マリーの視点
その日、とあるお茶会に出席していたマリーは、顔をしかめていた。
別に、機嫌が悪いわけではない。
人混みが苦手なので、思わず表情に出てしまっただけだ。
急いで、いつもの無表情を取り繕う。
実は、この無表情の方が、はるかに機嫌が悪そうに見えることを、マリーは知らない。
誰も指摘する人がいないからだ。
まだ、夫が健在であった頃は、彼が「また怖い顔になっているよ」と笑いながら教えてくれたのであるが。
その夫も、今はいない。
彼が亡くなったのは、まだ息子のサイラスが幼い時分であった。
夫亡き後、サイラスを立派に育てあげるのは、マリーの仕事となった。
というわけで、家のため、ひいては、サイラスのため、マリーは心を鬼にして、息子に厳しく接してきた。
その教育の賜物か、今や、サイラスは立派に成長し、伯爵としての仕事をこなしている。
自慢の息子だった。
年々、亡き夫そっくりに成長するサイラスを見るのは、実はひどく心が苦しかったのではあるが。
サイラスが悪いわけではないので、マリーは努めて、気にしないようにしていた。
夫と息子は容姿以外、ほとんど類似点がない。
サイラスの性格は、むしろ、マリーに似かよっていた。
真面目で、慎重。
夫のように、女あそびが激しいわけでもない。
マリーは、概ね満足していた。
ただ、一つだけ、気がかりがあった。
サイラスは、昔からなかなか他人に心を開かないのだ。
女性に対しては、特に冷めている。
言い寄られることは多かったが、特別な女性を作らない。
女性に愛は求めない、そんな態度だった。
母親としては、正直、複雑な心境である。
女性にだらしないよりは、はるかに良いのだが、サイラスの幸せを思うと、不安しか感じない。
だから、リリー・ウォリンジャーと結婚すると言い出した時、マリーはひどく驚いた。
理由を聞きたくて仕方がなかった。
なぜ、リリーなのかと。
だが、やめた。
ふと、思ったのだ。
サイラスは、もしかしたら、覚えていたのかもしれない、と。
あの夏の日、出会った少女のことを……。
だから、マリーは結婚に対して、口を出さなかった。
たとえ、リリーによくない噂が付きまとっていたとしても構わない。
彼女ならば、あるいは。
そう思ったのだ。
「前ウォーターフォード伯爵夫人ですか?」
もの思いを中断され、今度は確実に、不機嫌顔になりながら、マリーは振り返った。
瞬時に、どこかで見た顔だと思った。
サイラスの知人だと言われ、確かにそんな人もいたなと、考える。
「実は、夫人の耳に入れておいた方がいいかと思いまして、声をかけました。ええ、そうです。サイラスのことです」
サイラスの名前を出され、マリーは眉をあげた。
相手は、さも国家秘密でも告げるかのような口調で、続けて言った。
「サイラスが隣国へ渡ったのは、ご存知ですか?その本当の理由は?」
「本当の理由?サイラスは、仕事で行ったのでしょう?」
「それが、違うんですよ。サイラスは、とあるご婦人を追いかけて行ったんです」
「なんですって!?」
マリーは、彼女にしては珍しく、口をポカンと開けた。
今、聞いたことが信じられなかったのだ。
対して、相手は、若干同情するような表情で、大きく頷いた。
「そうですよね。あいつらしくありませんよね。でも、事実です」
マリーは、息が出来なくなって、思わず、胸を押さえた。
頭に浮かんだのは、亡き夫の顔だった。
そうだ。
彼も、女性の尻を追いかけてばかりいたじゃないか、と。
それを、自分は気づかないフリをして、やり過ごしてきたのだ。
サイラスは違うと、思っていたのに。
マリーは、唇を強く噛み締めた。
首を振って、冷静になれと、自身に語りかける。
顔をあげたマリーは、静かに口を開いた。
「相手の女性の方は……」
「それは勘弁してください。僕の口からは言えません」
「そうですか。あの、このことは……」
「ええ、ええ。わかっています。誰にも言いません。僕はサイラスの味方ですからね」
善良顔で請け合った相手の顔を、マリーはじっと見つめた。
身元は確かな人間であり、サイラスの知人であることもわかっている。
嘘ではないだろうと、マリーは判断した。
深々と頭を下げる。
「そんな、やめてください。礼には及びませんよ。サイラスのためじゃないですか。それじゃあ、僕は行きます。実は、ちょっと急いでいまして。ええ、それでは失礼します」
帽子を軽くあげて、足早に去って行く後ろ姿を、マリーは複雑な表情で見送った。
「わたくしも行かなければ……」
小さく呟く。
マリーは、その足で、サイラスの屋敷に出向くつもりだった。
訪問することは伝えていないが、構わない。
一刻も早く、真実を確かめなければならないと思ったからだ。
マリーは、重い腰をあげた。
そして、マリーはサイラスの屋敷で、リリーからとんでもないことばを聞かされた。
リリーは、サイラスの出奔を止めなかったという。
愚行を諌めるどころか、後押ししたわけだ。
そんなことをするメリットが、リリーにあるとは思えなかった。
常識のある人間であれば、みすみす夫を愛人の元へ行かせたりしない。
そこまで考えて、マリーは、青ざめた。
その理由に思い至ってしまったからだ。
リリーならばと、そう思って、サイラスを託した己が、恨めしい。
マリーは、その日のうちに、リリーを屋敷から追い出した。
これ以上、彼女をここに置いておきたくなかったのだ。
あとは、サイラスを連れ帰るだけでいい。
早く、彼の目を覚まさせなければ。
どこの女性か知らないが、きつく言い含める必要がある。
サイラスに、己の果たすべき義務を思い出させるのだ。
マリーは、使命に燃えた。




