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帰ってきた夫  作者: 西子
16/126

15

リリーは、その夜、ふと目を覚ました。

なにやら階下が騒がしい。

なにごとだろうと、リリーはナイトガウンを羽織り、部屋を出た。

ちょうど、階下に降りたところで、その騒音の原因がわかった。

サイラスと執事のエルバートが口論しているのだ。

いや、口論というと語弊があるかもしれない。

正確には、サイラスが言うことに、エルバートが難色を示すといった感じだ。

ただごとではない雰囲気を敏感に感じとり、リリーはそっと二人に近付いた。


「サイラス?エルバート?」


リリーが恐る恐る声をかけると、サイラスは不機嫌そうに黙り込み、逆に、エルバートは頭を下げて言った。


「奥様、就寝中のところ、お騒がせいたしまして、誠に申し訳ありません」

「いえ、わたしは別に構わないのだけれど。こんな真夜中にどうなさったの?わたしにも、できることがあれば……」

「その必要はない」


ピシャリとサイラスに言われ、リリーは急いで口を閉じた。

どう考えても、なにかあったとしか思えない状況ではあるが、サイラスにそう断言されると、これ以上、問い続けることは憚られる。

リリーは、困ったように視線を彷徨わせた。

すると、傍に控えているエルバートのそれと、かち合った。

彼にしては珍しく、無表情の仮面を取り払って、眉を寄せている。

明らかに、不穏な雰囲気だ。


「エルバート?」


そっと尋ねると、エルバートは待ってましたといわんばかりに、一歩、進み出て、口を開いた。


「旦那様が隣国へ行くと仰ってきかないのです」

「エルバート!」


サイラスが咎めるような声をあげるが、エルバートは告げ口する幼児のように、構わず続けてた。


「ご友人であるシドニー公爵夫人を追いかけるとのことです」

「!」


リリーは、何度も目を瞬かせた。

エルバートは夫人のことを"ご友人"と言ったが、二人の関係を知るリリーには、ハッキリと今の状況が理解できた。

つまり、サイラスは愛人であるシドニー公爵夫人を追って、隣国へ渡るつもりなのだ。

伯爵としての義務を放棄し、愛人と出奔すると言っているも同義である。

そんなことをすれば、間違いなく、彼らは評判を落とす。

下手をすれば、二人とも姦通罪で捕まってしまうおそれだってあるのだ。

リリーは、そこまで考えて、青ざめた。


「それは、その……得策ではありませんわ。法律的にも人道的にも許されないことです」

「仰る通りです」


エルバートは、大きく頷いた。

リリーという味方を得たことで、少し安心さえしているのかもしれない。

しかし、サイラスは違った。

相変わらず、顔をしかめながら、固い声音で言い募った。


「それでも、わたしは行く」

「サイラス……」


リリーは、諭すように、ことばを紡いだ。


「それは、できないわ。あなただって、ご自分の立場を理解されていらっしゃるでしょう?あなたには仕事があるし、貴族としての義務もある。公爵夫人のことは、その、諦めて……」

「君に指図されるいわれはない!」


諦めるという単語が、気に入らなかったらしい。

サイラスは厳しい口調で、リリーのことばを遮った。

その表情には、明らかな怒りが見て取れる。


「伯爵としての責任など、百も承知だ。君に指摘されるまでもなくね!だが、わたしは行く。行かなければならないんだ!もう放っておいてくれ!」


吐き捨てるように言って、サイラスは足音荒く、この場を去った。

おそらく、旅支度をするために、自室に向かったのだろう。

リリーは、心底、困り果てたように、エルバートを見た。


「わかります。取り付く島もありませんよね」

「ええ、本当に……」


エルバートは、そっと階上を見上げた。

どこか意を決したような表情である。


「公爵夫人を追いかけるなど、絶対になりません。わたくしは、すべてをかけてでも旦那様を止めてみせます」


リリーは目を丸くした。

普段の様子からは想像もできないほど、力強い口調だったからだ。


「しかし、それではあなたが怒られてしまいます。もし、解雇などされれば目も当てられません」

「構いません。覚悟の上です」


叱責を恐れぬエルバートに、リリーは思わず感心した。

彼は、主人であるサイラスの逆鱗に触れたとしても、隣国行きを阻止するつもりなのだ。

サイラスの将来のために。

一切、見返りを求めない。

むしろ、サイラスにその忠義を理解されようとすら、思っていないのだろう。

まさに、使用人の鑑のような行為だ。


「あなたの考えはわかりました。でも、待ってください。落ち着きましょう」


ここまで主人を思ってくれるエルバートを、みすみす手放すのは惜しい。

リリーは、お互いに冷静になって考えようと、エルバートに提案してから、ふと気になっていたことを口に出して言った。


「どうも腑に落ちないのですが、どうしてサイラスは、あれほど頑なになっているのでしょうか」


リリーは、ずっと不思議に思っていた。

なぜ、サイラスはヴェロニカを追いかけることに固執しているのか。

なぜ、あれほど必死なのか、と、

いくら愛しているからといって、公爵夫人であるヴェロニカを追いかけていけば、どういう悲惨なことになるか、サイラスが理解できないはずがないのに。

それをおしてでも、サイラスは行こうとしている。

その理由を、リリーは知りたいと思った。


「何か特別な理由があるのかしら……」


自問するように呟く。

すると、ため息まじりに、エルバートが答えた。


「先ほど、わたくしも同じことを旦那様に伺いました」

「彼はなんと?」

「………」


エルバートは疲れたような表情で、ことばを継いだ。


「旦那様はこう仰られました。"彼女は病気だ。だから、行くのだ"と」


リリーは、ハッとした。

つまり、サイラスはヴェロニカがもう永くないと、そう言っているのだ。

今、追いかけなければ、一生後悔することになると。

彼は、そう考えているのだ。


「だからなのね。だから、サイラスはあんなに必死なんだわ」


先ほどの、どこか追い詰められたようなサイラスの表情に、ようやく合点がいった。

彼は、ヴェロニカを追うことで、醜聞となり、周囲に非難されても構わないと思っている。

姦通罪で訴えられることすら、厭わないのだ。

それほどまでに、大切に想っている。


ーーーサイラスは、心から、深く。とても深く、彼女を愛しているんだわ。


リリーは瞳を閉じた。

二年前のことが、脳裏をかすめる。

ジェイソンの突然すぎる死で、リリーの無防備な心を抉った悲しみを。

愛を永遠に失った絶望感を。

そして、なにより、彼の最期を看取れなかった、その後悔を。

嫌というほど味わったではないかと、リリーは自身の心に問いかけた。


愛する人を失う、その苦しみを、リリーは誰よりも理解していた。

だからこそ、サイラスの思いが手に取るようにわかる。

サイラスはすでに心に決めているのだ。

ヴェロニカの死を受け入れ、看取る覚悟を。

それが、どれほどの痛みを伴うことになろうとも。


であれば、と。

リリーは考えた。

ヴェロニカの死はもう避けられない。

せめて、サイラスには、最期の瞬間を愛する人と過ごさせてあげたかった。

リリーには、叶わなかった。

愛する人を看取る、その機会を。

サイラスには、逃してほしくない。


リリーは、ゆっくりと瞼を開けた。

意識して、手に力を入れる。

居住まいを正しながら、明瞭な声音で、リリーは言った。


「サイラスを送り出しましょう」

「!」


エルバートは、はじかれたように顔をあげた。

信じられないものを見るような目つきで、リリーを凝視している。


「なぜ……」

「彼を行かせるのか、と言いたいのね」


リリーは苦笑した。

エルバートの疑問ももっともだと、思ったからだ。


「エルバート、あなたは愛する人を失ったことがある?」

「………」


エルバートは、何も言わなかった。

じっと、リリーの次のことばを待っている様子であった。

なにかを探るような彼の視線を受けながら、リリーは囁くように言った。


「サイラスに、愛する人を看取らせてあげましょう。それができなければ、彼はきっと……壊れてしまう」


エルバートが一瞬、息をのむのがわかった。

しばし、沈黙が周囲を満たす。

エルバートの顔は無表情で、何を考えているのか、よくわからなかったけれど。

やや間があって、彼が礼をとった様子から、了承してくれたことだけは理解した。

リリーは、ほっと息を吐き出した。

知らず、息を止めていたらしいとわかる。


「奥様は……」

「え?」


囁くような小さな声だった。

リリーは聞き取れず、「なあに?」と首をかしげる。

エルバートは一瞬、眩しそうに目を細めた。

そして、首を横に振って言った。

「なんでもございません」と。

不思議には思ったものの、本人がなんでもないと言うのであれば、そうなのだろうと判断して、リリーはさっそくメイド頭のアンを呼んだ。

彼女が、まだ起きていることは、最初からわかっていた。

アンは、睡眠時間がとにかく短い。

一日、三時間、寝るだけで十分だと公言しているくらいだ。

よって、リリーの呼び出しにも、彼女は瞬時に対応してくれた。


「こんな夜更けに、ごめんなさいね」

「いえ……」


先ほどの剣呑なやり取りが、耳に入っていたらしい。

アンの表情は、怯えと戸惑いがないまぜとなった複雑なものだった。

申し訳なく思いながらも、リリーは指示を出した。


「サイラスの旅支度を手伝ってくださる?彼は、その……お仕事で、これから隣国へ出かけるから」

「これから、でございますか?」

「ええ、急なお仕事なの。申し訳ないけれど、今すぐお願いします」

「……かしこまりました」


怪訝に思いながらも、アンが頷いてくれたので、リリーは微笑んだ。

この場を辞去する彼女の後ろ姿を、安堵した表情で見送る。

続いて、リリーはエルバートの方に向き直った。

口元に手をあてながら、思案するように、口を開く。


「何人か、使用人を同行させなければなりませんね。サイラスの身の回りのお世話ができて、隣国の事情に詳しい人がいいわ。どなたか、ご存じない?」

「隣国出身の者がおります。ある程度、気がまわる奴なので、従者としても問題ないかと。わたくしの方から、声をかけておきます」

「ありがとう。お願いしますね」


リリーは、さらに細々とした指示を出していった。

エルバートは時折、適切なアドバイスをしながら、それを従順に聞いている。

あらかた言い終わったあたりで、リリーは満足げに頷いた。


「ひとまず、今できるのは、これくらいかしらね。もし、なにか入り用になれば、順次、手配しましょう。連絡は密にね。後のことは、わたしたちでフォローすればいいし、屋敷のことも……」


そこまで言って、リリーはふと表情を曇らせた。

エルバートが「なにか気にかかることでも?」と尋ねたが、リリーはなんでもないと首を振るばかりで、答えなかった。

リリーの頭をよぎったのは、他でもない。

義母のマリーのことだった。

彼女がこのことを知れば、どう反応するか、手に取るようにわかってしまう。

自然と、ため息が漏れるのを、リリーは止められなかった。



その一時間後。

サイラスは、旅支度を終え、まるで急き立てられるかのようにして、この屋敷を去った。

リリーは彼を見送らなかった。

サイラスが、ひどく嫌がったからだ。

先ほどの剣幕を思えば、さもありなんである。

準備を傍で手伝っていたアンも、見送りは逆効果との判断をくだしていた。

やんわりとリリーに向かって、首を横に振ったからだ。

それならば仕方がないなと、リリーは思った。

二階の自室にこもり、窓から外を見下ろす。

ちょうど、馬車が門をくぐっていくところが見えた。

リリーは、その後ろ姿が見えなくなるまで、その場を離れなかった。


リリーは祈っていた。

どうか、サイラスがヴェロニカを看取ることができますように。

そして、できれば、少しでも長く、彼女と過ごす時間が残されていますように、と。

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