかしくてたまらない。


レイチェルは、詩集をサイドテーブルに戻した。

メイド仲間に、口うるさく注意されたからだ。


「わかったってば。仕事するわよ」


目を三角にしているメイド仲間をしり目に、肩をすくめながら、カップを手に取る。

茶葉の具合を確かめるように、紅茶を注いだ。

その間も、お喋りは止まらない。

メイド仲間も、それを止めなかった。

やはり、彼女のお喋りは、聞いていて楽しいのである。

特に、他人の噂などは、内容に関わらず、興味を持ってしまうのが人の性だった。

そんな楽しいひと時を壊したのが、何を隠そう、レイチェル自身であるというのは、なんとも皮肉である。

お喋りに夢中になるあまり、レイチェルは手を滑らせて、カップを落としたのだった。

運悪く、中身が全部、詩集にかかってしまう。

レイチェルは、血の気が引くのがわかった。

急いで、エプロンの裾で拭いたが、水分をたらふく吸った紙は、変色してしまい、もうなにをしても手遅れであることは明白だった。


「わたし、知らない!全部、あなたのせいだからね!」


そう叫んで、メイド仲間は蜘蛛の子を散らすように、行ってしまった。

取り残されたレイチェルは、顔面蒼白で、その場に立ち尽くしていた。


ーーーどうしよう、怒られるわ。


屋敷の主人の奥方の私物を台無しにしてしまったのだから、当然である。

だが、叱られたり、減俸されたりするくらいならば、まだいいのだが、レイチェルが一番、恐れていたのは、解雇されることだった。

レイチェルはこの仕事を失うわけにはいかなかった。

つい、先日、父が事故で、足を怪我してしまったからだ。

働けなくなった父の代わりに、今はレイチェルが家計を支えている。

だから、解雇だけは困るのだ。

ここほど、高給な仕事は、そう簡単に見つからないだろう。

解雇されてしまえば、たちまち立ちゆかなくなる。

レイチェルは、震えながら階下へと降りていった。

足は、自然と、庭先に向かう。

ここで働く庭師とレイチェルは恋人関係にあったので、相談にのってもらおうと思ったのだ。


「あ……」


しかし、恋人ではなく、先にリリーを見つけてしまい、レイチェルは戸惑った。

まだ、どうしたらいいのか、心は決まっていない。

逃げてしまおうかと、一瞬、考えて。

しかし、それは叶わなかった。

リリーがこちらに、気付いたからだ。

声をかけられ、曖昧にことばを返す。


ーーーああ、どうしよう。わたしは、もう終わりだわ。解雇されて、家族は働き手を失うのよ。お金がないから家を追い出されて、食べる物も買えない。一家揃って、共倒れだわ。


もう限界だった。

レイチェルは、思わず、その場に泣き崩れた。

世界の終わりのような狼狽ぶりに、リリーは目を丸くしていたが、本人だけは至って真剣である。


そんなレイチェルに、リリーは優しく接してくれた。

レイチェルが落ち着くまで待ってくれたし、慰めてもくれた。

言うなら今しかない。

そう思って、全部話した。

もちろん、リリーの悪口を言っているくだりは省いて。

あらかた喋り終わった時、レイチェルは気付いた。

たとえ、正直に話して謝ったとしても、詩集を台無しにしてしまった事実は変わらない。

結局は、叱られて解雇だと。

下手したら、弁償しろと言われるかもしれない。

そんなお金はなかった。

最悪のシナリオを考え、ただただ悲しくて泣いた。


「さあ、もう泣かないで。失敗は誰にだってあるわ。これから気をつければいいのよ」


レイチェルは最初、わけがわからなかった。

リリーが責めなかったからだ。

むしろ、ハンカチをさしだし、優しく励ましてくれるほどだった。

今まで、これほど寛大な主人には出会ったことがない。

粗相がばれれば、即解雇。

それが、この業界では常識なのに。

リリーは、まったくそのそぶりを見せなかった。

しかも。


「レイチェルも、そのハンカチで涙を拭いたら、アンに見つかる前に、仕事に戻るのよ?」


彼女は確かに、言った。「レイチェル」と。

しがないメイドの一人に過ぎないレイチェルの名前を、リリーはちゃんと知っていた。

結婚式翌日に、自己紹介したきりで、その後、名乗る機会などなかったというのに。

この屋敷に勤める使用人は大勢いる。

そのうちの一人の名前と顔を覚えるのは、至難のわざだ。

よほど、日頃から使用人たちに気を配らない限り、記憶できようはずがない。

そもそも主人が、使用人のことを記憶に留めようとすることすら、稀な行為である。


レイチェルは、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

今まで、自分はなにを見てきたんだろう。

噂にばかり気を取られて、その人自身をまったく見ていなかった。


ーーーだって、彼女は……


あんなに優しくて、思いやりがある、最高の主人じゃないか、と。


レイチェルは、その日から、心を入れ替えた。

しっかり働いて、お喋りはしない。

ただ、するべきことを完璧にこなすのだ。

メイド仲間には「変な物でも食べたのかしら」と心配されたが、レイチェルは気にとめなかった。

もう二度と、人の噂は鵜呑みにしない。

他人の悪口も言わない。

真面目に仕事をする。

優しく清廉なリリーにふさわしい、立派なメイドになるのだ。

その誓いを胸に、レイチェルは今日も仕事に励むのだった。

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