11
みんなが寝静まった頃を見計らって、サイラスはようやく屋敷に帰ってきた。
今日も深夜まで友人たちと過ごしていたのだ。
本当はヴェロニカに会いたかったけれど。
それが叶わないことは十分、理解していた。
サイラスは知らず、ため息が漏れた。
ヴェロニカとは結婚後、一度も顔を合わせていない。
彼女は元気だろうか。
今、何をしているのだろう。
そんなことを考えながら、玄関ホールを通り過ぎようとした時だった。
「お帰りなさいませ」と、無機質な声がかかった。
誰もいないだろうと思われた玄関先で、執事のエルバートに声をかけられたサイラスは、しかし、驚かなかった。
この有能な執事は、決して主人より早く床につくことはない。
こんな夜半でさえ、サイラスを待っているだろうことは十分、予想ができた。
「今、戻った。もう寝るよ」
階段をのぼりながら、エルバートの顔を見ずに短く告げる。
「かしこまりました」
いつもであれば、そう言ってさがるエルバートだが、今日は階上までついてくる。
サイラスは「おや」と、眉をあげた。
どうやらサイラスに何か用事があるらしいと、長い付き合いの中で察する。
予想通り、サイラスの私室に入ったところで、エルバートは口を開いた。
「旦那様、お話ししたいことがあります」
「何だ」
「サンルームの件でございます。無事、修繕工事が終わりましたので、ご報告いたします」
「ああ」と、サイラスは呟いた。
そういえば、数ヶ月前にエルバートからの提案で、サンルームを修繕したのだった。
あまり、この国では使われない土壁という手法で工事をするときいた時は正直、驚いたが、なかなか面白そうだったので、その案を採用した。
どうやら、その工事が無事に終わったらしい。
細々とした報告を聞きながら、サイラスは頷いた。
「もう少し時間がかかるかと思っていたが、案外、早かったな」
「そうでございますね」
「どうだ、上手くいったか」
「せっかくですので、実際にご覧になってはいかがでしょう」
「ん?ああ……」
サイラスは、鷹揚に頷いた。
今日はもう時間も遅く、正直、疲れていた。
部屋で休みたい。
「また後日」と言いそうになったサイラスは、しかし、考えを改めた。
エルバートが何かを期待するような表情をしていたからだ。
「じゃあ、今から見に行くか」
再び外套を羽織り、その足でサンルームへと足を運ぶ。
エルバートは黙ってついてきた。
「ほう」
サイラスは思わず、感嘆の声を漏らした。
サンルームに入ってすぐに、その違いに気付いたからだ。
以前に比べて、室内が格段に暖かくなっている。
深夜だというのに、あの底冷えする感覚がない。
エルバートが言った通り、土壁には保温効果があるようだった。
見た目も悪くない。
サンルームの外観を損なわない装飾が施されているからだろう。
敷かれた絨毯のおかげで、足元の冷えも大分解消されていた。
女性や高齢者に喜ばれそうである。
サイラスは満足げに頷いた。
「いいな。よくやった」
エルバートは黙って礼をとった。
無表情ながら、どこか安堵した様子だったので、ずっとサイラスの反応が気になっていたのかもしれない。
「お褒め頂きありがとうございます。しかしながら、そのおことばは、わたくしにではなく別の方に仰って頂いたほうがよろしいかと」
「と、言いますのも」と続けるエルバートに、サイラスは首をかしげた。
"別の方"という単語を反芻し、しばし、考える。
「ああ、業者か」
エルバートのことばを待たずに、サイラスは頷いた。
「確かに、これは文句なく素晴らしい出来だ。業者にも礼を言わねばならないな」
「いえ、それもありますが、わたくしが申しますのは……」
エルバートが何か言おうとしたが、サイラスの大きな欠伸がそれを遮った。
「悪いが、もう限界だ。寝たい。お前の話はまた今度聞こう」
「……かしこまりました」
残念そうな表情のエルバートを残し、サイラスはサンルームを出た。
途端、容赦ない冷気が襲ってくる。
サイラスは身震いしながら、足早に私室へと戻った。
翌日は、普段より起きるのが遅くなってしまった。
リリーと顔を合わせることになるかもしれない。
そう考えて、サイラスは階下へと降りて行ったが、彼女の姿はなかった。
おそらく、まだ寝ているのだろう。
サイラスは胸をなでおろした。
朝食を食べようか迷ったが、いつリリーが降りてくるかわからないので諦めた。
さっさと出かける準備を整える。
「旦那様、昨夜の件ですが……」
途中、玄関ホールで帽子と外套を受け取りながら、エルバートにそう切り出されたが、リリーが起き出すのではないかと思うと、悠長に話を聞く気にはなれなかった。
だから、サイラスはサッと手を振って、エルバートを制した。
「今は急いでいる。悪いが、また今度にしてくれ。行ってくる」
「……いってらっしゃいませ」
エルバートのもの言いたげな視線を背中に感じながら、サイラスは馬車に乗りこんだ。
その頃には、もう昨夜のことは頭になかった。
考えていたのはリリーのことだ。
どうもリリーに対する怒りがおさまらないことに、サイラスは戸惑っていた。
基本的に、サイラスは人に対して親切で寛大だ。
そう躾けられたし、彼の本質もまた紳士そのものだった。
しかし、リリーに対してだけはそれが発揮されない。
その理由が、サイラスにはいまいちわからなかった。
だから、それに答えが出るまではリリーとはなるべく関わらないようにしようと思っている。
幸運なことに、最近ではリリーの方もあまりサイラスに話しかけてこなくなったので、彼女を避け続けることは容易かった。
「今は、これでいい」
いつの日かリリーと向き合うことがあるかもしれない。
しかし、それは今ではないと思った。
そこまで考えて、サイラスは瞳を閉じた。
馬車内だというのに、朝の冷気がひどくこたえた。