13
サイラスは、そっと物陰に潜んでいた。
会場に到着してすぐ、サイラスはある人に話しかける機会を伺っていた。
言わずもがな、ヴェロニカである。
このパーティーに出席しようと決めた一番の理由が、彼女だった。
ヴェロニカは毎年、夫のシドニー公爵と、この集りに参加していた。
表立って彼女と会えない今、数少ないこの機会を逃したくない。
サイラスは、我慢強く待った。
到着して、どのくらい経っただろう。
ようやくヴェロニカが、一人になったところで、サイラスは忍び寄った。
「サイラス?サイラスなの?」
ヴェロニカはひどく狼狽えた様子で、突然姿を現したサイラスを見つめた。
サイラスは、そんな彼女の手を引き、先ほどまで隠れていた物陰まで、導いた。
「ヴェロニカ、会いたかったよ。ずっと会いたかった」
サイラスは、思わず、破顔した。
数ヶ月会わなかっただけなのに、ヴェロニカはサイラスの記憶にある以上に、儚く美しかった。
ただ、顔色がひどく悪い。
サイラスは表情を曇らせた。
彼女はもともと病弱なので、ひどく心配に思った。
「顔色が優れないね。大丈夫なのか?」
サイラスはそっと引き寄せて、ヴェロニカの顔を至近距離で見つめた。
すると、彼女は、儚げに微笑んだ。
「最近、体調を崩していたけれど、もう平気よ。心配してくれてありがとう。……あなたは、本当にそういうところに、すぐ気付くわね。あの人とは大違い……」
あの人とは、おそらく夫のシドニー公爵のことを指しているのだろう。
彼は、妻のことに無頓着だった。
そのことに、ひどく心を痛めているヴェロニカが、不憫でならない。
サイラスは、優しく抱きしめた。
「君のことなら、どんな些細なことだって気がつく自信があるよ。言っただろう?愛しているんだ」
ヴェロニカは、何も言わなかった。
ただ、困ったように微笑んだだけだった。
ーーー君は、いつもそんな表情をするんだな。
サイラスは、ふと、そんなことを思った。
いつも笑っていてほしいのに。
なかなかうまくいかないなと、サイラスは肩を落とした。
その不安な気持ちを振り払うように、サイラスは、彼女の綺麗な唇に、己のそれを重ねた。
ヴェロニカは抵抗しない。
むしろ、積極的に応えてくれた。
機嫌をよくしたサイラスは、さらに口付けを深くしようとして……しかし、それは叶わなかった。
「ウォーターフォード伯爵?」
誰かが、こちらに歩み寄る足音が聞こえる。
二人は弾かれたように、抱擁をといた。
ヴェロニカをその場に残し、サイラスだけが、一歩物陰から進みでる。
声の主は、意外な人物だった。
「モンゴメリー侯爵夫人……」
「ああ、やっぱり。あなただったのね、伯爵。後ろ姿が見えたから、もしかしたらと思ったのよ」
サイラスは舌打ちしたいのを、グッと堪えた。
まさかリリーの母親であるアリシアも、このパーティーに参加しているとは思わなかった。
ヴェロニカと一緒にいたところを見られたのではないかと思うと、冷や汗が止まらない。
一刻も早く、この場を離れなければならないと思った。
ちょうどアリシアが立っている付近を通らないと、ヴェロニカが物陰から出られないからだ。
サイラスは、さりげなくアリシアの手を、肘にのせて、ホールの方へ導いた。
「お久しぶりね、伯爵。結婚式以来かしら。実は、わたくし、リリーを探し……って、あら?そこにいるのは、シドニー公爵夫人ではなくって?」
目ざとく、この場を離れようとしていたヴェロニカを見つけてしまったアリシアに、サイラスはひどく狼狽した。
ドクドクと、心臓が早鐘のように鳴っている。
サイラスとヴェロニカの関係を知るアリシアなら、決定的な場面を見ていなくても、薄暗い物陰に二人がいたという事実だけで、何をしていたか悟られる可能性は高い。
まずい!と、顔面蒼白になったサイラスだが、どういうわけか、アリシアは何も言わなかった。
むしろ、邪推するような素振りさえ見せなかったことに、正直、戸惑う。
そんなサイラスの動揺には気付かず、アリシアは愛想よく、ヴェロニカに話しかけた。
「お久しぶりですわ、レディ・ヴェロニカ。今日は、公爵と一緒に来られたの?」
「え、ええ……」
「羨ましいわ。わたくしの夫は、今、領地にいますので、今日は一人で来ましたのよ」
「まあ、そうでしたの……」
「ところで、そちらに何かあるのかしら?お二人とも、その物陰から出てきたようですけれど」
「………」
サイラスは、焦った。
急いで、適当な言い訳を考える。
「外国の画家が描いた絵を飾っていると伺ったので、拝見しようと思ったんですよ。こちらにはありませんでしたが」
「あら、その絵なら先ほど、あちらの廊下で見ましたよ。わたくしが案内してさしあげるわ。レディ・ヴェロニカは、どうなさる?」
「いえ、わたしは結構です。主人のところに戻らなければなりませんので……」
「そう、わかったわ。シドニー公爵によろしくお伝えくださいね。今日は、話せてよかったわ」
「ええ、わたしもです。それでは、失礼いたします。モンゴメリー侯爵夫人、ウォーターフォード伯爵。ごきげんよう……」
そそくさと、この場を立ち去るヴェロニカを、サイラスは名残惜しそうに見送った。
今度は、いつ会えるだろうか。
そんなことばかり、頭をかすめる。
「どうしたの?こちらですよ、伯爵」
「……ええ」
サイラスは、ようやく、ヴェロニカの後ろ姿から視線を外した。
代わりに、アリシアをじっと眺める。
そういえば、と。
自然、眉根を寄せた。
ーーーどうして、なにも言わないんだろう。
明らかに、怪しい状況だった。
この人が、それに気付かないはずがないのに。
「そうそう。わたくし、リリーを探しているのだったわ。伯爵、どこにいるかご存じない?」
「いえ、申し訳ありませんが……」
サイラスは、首を振った。
そもそも、会場に到着してすぐ、リリーの傍から立ち去ったので、彼女の居場所など見当もつかない。
目立つ容姿ではないので、探しても見つかるかどうか微妙だった。
アリシアも、そう思ったのか、肩を落としている。
「残念だわ。あの子、外国の絵画に興味があるから、一緒に観たら喜ぶと思ったのだけれど」
「そうですか」
「それに、わたくし、そろそろ領地に帰りますの。だから、あの子に挨拶しておこうと思って」
「はあ……」
サイラスは、興味なさそうに相槌を打った。
すると、急に隣を歩くアリシアが立ち止まった。
怪訝に思いながら、サイラスも足を止める。
「侯爵夫人?」
呼びかけると、アリシアは真正面からサイラスを見つめて、言った。
「伯爵、あなたならわかっていると思うけれど、リリーはとても不器用な子なの。わたくしは、もうすぐ領地に帰ってしまう。ジョージもわたくしも、あの子の傍にいてあげられないわ。だから、あなただけが頼りです。どうか、リリーを支えてあげてください」
深々と頭を下げるアリシアに、サイラスは目を瞬かせた。
想像した以上に、リリーが愛されていることを知ったからだ。
もちろん、アリシアが子どもを愛さない冷酷な母親だとは思っていなかったけれど。
あの日、突然やって来て、リリーとの結婚を強引に迫った印象が強かったので、意外に思ったのだ。
ーーー普通の母親は、皆こういうものなのだろうか。
サイラスには、正直、わからなかった。
母親のマリーは厳格なので、幼少時から、サイラスはあまり愛されているという実感をもてずに過ごした。
結構、最近まで、母とは子に厳しく、めったに愛情を示さないものだと信じていたくらいだ。
アリシアのように、娘のことを想い、頭を下げるような母親もいるのだなと、サイラスはどこか呆然と思った。
「伯爵?」
呼ばれてはじめて、サイラスはアリシアが彼の返事を待っていることに気が付いた。
じっと懇願するように見つめられては、頷くほかない。
ここでも、アリシアは自分の望み通りに、話をつけることに成功したのだった。
もちろん、サイラスのその首肯は、義務的なものだったけれど。
アリシアは、それでも十分、満足したように微笑んだ。
サイラスがリリーを支えるようなことは、今後おそらく訪れないように思えて、少し罪悪感を覚えたけれど、サイラスは何も言わなかった。
しばらく、アリシアと二人、絵画鑑賞をして過ごした後、彼女は「リリーを探す」と言って立ち去ったので、サイラスは心底、安堵した。
ずっと居心地の悪い思いをしていたのだ。
ようやく呪縛から解き放たれたように、サイラスは大きく伸びをした。
「さて」と呟きながら、振り返る。
別段、絵に興味はなかったので、さっさとこの場を離れたかったのだが、鮮やかな金色の髪が、それを遮った。
「お久しぶり、サイラス」
「……エイミー」
サイラスは若干、うんざりしたように言った。
「君も、このパーティーに来ていたのか」
「ええ、そうよ」
サイラスとは対照的に、エイミーは悠然と微笑んでいる。
嫌な予感しかしない。
「あなたってば、全然、連絡をくれないから、わざわざ会いに来たのよ。ねえ、どうして、わたしを避けるの?」
それは、君がしつこいからだ。
とは、もちろん口が裂けても言えない。
あまりにも、あからさま過ぎるからだ。
サイラスは、ため息を噛み殺した。
エイミーとは、確かに一時期、付き合っていた。
しかし、それはサイラスの意図したところではない。
エイミーがしつこく迫ったからだ。
確かに、彼女は大変美しい女性だったが、まだ若く、思慮が足りなかったので、たびたび我儘を言っては、サイラスを困らせていた。
「君と結婚するつもりはない」と明言したにも関わらず、それでも構わないとエイミーが言ったので、半ば強引な流れで付き合った。
お互いに、本気の関係ではないという認識のもとで、だ。
しかし、その後、エイミーはその約束を反故にして、再三にわたり、結婚を迫ってきた。
そのことで、サイラスの想いは完全にエイミーから離れていったのである。
それから、しばらくして、ヴェロニカに恋をしたサイラスは、エイミーとは完全に連絡を絶ち、関係を終わらせたのだが、彼女の方には、その認識がなかったらしい。
いまだに、サイラスを諦めていない様子が、彼女の表情から伺えた。
「君との関係は、もう終わったんだ。わかるだろう?」
気持ち、声を和らげながら、サイラスは言ったが、もちろん、それで素直に頷くエイミーではなかった。
綺麗な眉を寄せて、エイミーは不満そうに、口を突き出した。
「全然、わからないわ。わたしたち、あんなに愛しあった仲じゃない。最高の夫婦になれるわ」
「エイミー……」
サイラスは、呆れ顔で言った。
「わたしは、結婚しているんだぞ。君とは一緒になれない」
「……やっぱり、それが原因なのね」
エイミーは、人形細工のように美しい顔を、怒りで歪めた。
ひどく歪で、不気味な印象を受けたけれど、それさえも大変美しい表情だった。
「わたしを避けるようになったのは、リリー・ウォリンジャーのせいなんでしょう?姑息な手で、あなたをわたしから奪った、卑怯な女だわ」
確かに、リリーは姑息な手でサイラスと結婚したわけだが、エイミーを避けるようになった理由は、エイミー自身によるところが大きい。
だが、サイラスはそれを指摘するつもりはなかった。
エイミーは認めないだろうし、そもそも耳を傾けないだろうからだ。
「エイミー、とにかく、これ以上、わたしに関わるのはやめてくれ。君とは終わったんだ」
サイラスは最後通牒のように、そう言い残し、踵を返した。
エイミーがなにか叫んだが、一切振り返らない。
それが、お互いのためだろう。
エイミーのあの美しい容姿があれば、今後いくらでもハンサムでリッチな独身貴族と結婚できる。
わざわざ、既婚者であるサイラスにこだわる必要はないのだ。
それに、と。
サイラスは思った。
ーーーわたしには、もうすでに愛する人がいる。
ヴェロニカという唯一無二の女性が。