16
サイラスが隣国へと旅立ち、一ヶ月が経った。
付き添っている従者からは、"無事、到着。再会叶う"との便りが届いたので、リリーは胸をなでおろしていた。
どうやら、サイラスは運良く、間に合ったらしい。
隣国で、ヴェロニカに付き添っているのだろう。
その姿を想像し、リリーは少しだけ羨ましく思った。
幸運なことに、サイラスがヴェロニカを追いかけていったことは、周囲には知られていない。
そもそも、ヴェロニカが病気で療養していること自体、知る人がほとんどいないからだ。
というわけで、サイラスが仕事で隣国へ渡ったという偽の情報だけが、今のところ貴族の間では広まっている。
もちろん、中には、サイラスがリリーとの結婚生活にうんざりして、隣国に逃げたと噂する意地の悪い人もいたけれど。
リリーは、とにかくヴェロニカとの関係さえ周囲に知られなければいいと思っていたので、あまり気にしていなかった。
ただ、ヴェロニカの夫であるシドニー公爵のことだけは気がかりだった。
彼は、どこまでわかっているのだろう。
もし、サイラスとヴェロニカとの関係を知っているのであれば、今どう思っているのか。
そして、サイラスが治療に付き添うことを、嫌がってはいないだろうか、と。
リリーは、あれこれ考えていた。
そして、それはどうやら杞憂に終わったらしい。
今のところ、公爵はまったくもって普段通りの生活を送っているからだ。
ヴェロニカに会いに隣国へ渡るでもなく、毎日、黙々と仕事に励んでいるという。
むしろ、最近は政治に興味があるのか、がむしゃらに働いて、新しい法律の制定に尽力しているらしい。
そんな彼に、妻のことを気にかけるそぶりはまったくなかった。
ちなみに、この情報は、ブラッドリー公爵夫人からいただいたものである。
淑女の中の淑女として有名な彼女は、顔が広く、独自の情報網があるようだった。
「でも、人の心はわからないわ」
シドニー公爵とは会ったことがないので、人となりはよく知らないが、噂で仕事人間であることだけは、リリーも伝え聞いている。
ただ、余命いくばくもない妻を放置して、仕事に励むような人間には思えなかった。
夫婦としてのあり方なんて、千差万別ではあるものの、なんとなく、腑に落ちない。
「まあ、わたしたちの関係も、はたから見れば腑に落ちないでしょうけどね」
リリーは、苦笑した。
思考を切り替えるように、首を振って、視線を手元に戻す。
リリーは今、サイラスにあてる手紙をしたためていた。
末尾に"愛をこめて"と書こうか、一瞬迷い、そして、やめる。
サイラスが、嫌がるかもしれないと思ったのだ。
だから、ただ"季節柄、ご自愛ください"とだけ記し、リリーは羽根ペンを置いた。
机上に積まれる様々な書類をひとまとめにし、リリーのその手紙を添えて、封筒に入れた後、リリーはしっかりと封蝋した。
同封した書類は、仕事上の細々とした連絡事項であったり、決算書類だったりするのだが、サイラスの不在時でも滞りなく仕事ができるようにとの配慮から、一定の間隔で送ることにしている。
とても大切な内容なので、信用できる屋敷の使用人に頼んで、直接サイラスに手渡してもらっていた。
わざわざ、隣国まで行ってもらうのは、大変心苦しいのだが、こればかりは仕方がない。
リリーは申し訳なさそうに、厚みのある封筒を、傍に控える従者に差し出した。
「お願いしますね」
心得た表情で、従者は頷き、足早に書斎から出て行った。
それを見送り、大きく伸びをした後、リリーは立ち上がった。
廊下をまわり、厨房を覗く。
先日、水周りの配管工事を頼んだので、使い勝手はどうか知りたかったのだ。
普段、厨房に一番長くいる料理人も、給仕係も、使いやすいとのことだったので、リリーは満足げに微笑んだ。
その後も、リリーは忙しく動き回った。
まず、庭先に行き、花壇に新しく植える花の肥料について庭師の意見を聞いたり、庭木の剪定を細かく指示したりした。
次に、リリーは庭を突っきり、屋敷裏の洗濯場へと足を運んだ。
先日、専任となった洗濯係は背が低いので、物干し竿の位置を少し低くしてもらうためだ。
念のために、踏み台も用意してもらおう。
ちょうど通りかかったエルバートを発見したので、リリーはそれらの旨を伝え、指示を出しておいた。
「さあ、次は……」と呟いたところで、リリーは視線を感じ、振り返った。
「?」
リリーは首をかしげた。
メイドが一人、真っ青な顔で、チラチラとこちらを伺っていたからだ。
確か、彼女の名前はレイチェルだった。
お喋り好きの彼女が、今日はやけに元気がない。
具合が悪いのだろうかと、リリーは心配になった。
「どうかしたの?顔色が悪いようだけれど、大丈夫?」
「奥様、わたし……いえ、体は平気です。でも……」
そこまで言って、急にレイチェルが泣き崩れたので、リリーは、目を丸くしてしまった。
事情が飲み込めないまま、腰をかがめ、背中をさすってやる。
しばらくして、レイチェルが落ち着いてきたようだったので、座り込んでいた彼女の手を取り、そっと立ちあがらせた。
「お、奥様、わたし、わたし……」
「ゆっくりでいいのよ」
宥めるように言って、リリーは目に入ったカウチまで、レイチェルを導いた。
ゆっくりと座らせ、リリーも隣に並ぶ。
レイチェルは、相変わらず、顔面蒼白のままであったが、ややあって、おずおずと話し始めた。
「わ、わたし、奥様のお部屋で、お茶のお支度をしていたんです……」
リリーは、頷いた。
そういえば、今朝、メイド頭のアンが、珍しい茶葉が手に入ったと言っていた。
レイチェルが言っているのは、おそらくその用意のことだろう。
リリーは、普段から、午後のティータイムを楽しむ時は、自室でセッティングしてもらっていた。
「それで?」
「お、奥様のベッド近くのサイドテーブルに、し、詩集が置いてありました」
「ええ、そうね」
おそらく、ジェイソンにもらった詩集のことだろう。
リリーは、昨夜も寝付くまで、飽きずに読んでいたのだ。
「詩集がどうかしたの?」
「……よ、汚してしまいました」
リリーは、びくりと肩を揺らした。
ジェイソンから貰った大切な詩集が、まさか……。
「汚すつもりはありませんでした。今日の茶葉は、少し苦味がきついから、二杯目からの方が飲みやすいと思ったんです。カップに一杯分だけ入れてみて、濃さを見ていたら、手が滑ってしまって。カップがちょうどサイドテーブルにぶつかり、中身が全部、詩集にかかってしまいました。急いで拭き取ったんですが、汚れが落ちなくて……」
最後は消え入りそうな声で、そう締めくくったレイチェルは、再び泣き始めた。
泣きたいのは、リリーも同じだったが、グッと我慢する。
レイチェルの取り乱し様はひどく、とても責める気にはなれなかったのだ。
「……詩集を見せてちょうだい」
レイチェルは、懐から、おずおずと詩集を取り出し、リリーに手渡した。
リリーは、お茶の染みで、全体的に変色したページをパラパラとめくった。
無理やり、拭き取ったからだろう。
ところどころ文字がかすんでいる。
もともと古い詩集で、色褪せてはいたのだが、やはり悲しい。
リリーは涙が出そうになるのを、なんとか堪えた。
「わざとじゃないんだから、いいのよ」
優しく語りかけるような、そんな声音だった。
レイチェルは、弾かれたように顔を上げた。
お互いに視線がかち合い、リリーは意識して、笑みを浮かべた。
「さあ、もう泣かないで。失敗は誰にだってあるわ。これから気をつければいいのよ」
「お、奥様……」
目を丸くしているレイチェルに、そっとハンカチを渡し、リリーは立ち上がった。
「さて、わたしはもう行くわ。まだ、やることが残っているのよ。レイチェルも、そのハンカチで涙を拭いたら、アンに見つかる前に、仕事に戻るのよ?」
「ど、どうして、わたしの名前を……」
「え?あなた、レイチェルじゃなかった?」
リリーは、不安そうに眉を寄せた。
彼女の名前は、レイチェルだと記憶していたのだが、間違えてしまったのだろうか。
「い、いえ。確かに、わたしはレイチェルですが……」
「よかった。勘違いじゃなかったのね」
リリーは胸をなでおろしながら、微笑んだ。
「じゃあ、わたしは行くわ。詩集のことは、本当に気にしないでちょうだいね」
励ますように、レイチェルの腕をポンポンと叩き、リリーはその場を後にした。
姿が見えなくなる位置まで移動し、足を止める。
周囲を確認し、誰もいないことを確認してから、リリーは手元にある詩集に、視線を落とした。
「仕方がないわ。こんなこともあるわよ」
そっと詩集の背をなでる。
紙でできている以上、いつかはこうなる運命だったのだと思えばいい。
「クヨクヨしちゃだめよ」
リリーは自身に言い聞かせるように、呟いた。
何度も読み返していたので、詩のほとんどは諳んじられる。
だから、問題ないはずだと、自身を納得させた。
その時。
「奥様」
突然、背後から声がかかり、リリーは飛び跳ねた。
誰もいないだろうと思っていたが、違ったらしい。
振り返ると、アンがひっそり佇んでいた。
「びっくりしたわ。なにか用?」
「……恐縮ながら、奥様。わたくし、先ほどのレイチェルとのやり取りを拝見いたしておりました」
まずいわ。
リリーは、即座に思った。
レイチェルの失態とはいえ、彼女が解雇されることを、リリーは望んでいなかった。
アンは、どこまで知っているのだろうか。
リリーは、慎重に尋ねた。
「えーと、あなたは、どこから見ていたのかしら」
「レイチェルが粗相をして、奥様の詩集を汚してしまったことを謝罪したところからです」
つまり、最初から、すべて見られていたわけだ。
リリーは、居心地が悪くなって、俯いた。
「奥様は、レイチェルを処罰なさいませんでしたね。宜しければ、わたくしの方から解雇通告いたしましょうか?」
「だめよ!」
リリーは、急いで言った。
一部始終、見ていたならば、アンにはわかったはずだ。
リリーに、レイチェルを罰するつもりはない。
「しかし、あの子の失態は解雇に値します。奥様の私物を台無しにしたのですから。そもそも、レイチェルは普段からお喋りばかりして、仕事を疎かにする子でしたし」
「レイチェルは、ちゃんと反省しているわ。今後は、仕事にもきちんと取り組むはずよ。だから、今回は大目に見てあげましょう」
「……奥様が、それで宜しいのであれば」
「宜しいのよ!」
被せ気味に言い、力強く頷く。
アンは一瞬の沈黙の後、頭を下げた。
「……であれば、わたくしから、申しあげることはありません。出すぎた真似をいたしました」
「いえ、いいのよ。あなたは、心配してくれたのでしょう?その気持ちは、嬉しかったわ」
「ありがとう」そう言うと、アンは無言で、礼をとった。
どうにか、上手く場がおさまったことで、リリーはホッと胸をなでおろした。
「……奥様、詩集を拝見しても?」
「え?ええ、構わないけれど」
アンは詩が好きなのだろうか。
リリーは、不思議に思いながらも、詩集を手渡した。
それを大切そうに受け取ったアンは、ページをパラパラとめくり、眉をひそめた。
「これは、ひどい。ほとんどのページが、お茶の染みで変色していますね。これでは、乾かしたところで意味がありません。しかも、目次のページは左上部分が破れてしまっています」
「ああ、いいのよ。そこは、もともと破れていたから」
「そうなのですか?」
リリーは、頷いた。
最初、ジェイソンにもらった時は、破れていなかったのだが、リリーの外出時は、いつも詩集をジェイソンの書斎の棚に置かせてもらっていたので、リリーがいない間に、誰かが破ったのだろうと思われた。
そのことに気づいた時は、大層ショックを受けたのだが、キャトリー家の使用人はそんなひどいことをしないので、おそらくジェイソン自身が破ったのだろう。
もともとはジェイソンの物だったし、気まぐれにリリーにくれたという感じだったので、彼はリリーほど詩集を大切には扱っていなかったのかもしれない。
だから、なにかの理由で、ジェイソンが破いてしまったのだと考えていた。
「では、この文字も、前ウィンターベル侯爵が書かれたのですか?」
アンは、その破られた箇所を指差しながら尋ねた。
彼女の指先には、ミミズがのたくったような筆跡が記されている。
それを、リリーは懐かしく思いながら、見つめた。
「そうよ。ジェイソンが、いえ、前の夫が書いたの」
「なんと書かれているのですか?これは……"cily"?いえ、"Lily"ですね。奥様に宛てたものですか?」
リリーは、なんと答えたらいいのかわからず、曖昧に微笑んだ。
リリーには、実際なんと書かれているのかわからないのだ。
ジェイソンの文字ごと、ページが破られているため、"L"と思われる文字の左上部分がざっくり斜めに欠けており、まるで"c"のようにも見えるからだ。
もしかしたら"〜cily"というように、何かの単語の語尾だった可能性もあるのだが、"cily"で終わる単語はないので、やはりこれは"Lily"と書かれているのだろうとは思うのだが。
「実は、よくわからないの。彼に直接聞ければいいんだけれど」
ジェイソンは、すでに亡くなっているので、それは叶わない。
リリーは、苦笑した。
「奥様!」
ふと、遠くから呼ばれ、リリーは顔を向けた。
見れば、エルバートが血相変えて、こちらに小走りにやってくるところだった。
思わず、アンと視線を合わせて「なんだろう?」と首をかしげる。
エルバートは、足早に近づいてくると、早口で言った。
「奥様、大変です」
「珍しいわね。あなたが、そんなに焦るなんて。どうかしたの?」
「それが……前ウォーターフォード伯爵夫人がおいでになりました」
リリーは、サッと表情を曇らせた。
とうとう来たわ。
そう考えたのは一瞬で、リリーは表情を改めるや、義母であるマリーを迎えるべく、エルバートとアンを伴って、客間へと急いだのだった。