15
リリーは、その夜、ふと目を覚ました。
なにやら階下が騒がしい。
なにごとだろうと、リリーはナイトガウンを羽織り、部屋を出た。
ちょうど、階下に降りたところで、その騒音の原因がわかった。
サイラスと執事のエルバートが口論しているのだ。
いや、口論というと語弊があるかもしれない。
正確には、サイラスが言うことに、エルバートが難色を示すといった感じだ。
ただごとではない雰囲気を敏感に感じとり、リリーはそっと二人に近付いた。
「サイラス?エルバート?」
リリーが恐る恐る声をかけると、サイラスは不機嫌そうに黙り込み、逆に、エルバートは頭を下げて言った。
「奥様、就寝中のところ、お騒がせいたしまして、誠に申し訳ありません」
「いえ、わたしは別に構わないのだけれど。こんな真夜中にどうなさったの?わたしにも、できることがあれば……」
「その必要はない」
ピシャリとサイラスに言われ、リリーは急いで口を閉じた。
どう考えても、なにかあったとしか思えない状況ではあるが、サイラスにそう断言されると、これ以上、問い続けることは憚られる。
リリーは、困ったように視線を彷徨わせた。
すると、傍に控えているエルバートのそれと、かち合った。
彼にしては珍しく、無表情の仮面を取り払って、眉を寄せている。
明らかに、不穏な雰囲気だ。
「エルバート?」
そっと尋ねると、エルバートは待ってましたといわんばかりに、一歩、進み出て、口を開いた。
「旦那様が隣国へ行くと仰ってきかないのです」
「エルバート!」
サイラスが咎めるような声をあげるが、エルバートは告げ口する幼児のように、構わず続けてた。
「ご友人であるシドニー公爵夫人を追いかけるとのことです」
「!」
リリーは、何度も目を瞬かせた。
エルバートは夫人のことを"ご友人"と言ったが、二人の関係を知るリリーには、ハッキリと今の状況が理解できた。
つまり、サイラスは愛人であるシドニー公爵夫人を追って、隣国へ渡るつもりなのだ。
伯爵としての義務を放棄し、愛人と出奔すると言っているも同義である。
そんなことをすれば、間違いなく、彼らは評判を落とす。
下手をすれば、二人とも姦通罪で捕まってしまうおそれだってあるのだ。
リリーは、そこまで考えて、青ざめた。
「それは、その……得策ではありませんわ。法律的にも人道的にも許されないことです」
「仰る通りです」
エルバートは、大きく頷いた。
リリーという味方を得たことで、少し安心さえしているのかもしれない。
しかし、サイラスは違った。
相変わらず、顔をしかめながら、固い声音で言い募った。
「それでも、わたしは行く」
「サイラス……」
リリーは、諭すように、ことばを紡いだ。
「それは、できないわ。あなただって、ご自分の立場を理解されていらっしゃるでしょう?あなたには仕事があるし、貴族としての義務もある。公爵夫人のことは、その、諦めて……」
「君に指図されるいわれはない!」
諦めるという単語が、気に入らなかったらしい。
サイラスは厳しい口調で、リリーのことばを遮った。
その表情には、明らかな怒りが見て取れる。
「伯爵としての責任など、百も承知だ。君に指摘されるまでもなくね!だが、わたしは行く。行かなければならないんだ!もう放っておいてくれ!」
吐き捨てるように言って、サイラスは足音荒く、この場を去った。
おそらく、旅支度をするために、自室に向かったのだろう。
リリーは、心底、困り果てたように、エルバートを見た。
「わかります。取り付く島もありませんよね」
「ええ、本当に……」
エルバートは、そっと階上を見上げた。
どこか意を決したような表情である。
「公爵夫人を追いかけるなど、絶対になりません。わたくしは、すべてをかけてでも旦那様を止めてみせます」
リリーは目を丸くした。
普段の様子からは想像もできないほど、力強い口調だったからだ。
「しかし、それではあなたが怒られてしまいます。もし、解雇などされれば目も当てられません」
「構いません。覚悟の上です」
叱責を恐れぬエルバートに、リリーは思わず感心した。
彼は、主人であるサイラスの逆鱗に触れたとしても、隣国行きを阻止するつもりなのだ。
サイラスの将来のために。
一切、見返りを求めない。
むしろ、サイラスにその忠義を理解されようとすら、思っていないのだろう。
まさに、使用人の鑑のような行為だ。
「あなたの考えはわかりました。でも、待ってください。落ち着きましょう」
ここまで主人を思ってくれるエルバートを、みすみす手放すのは惜しい。
リリーは、お互いに冷静になって考えようと、エルバートに提案してから、ふと気になっていたことを口に出して言った。
「どうも腑に落ちないのですが、どうしてサイラスは、あれほど頑なになっているのでしょうか」
リリーは、ずっと不思議に思っていた。
なぜ、サイラスはヴェロニカを追いかけることに固執しているのか。
なぜ、あれほど必死なのか、と、
いくら愛しているからといって、公爵夫人であるヴェロニカを追いかけていけば、どういう悲惨なことになるか、サイラスが理解できないはずがないのに。
それをおしてでも、サイラスは行こうとしている。
その理由を、リリーは知りたいと思った。
「何か特別な理由があるのかしら……」
自問するように呟く。
すると、ため息まじりに、エルバートが答えた。
「先ほど、わたくしも同じことを旦那様に伺いました」
「彼はなんと?」
「………」
エルバートは疲れたような表情で、ことばを継いだ。
「旦那様はこう仰られました。"彼女は病気だ。だから、行くのだ"と」
リリーは、ハッとした。
つまり、サイラスはヴェロニカがもう永くないと、そう言っているのだ。
今、追いかけなければ、一生後悔することになると。
彼は、そう考えているのだ。
「だからなのね。だから、サイラスはあんなに必死なんだわ」
先ほどの、どこか追い詰められたようなサイラスの表情に、ようやく合点がいった。
彼は、ヴェロニカを追うことで、醜聞となり、周囲に非難されても構わないと思っている。
姦通罪で訴えられることすら、厭わないのだ。
それほどまでに、大切に想っている。
ーーーサイラスは、心から、深く。とても深く、彼女を愛しているんだわ。
リリーは瞳を閉じた。
二年前のことが、脳裏をかすめる。
ジェイソンの突然すぎる死で、リリーの無防備な心を抉った悲しみを。
愛を永遠に失った絶望感を。
そして、なにより、彼の最期を看取れなかった、その後悔を。
嫌というほど味わったではないかと、リリーは自身の心に問いかけた。
愛する人を失う、その苦しみを、リリーは誰よりも理解していた。
だからこそ、サイラスの思いが手に取るようにわかる。
サイラスはすでに心に決めているのだ。
ヴェロニカの死を受け入れ、看取る覚悟を。
それが、どれほどの痛みを伴うことになろうとも。
であれば、と。
リリーは考えた。
ヴェロニカの死はもう避けられない。
せめて、サイラスには、最期の瞬間を愛する人と過ごさせてあげたかった。
リリーには、叶わなかった。
愛する人を看取る、その機会を。
サイラスには、逃してほしくない。
リリーは、ゆっくりと瞼を開けた。
意識して、手に力を入れる。
居住まいを正しながら、明瞭な声音で、リリーは言った。
「サイラスを送り出しましょう」
「!」
エルバートは、はじかれたように顔をあげた。
信じられないものを見るような目つきで、リリーを凝視している。
「なぜ……」
「彼を行かせるのか、と言いたいのね」
リリーは苦笑した。
エルバートの疑問ももっともだと、思ったからだ。
「エルバート、あなたは愛する人を失ったことがある?」
「………」
エルバートは、何も言わなかった。
じっと、リリーの次のことばを待っている様子であった。
なにかを探るような彼の視線を受けながら、リリーは囁くように言った。
「サイラスに、愛する人を看取らせてあげましょう。それができなければ、彼はきっと……壊れてしまう」
エルバートが一瞬、息をのむのがわかった。
しばし、沈黙が周囲を満たす。
エルバートの顔は無表情で、何を考えているのか、よくわからなかったけれど。
やや間があって、彼が礼をとった様子から、了承してくれたことだけは理解した。
リリーは、ほっと息を吐き出した。
知らず、息を止めていたらしいとわかる。
「奥様は……」
「え?」
囁くような小さな声だった。
リリーは聞き取れず、「なあに?」と首をかしげる。
エルバートは一瞬、眩しそうに目を細めた。
そして、首を横に振って言った。
「なんでもございません」と。
不思議には思ったものの、本人がなんでもないと言うのであれば、そうなのだろうと判断して、リリーはさっそくメイド頭のアンを呼んだ。
彼女が、まだ起きていることは、最初からわかっていた。
アンは、睡眠時間がとにかく短い。
一日、三時間、寝るだけで十分だと公言しているくらいだ。
よって、リリーの呼び出しにも、彼女は瞬時に対応してくれた。
「こんな夜更けに、ごめんなさいね」
「いえ……」
先ほどの剣呑なやり取りが、耳に入っていたらしい。
アンの表情は、怯えと戸惑いがないまぜとなった複雑なものだった。
申し訳なく思いながらも、リリーは指示を出した。
「サイラスの旅支度を手伝ってくださる?彼は、その……お仕事で、これから隣国へ出かけるから」
「これから、でございますか?」
「ええ、急なお仕事なの。申し訳ないけれど、今すぐお願いします」
「……かしこまりました」
怪訝に思いながらも、アンが頷いてくれたので、リリーは微笑んだ。
この場を辞去する彼女の後ろ姿を、安堵した表情で見送る。
続いて、リリーはエルバートの方に向き直った。
口元に手をあてながら、思案するように、口を開く。
「何人か、使用人を同行させなければなりませんね。サイラスの身の回りのお世話ができて、隣国の事情に詳しい人がいいわ。どなたか、ご存じない?」
「隣国出身の者がおります。ある程度、気がまわる奴なので、従者としても問題ないかと。わたくしの方から、声をかけておきます」
「ありがとう。お願いしますね」
リリーは、さらに細々とした指示を出していった。
エルバートは時折、適切なアドバイスをしながら、それを従順に聞いている。
あらかた言い終わったあたりで、リリーは満足げに頷いた。
「ひとまず、今できるのは、これくらいかしらね。もし、なにか入り用になれば、順次、手配しましょう。連絡は密にね。後のことは、わたしたちでフォローすればいいし、屋敷のことも……」
そこまで言って、リリーはふと表情を曇らせた。
エルバートが「なにか気にかかることでも?」と尋ねたが、リリーはなんでもないと首を振るばかりで、答えなかった。
リリーの頭をよぎったのは、他でもない。
義母のマリーのことだった。
彼女がこのことを知れば、どう反応するか、手に取るようにわかってしまう。
自然と、ため息が漏れるのを、リリーは止められなかった。
その一時間後。
サイラスは、旅支度を終え、まるで急き立てられるかのようにして、この屋敷を去った。
リリーは彼を見送らなかった。
サイラスが、ひどく嫌がったからだ。
先ほどの剣幕を思えば、さもありなんである。
準備を傍で手伝っていたアンも、見送りは逆効果との判断をくだしていた。
やんわりとリリーに向かって、首を横に振ったからだ。
それならば仕方がないなと、リリーは思った。
二階の自室にこもり、窓から外を見下ろす。
ちょうど、馬車が門をくぐっていくところが見えた。
リリーは、その後ろ姿が見えなくなるまで、その場を離れなかった。
リリーは祈っていた。
どうか、サイラスがヴェロニカを看取ることができますように。
そして、できれば、少しでも長く、彼女と過ごす時間が残されていますように、と。