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リリーは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
顔色は青白く、明らかに疲労の色が見て取れる。
サイラスが亡くなったという事実を、リリーは受け入れることができずにいた。
それは、半年以上経った今も、サイラスの亡骸が見つかっていないからだ。
警察は、現場から少し離れた河口で、ハンクの遺体を発見していた。
だから、状況的に見て、サイラスも既に亡くなっているという結論を出した。
捜索はしてくれたが、サイラスが落ちた川が海に繋がっており、あの激流に流されてしまっては、これ以上探しても亡骸は見つからないだろうとのことだった。
「ごめん。河川に落ちる兄さんを遠目に見て、急いで飛び込んだけれど……見つけられなかった。こんなことになるなら、一緒にハンクを追えば良かった」
最後にサイラスを目撃したエルは、そう言って謝ってくれたけれど、サイラスの件はエルのせいではない。
サイラスが襲われたのは、リリーのせいだ。
訃報が届いてすぐに戻った時、エルからは全てを聞かされた。
ジェイソンやリリーの両親を殺した犯人がハンクであったこと。
そのハンクに襲われて、サイラスが川に落ちたこと。
正直、ショック過ぎて頭が真っ白になってしまった。
サイラスはきっとリリーの為に、ハンクの罪を明らかにしようとした。
そのせいで大怪我を負い、今現在、所在も不明となってしまった。
そう考えると、リリーの心労は増すばかりだった。
「少しお休みになられてはいかがですか」
執事のエルバートが優しくリリーに声をかけてくれたが、エルバートの方がよほど、休息が必要なのではないかというくらい、疲れ切った表情をしていた。
当然だ。エルバートにとって、サイラスはそれこそ幼少期から見守ってきた、大切な主人なのだ。
それを、こんな形で失ってはたまらない。
生死さえ定かでないというのは、エルバートにとって余計、堪えたことだろう。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。わたしは大丈夫。それよりも、わたしに何か用があったのではなくて?」
「はい。実は、マリー様がお呼びで」
「すぐ行くわ」
リリーはすかさず立ち上がった。
マリーの病状が悪化して久しい今、リリーは少しでも役に立てることがあればと、屋敷に留まっていた。
本来であれば、既に離婚している身。
リリーがこの屋敷に滞在することは叶わなかっただろう。
が、サイラスがあんなことになり、世間的にはリリーは未亡人という扱いだった。
未亡人とはいえ、子がいない以上、追い出されるケースもあるのだが、リリーは屋敷に留まることができている。
そのことが、本当にありがたかった。
サイラスに代わって、マリーの世話ができる。
サイラスが帰ってくるまで、役に立てるのだ。
できることは全てしようと、リリーは思った。
それが、せめてもの償いだった。
「失礼いたします、お義母様。リリーです」
マリーの自室の扉は開け放たれていた。
空気を入れ替える為だ。
とはいえ、勝手に入るわけにはいかない。
リリーが入室の許可を待っていると、マリーのか細い声が返ってきた。
「入ってちょうだい。ああ、あなた達は少し席を外して。リリーと二人で話がしたいのよ」
リリーと入れ替わるように退出する使用人達を横目に、リリーはマリーのベッド脇まで近寄っていった。
マリーの土気色の顔や痩せ細った首は、リリーに流行病の猛威を感じさせた。
「今日は調子が良いんですよ。だから、そんなに心配そうな顔をしないでちょうだい。それよりも、あなたに話があります。さあ、座って」
リリーは素直に近くの椅子に腰掛けた。
途端、マリーが咳き込んだので、急いでコップの水を飲ませてやった。
「……ごめんなさいね、あなたに感染らないといいのだけれど」
「大丈夫です。気になさらないでください」
「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいですよ。あなたの献身的な看護には、いつも感謝していますからね。でも……」
「お義母様?」
「あなたは、もう自由になるべきです。リリー、わたくしはサイラスの死を受け入れようと思います」
キッパリと言われ、リリーは戸惑った。
マリーの意図を図るように、考え考え、ことばを紡ぐ。
「そ、それは、つまりサイラスの死を認め、伯爵位を手放すということですか?」
「ええ、そうです。爵位は遠縁の者に継いでもらいます。サイラスの再従兄弟に当たる人物で、慎重な性格で少し融通が利かないところもありますが、有能です。彼なら、伯爵家を立派に守ってくれるでしょう」
「使用人達はどうなりますか?雇い止めということは……」
「ありません。そのまま雇用を継続すると、約束してくれました」
「では、わたしが反対することは何もありません。お義母様のお決めになったことに従います」
リリーは頷いた。
サイラスが不在である以上、誰かが領地を守らなければならない。
リリー達には子がおらず、マリーも病に臥している今、仕方がないことだった。
とはいえ、それは爵位の問題上というだけであって、リリーとしてはサイラスがまだ生きている可能性は捨てていなかった。
マリーはああ言ったが、看病しながらサイラスを待てば良いと思ったのだ。
「でも、そうなるとお義母様はどこにお住まいになるのですか?」
「わたくしは実家に帰ります」
「わかりました。では、わたしもお供いたします。支度を急がないといけませんね。お義母様が快適に療養できるよう、早速、手筈を整えなければ。お義母様のご実家というと、確か……」
「リリー」
「はい」
呼ばれ、リリーは真っ直ぐにマリーを見つめた。
サイラスと同じ、濁りのない綺麗な瞳を見つめた。
「良く聞いてちょうだい、わたくしは独りで帰ります。あなたは付いてこなくて構いません。看護は実家の者がしてくれます。あなたは必要ありません」
「で、でも」
リリーは反論しようとした。
が、それはマリーによって遮られた。
「あなたはまだ若い。いくらでもやり直せます。元々、サイラスとは離婚する予定だったのです。これ以上、あなたをここに縛り付けたくありません。あなたは自由に生きるべきです。サイラスは……サイラスは、亡くなったのです。それを受け入れて、お互い次に進みましょう。わたくしもそう永くは生きられない。だから、この生い先短い老人の願いをどうか叶えてちょうだい。わたくしはね、生死がわからないこんな曖昧な状況で、あなたにサイラスを待っていて欲しくないのです。そして、わたくしの病気をあなたに感染させたくもない。だから、リリー」
「この屋敷から出て行ってちょうだい、お別れよ」と、マリーは言った。
六年前、屋敷を追い出された時とは違う、優しい、とにかく優しい声音だった。
リリーの瞳から大粒の涙が溢れた。
マリーは今、リリーに残酷な事実を突き付けている。
サイラスが亡くなったことを受け止め、もうすぐマリーも逝ってしまうことを受け入れるように諭しているのだ。
リリーの視界は涙で歪んだ。
マリーの表情がよく見えない。
それでもわかる。
マリーは微笑んでいる。
リリーを慈しむように、ただ微笑んでいると。
「泣かないで、リリー。あなたのおかげで、わたくしもサイラスも幸せでした。あなたの優しさに何度も救われました。本当に、本当にありがとう。離れていても、わたくしはあなたの幸せをいつまでも願っていますよ。どうか、幸せになってね。愛するリリー、わたくしの大切な娘」
止めどなく溢れてくるリリーの涙を、マリーはか細い指で癒すように拭ってくれた。
病にあって尚、マリーは毅然としていて美しく、慈愛に満ちていた。