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こうしてジニーを訪ねるのも、最後かもしれないと思うと、リリーは何だか感慨深いものを感じた。
ダレンの屋敷には、我が家と同じくらい沢山の思い出が詰まっていた。
緊張しながら、家庭教師の面接を受けたこと。
一目見た時から、ジニーが大好きになったこと。
ダレンが正当に評価して、家庭教師を任せてくれたこと。
壁を感じていた使用人達と少しずつ距離を縮めていって仲良くなったこと。
サイラスが帰ってきてからは、時に社交界の先輩として、時に友人として、ジニーを支えてきたこと。
ジニーの成長を見守りながら、ダレンや使用人達と過ごした六年間の全てが、ここにはあった。
それも、もうすぐ終わる。
ジニーが結婚すれば、ダレンの屋敷へリリーが訪ねていく機会はなくなるからだ。
ーーそれを寂しいと思うなんて、わたしったらダメね。
ジニーの結婚は素晴らしいことだ。
それを素直に喜べないなんて、不義理もいいところだ。
リリーは名残惜しそうに、屋敷の中を見渡した。
この目に焼き付けておきたかったのだ。
どん底だった自分を掬い上げてくれた、楽しい日々を。
「何か気になるものでもありましたか?」
ふいに問われ、リリーは物思いから抜け出した。
今日はジニーに招待されて、ダレンの屋敷に来ていたのだった。
ジニーを待つ間、ぼんやりしてしまったが、気を引き締めなければならない。
リリーは居住まいを正した。
「違うのよ。ここでこうしてあなたと過ごせるのも、後少しなんだと思ったら、何だかしんみりしちゃって。別に永遠の別れというわけでもないのに、おかしいわね」
とはいえ、リリーは何か特別な理由がない限り、もうこの都市部に戻ってくることはないだろうと思っていた。
この社交界シーズンが終われば、リリーは実家へと戻り、その後は領地で静かに暮らしたいと考えていたのだ。
永遠ではないが、暫しの別れになることは確かだった。
「やめてください、レディー・リリー。もう会えなくなるみたいな言い方は。悲しくなります」
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったのだけれど。でも、少なくとも、あなたが結婚したら、わたしがこの屋敷に来ることはなくなるわ」
「……わたしは、レディー・リリーが望むなら、わたしがいなくても、屋敷を訪ねてきて欲しいと思います。わたしが結婚したら、父は一人になってしまうから。だから、父に会いに来て欲しいんです」
リリーは返答に困った。
ダレンを訪ねてきて欲しいというのは、かなり意味深長な発言だった。
ジニーは一体どういうつもりで、こんなことを言い出したのだろうか。
「わたし、もう子どもじゃありません。だから、無邪気にこんなことを言っている訳ではないんです。わたしはずっと、レディー・リリーがわたしのお母さんになってくれたらいいなと思っていました。昔はあなたを誰かに取られたくなくて、ずっと一緒にいたくて、何も考えずにそう言いました。でも、今は違います。わたしは、あなたに父の隣で笑っていて欲しい。周囲の人が何と言おうと、父と一緒に幸せになって欲しいんです」
ジニーは視線を逸らさなかった。
そこで初めて、リリーは気付いた。
ジニーの視線が同じ位置、むしろ、少し上にあるということを。
ーーああ、ジニー。あなたは成長したのね。
身体だけではない、精神的にも彼女は既に子どもではなかった。
ジニーは不躾だと承知の上で、リリーにこんな話をしているのだ。
自分の為ではない。
我が儘に見せかけて、リリーに選択肢を提示してくれている。
リリーさえ望めば、背中を押す心算があることを示してくれているのだ。
ジニーは気付いていたのだろう。
リリーの恋心に。ダレンの傍にいたいという邪な想いに。
でも、それが叶わないことも理解している。
リリーがダレンと一緒になれば、まず間違いなく社交界から総スカンをくらう。
リリーだけではない、周囲の家族も後ろ指を指されるのだ。
貴族社会に生きるリリー達にとって、それはもう死と同義だ。
リリーの体裁が悪いというのは、つまりそういうことだった。
誰だって、仲間外れになどされたくないし、非難もされたくない。
でも、ジニーはそれでも構わないと言ってくれているのだ。
リリーが望めば、ダレンとのことを応援すると言ってくれているのだ。
それは物凄い覚悟だった。
ーーありがとう、ジニー。あなたは本当に優しい女性に育ってくれたのね。
凛として強く、優しくしなやかな女性。
ジニーは、まさに理想の淑女へと成長していた。
だからこそ、悔やまれる。
彼女にここまでさせてしまったことが、物凄く悲しかった。
「ごめんなさい、ジニー。それはできないわ」
リリーは首を横に振った。そうしなければならなかった。
ジニーは言い返さなかった。
少し寂しそうに微笑んだだけで。
それで、この話はお終いだとわかった。
だから、ジニーが結婚式で身に付けるものを貸してくれないかと、急に話題を変えた時、リリーはすぐに応じた。
ジニーなりの精一杯の心遣いに感謝しながら。
きっとこれでいいのだと、リリーは思った。
帰り際、まだ日が明るいことを確認して、リリーは迎えの馬車に乗り込もうとしていた。
その矢先、別の馬車が屋敷の玄関口に横付けして止まった。
中から、ダレンが出てきた時のリリーの感情を、どう表現すればいいのか。
それは好きな人に会えた喜びであり、先ほどのジニーとの会話を思い出しての切なさでもあった。
「もうお帰りですか」
近付いてくるダレンに問われ、リリーは頷いた。
こうしてダレンと顔を合わせるのも、きっともう数える程しかないだろう。
背の高いダレンを仰ぎ見ることも、もうなくなる。
そのことが物悲しくてならなかった。
「この後、ご予定はありますか?実は、あなたに見せたいものがあるんです。良かったら、ご覧になっていきませんか?」
だからだろう。
ダレンのその誘いに、リリーは一瞬悩み、そして頷いてしまった。
ジニーにはっきりと断ったばかりだというのに、情けない限りである。
でも、これがこの屋敷でダレンと過ごす最後の機会になるのだと思うと、リリーはどうしても断ることができなかったのだ。
「では、こちらへ。ご案内します」
ダレンと連れ立って歩く。
なんて贅沢な時間なのだろうと、リリーは思った。
だから、ダレンが足を止めた時、少し残念に思った。
楽しい時間ほど、あっという間に過ぎていく。
「ほら、着きました。ここです。覚えていますか?」
リリーはもちろん覚えていた。
ダレンに案内されたのは、彼が絵を描くのに使っているというサンルームのアトリエだった。
昔、ジニーと雨宿りしたあの思い出の場所だ。
促されるまま中に入ると、すぐに沢山の絵が目に入ってきた。
同時に、油絵具特有の香りが鼻をつく。
何だか、それら全ての感覚が無性に懐かしく感じられた。
「もしかして、見せたいものって絵ですか?」
「ええ、そうです。下手の横好きで申し訳ないのですが、わたしが描きました。これです」
少し緊張しているのか、ダレンはゆっくりとした手付きで、キャンパスに掛けられた布をめくった。
途端、一枚の絵が露わとなる。
リリーは息を呑んだ。
そこには、微笑むリリーの姿があった。
でも、それだけではない。
リリーの隣には、サイラスやマリー、リリーの両親の姿があった。
リリーの足元には、狩猟犬のサムまで。
皆、笑っている。飛び切りの笑顔だ。
「勝手に描いてしまって、申し訳ありません。不躾だとも思ったのですが……」
「いいえ、そんなことありません」
リリーは絵から視線を逸らすことができなかった。
以前、ダレンの絵を見た時も思ったが、技術以上に人を惹きつける何かが、そこにはあった。
それはきっと、ダレンの優しい人となりが現れているからだろうと、リリーは思った。
描く対象の人を想い、そしてそれを見る人のことを想って描く。
だからこそ、ダレンの絵はこんなにも心に響くのだと。
ーーああ、この人はいつだって、わたしに胸一杯の陽だまりを与えてくれる。
リリーの良き理解者として、心を掬い上げてくれる。
凪のような優しさで包み込んでくれるのだ。
「……人物画を描くようになったのですね」
「はい。あなたのことを思っていたら、自然と筆が動いていました。良かったら、貰っていただけますか?」
リリーは頷いた。
ダレンの傍にいることはできない。
それはジニーに言った通りだ。
でも、せめて彼の絵と共にいたいと思う。
ダレンがくれたこのあたたかい優しさがあれば、もうそれだけでリリーは幸せだった。




