エルバートの視点
エルバートは、眉を寄せていた。
鏡を覗いていて、自分の髪に白色のそれを発見したからだ。
老けたなと、客観的に思う。
彼は、御歳四十になろうとしていた。
エルバートは、マクファーレン家に仕えて長い。
サイラスが産まれて間もない頃から従事しているので、母親であるマリーを除き、人生の大半をサイラスと共に過ごしていると言っても、過言ではなかった。
幼い頃から、サイラスは警戒心が強く、あまり他人を信用しない子どもだったが、一度心を許した相手には別だった。
自分を素直にさらけ出すし、相手のことを誰よりも大切に扱う。
執事であるエルバートのことを、家族のように慕っているのが、良い例だろう。
サイラスは決して、身分で人を判断しなかった。
だから、エルバートは、サイラスのことを最高の主人として敬い、一人の人間として大切に思っている。
一生仕えたいと、そう考えていた。
サイラスが伯爵という爵位を継いだのは、まだ幼い時分である。
マリーは、亡くなった夫の代わりに、サイラスを厳しく育て上げた。
貴族としての素養を叩き込んだのである。
その教育の賜物か、サイラスは周囲の期待以上に、伯爵としての責務を全うした。
サイラスがもともと優秀な子どもだったこともあるだろう。
立派に領地を治め、家の繁栄に尽力した。
だが、一人息子ということもあり、サイラスにかかる重責は相当のものだった。
マリーは、あの通り、厳格な人なので、サイラスを優しく励ますようなことはしない。
息子を想っての行動ではあったが、サイラスが牧歌的な少年時代を過ごせなかったのは確かである。
サイラスがよく、独りで屋敷の裏にある馬小屋に行き、人知れず、プレッシャーと戦っていたことを、エルバートだけは知っていた。
その幼い後ろ姿を、抱きしめてあげたいと、いつも思っていた。
もちろん、それは叶わなかったけれど。
母親からの愛を実感できなかったからだろうか。
サイラスは、成年になった今も、どこか女性には冷めている。
あの容姿なので、女性の方は放っておかないのだが、サイラスから好意を寄せることは、全くといっていいほどなかった。
そんなサイラスも、今や、既婚者である。
時が経つのは、早い。
自分も歳をとるわけだと、エルバートは自嘲した。
白髪を隠すように髪を整えた後、エルバートは鏡から視線を逸らした。
彼は、今日も眠れぬ夜を過ごしている。
主人であるサイラスの帰りが遅いからだ。
これは、結婚後、もはや日常茶飯事になっているので、もう慣れたものではあるのだが。
エルバートは、浮かない表情で、窓の外を伺った。
今日もサイラスは、酒を飲んで帰ってくるのだろうか。
大幅に飲酒量が増えたので、彼の健康面を考えると、エルバートは非常に心配だった。
それもこれも、全て望まぬ結婚のせいだと、エルバートは思った。
突然、サイラスが結婚すると言い出した時、最初エルバートは非常に喜んだ。
あのサイラスが女性とようやく正しい関係を築き、向き合うことにしたのだと思ったからだ。
今は亡き、サイラスの父である前ウォーターフォード伯爵が、サイラスと同じ年頃に結婚を決意したことを思えば、身を固める時期としては申し分ない。
後継ぎのことを考えると、結婚は早いにこしたことはないのだ。
だが、結婚式後、サイラスが屋敷に連れて戻ってきた女性を見て、エルバートは落胆した。
リリー・ウォリンジャー。
サイラスに見向きもされていない、新しく妻となった女性のことを、エルバートは知っていた。
もちろん、評判のよろしくない人物として。
前の夫の死をめぐる真相についてもそうだが、なにより、愛人との不貞な噂について、眉をひそめざるを得ない。
初夜にも関わらず、サイラスにひどく拒絶されたリリーの後ろ姿を見ながら、エルバートはそう考えていた。
自業自得だ、と。
リリーは、確かに名家の出だ。
しかし、噂を鵜呑みにするなら、品行方正とは言いがたく、今回が二度目の結婚でもある。
サイラスよりも年上なので、出産のことを考えると、不安が残った。
由緒あるマクファーレン家の奥方としてはいただけない。
失礼な言いぐさだが、エルバートとしては当然の評価だった。
サイラスは、なぜ、そんな女性と結婚したのだろう。
彼は、その経緯を教えてくれないので、エルバートには想像することしかできないのだが、主人のあの怒りようを見るに、おそらく納得して結婚したわけではない。
なにかサイラスの機嫌を損ねるような方法で、本意でない結婚に至ったのではなかろうか。
当然、そういう考えに落ち着く。
リリーは噂通りの素行の悪い女性で、サイラスはひどく彼女のことを嫌っている、と。
エルバートをはじめ、屋敷の使用人は、そう結論付けた。
ただ、数ヶ月経った頃、エルバートは少しだけ、リリーに対する評価を変えていた。
相変わらず、サイラスには蛇蝎のごとく嫌われてはいるものの、この数ヶ月、観察した限り、リリーの素行は別に悪くなかった。
サイラスと比べても、むしろ、健全な生活を送っているのではなかろうか。
伯爵夫人としては、若干控えめではあるものの、妻として、屋敷のことを執り仕切る能力も十分だった。
サンルームの件では、意外な提案をして、聡明な部分も垣間見せている。
結婚に至る経緯は相変わらず不明だが、懸念したほど、悪い縁組ではなかったのかもしれない。
エルバートは、そう考えを改めていた。
「まあ、旦那様はそう思ってはいないだろうが」
最近では、全くといっていいほど顔を合わせることのないサイラスとリリーである。
これでは、世継ぎなど、とうてい望むべくもない。
「どうなることやら」
エルバートがため息をついた時だった。
玄関のドアが開く音が聞こえたのだ。
ようやくサイラスが帰ってきたらしい。
エルバートは、居住まいを正し、普段通り、主人を出迎えた。
「旦那様……」
お帰りなさいませ。
そう続けようとして、エルバートは押し黙った。
サイラスが手を挙げて、それを制したからだ。
「挨拶はいい。急いでいる。これから、隣国へ向かうから旅支度を頼む」
かしこまりました、とは、当然言えなかった。
なにやら鬼気迫る様子のサイラスに、嫌な予感がしたのだ。
エルバートは、努めて、冷静な声音で言った。
「それは、なんとも急なことですね。理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「………」
サイラスは、言いづらそうに、視線を逸らした。
エルバートは、黙って、ことばが紡がれるのを待つ。
基本的に、サイラスは嘘をつかない。
そういう誠実なところが、エルバートは大好きだった。
だからこそ、この主人に長く仕えているし、盛り立てたいと考えているのだ。
「実は……」
当のサイラスが、言いよどみながらも、口を開く。
エルバートは、静かに耳を傾けた。
「大切な人がいる。ヴェロニカだ」
「ヴェロニカ?その方は……」
「シドニー公爵夫人だ。わたしは、彼女を追って、隣国へ行く」
エルバートは最初、開いた口が塞がらなかった。
今、サイラスはなんと言った?
公爵夫人を追って、出奔すると言わなかったか。
即座に、エルバートは反対した。
「なりません!それだけは、絶対になりません!」
普段、決して声を荒げることのないエルバートの激しい口調に、サイラスは一瞬、驚いたようだった。
しかし、すぐに表情を改め、エルバートに言った。
「どうしても行きたいんだ」
「なぜ……なぜ、旦那様は、それほどまで、公爵夫人を追いかけたいのですか」
エルバートの問い詰めるような視線に、サイラスは決して目を逸らさなかった。
しっかり、エルバートの顔を見つめながら、口を開く。
「彼女は病気だ。だから、行く」
シンプルに言って、サイラスは腕組みした。
絶対に引かない。
そんな態度だった。
エルバートは、思わず、眉をひそめる。
それが一体、なにを意味するのか、サイラスは本当にわかっているのだろうか、と。
その表情が物語っていた。
エルバートは、みすみす大切な主人の評判を地に落とすことはしたくなかった。
なにがあっても、守りたい。
そう考えていた時だ。
リリーが、エルバートたちに声をかけてきたのは。
これ幸いと、エルバートはリリーに事情を説明した。
サイラスには睨まれたが、構うものか。
今は一人でもいいから、味方が欲しかった。
サイラスの軽率な行動を止めるために。
エルバートは、必死だった。
案の定、リリーはエルバートと同意見だったらしい。
控えめながらも、的確にサイラスを諌めてくれた。
ただ、残念なことに、リリーのその諫言をもってしても、サイラスの考えを改めさせることは叶わなかったが。
ただ憤慨させてしまっただけだったので、立ち去るサイラスの後ろ姿を見送りながら、リリーと二人、困ったように視線を合わせる。
エルバートは、その時点で、叱責覚悟で、サイラスを止めるつもりだった。
多少であれば、実力行使も厭わない。
そういう心構えだった。
しかし、それは結局、リリーのことばで霧散した。
彼女は言った。
「サイラスを送り出しましょう」と。
エルバートは、唖然とした。
リリーにも、わかっているはずだ。
この逃避行が、どういう結果に終わるのか。
周囲に知られた時、伯爵としての立場がどうなるのか。
その危険性を。
彼女は、ちゃんと理解しているはずなのに。
「なぜ」と。
エルバートは問いかけた。
リリーは、しかし、それには答えず、別の質問を投げかけてきた。
愛する人を失ったことがあるか。
そう言ったリリーの横顔が、なんとも切なげで、エルバートは思わず、彼女を見つめてしまった。
その表情から、理由を押しはかるように、決して視線はそらさない。
すると、リリーは呟くように、そっと言った。
「……サイラスに、愛する人を看取らせてあげましょう。それができなければ……彼は、きっと壊れてしまう」
そのことばに、エルバートは衝撃を受けて、目を見開いた。
リリーは前の夫を亡くしている。
噂の真偽はどうあれ、そこは事実だ。
つまり、リリーは突然、夫の死と直面したわけである。
ーーー彼女に、夫を看取る機会はなかった。
そのことがわかってしまったから。
エルバートは、思わず俯いた。
リリーの悲しみの一端に触れたような気がして、心がひどく騒ついてならない。
夫の死という痛みが、今なお、病となって、彼女自身を蝕んでいる。
そう思えてならなかった。
ややあって、エルバートは礼をとった。
その頃には、心は決まっていた。
サイラスにヴェロニカを看取る機会を与えたい。
リリーのその考えに、エルバートが同調した瞬間だった。
それを受けて、リリーが安堵するように息を吐き出すのを見ながら、エルバートは、ふと呟いた。
「奥様は……」
なんて、慈悲深い方なんでしょう。
その囁きは、リリーの耳には届かなかったけれど。
エルバートは、強く自覚した。
この人に、心から仕えたいと。
彼女ほど心根の優しい、善良な女性はいない。
そんな主人のもとで働ける。
これ以上の誉れはなかった。
サイラスもいつか、そのことに思い至るだろう。
リリーのような素晴らしい女性を娶ることができた幸せに。
早く気付いてほしい。
エルバートは、そう願うのだった。