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路地裏に潜む影が、ゆらりと動いたような気がして、サイラスは居住まいを正した。
振り返らずに待っていると、暗闇から声だけがひっそりと響く。
「こうして会うのも久しいな。息災だったか」
問われ、サイラスはただ頷いた。
なるべく声を発さないのは、周囲から見た時、サイラスしか居ないように見せる為だ。
サイラスの上司である"彼"は、気配を消すのが大層得意なので、要らぬ配慮なのかもしれないが。
「わざわざ足を運んでもらって申し訳ない。直接、貴公に話したいことがあってな」
わかっているというように、サイラスは再び頷いた。
実のところ、これは仕事というより義務に近いものなので、サイラスに断るという選択肢はないのだ。
来いと言われれば行く。
それだけだ。
サイラスには上司に頼みたいこともあったので、今回の招集は渡りに船でもあった。
「諜報部から、彼の国の戦争激化の兆候が見られると報告があった。まだ猶予があるとはいえ、いずれ我が国へもその戦火は飛び火するだろう。そうなる前に、君には彼の国に渡ってもらいたい。とある人物に近付き、情報を集め、指示があるまで待機するんだ」
近隣諸国での小競り合いが発展し、二国間で戦争が始まったのは、そう昔のことではない。
新聞でも取り沙汰され、国民の間では彼岸の争いとして、あまり気にする者はいないが、どうやら上層部は戦争が長期化すると判断したらしい。
しかも、我が国が参戦せざるを得ないような大戦になると踏んでいる。
それを見越して、戦争のキーパーソンの元へ身分を隠した潜入捜査員を派遣し、予め情報収集をさせておくというのは、よくある手法だった。
情報を制すれば、自国に有利に戦争を操ることだってできる。
危険な任務だが、誰かがやるべき大切な仕事だった。
それが今回、サイラスに回ってきた。
そういうことらしい。
以前なら喜んで受けていただろう。
が、今はとにかくタイミングが悪い。
サイラスには他にすべきことがあった。
「わかっている。母親の病気の件だな」
サイラスは驚いた。
このわずかな沈黙から、まさか上司がサイラスの事情を言い当てるとは思わなかったのだ。
「どうなんだ、深刻なのか」
「……流行病です。主治医が言うには、そう永くは生きられないと」
「そうか……残念だな」
マリーの病気については、最近、本人から直接告げられたことだった。
その際は、かなりショックで、狼狽してしまったのだが、当のマリーが毅然としていたので、サイラスも何とか冷静さを保っていられた。
マリー自身もまだ諦めてはいないものの、覚悟だけはしておいて欲しいという気持ちから、サイラスに告白したのだろうと思われた。
「母ももう歳です。最高の主治医に診てもらってはいますが……完治するとは思えません。わたしにはただ苦しまないように祈ることくらいしかできません。正直、何もできない自分が歯痒い。それでも、わたしは母の傍にいます。母が頑張っているのです。わたしも、一緒に頑張りたい。母を最期まで看取りたいと思います。だから……」
「わかった」
上司は最後まで聞かずに頷いた。
そこで初めて、サイラスは振り返った。
黒い外套に身を包んだ上司が、帽子を深く被り直すのを、サイラスは少し拍子抜けしたような表情で見つめた。
「なんだ、その顔は。まさか、反対されるとでも思ったのか。わたしにだって家族はいる。気持ちはわかっているつもりだ」
「ありがとうございます」
「いいんだ。それよりも、貴公は少し変わったな。以前なら、どんな状況下であれ、任務を優先していた」
「……申し訳ありません」
「なぜ謝る?わたしは責めているわけではない。良い意味で変わったなと言ったんだ。国を守る為には、義務や報酬ではなく、守るべき理由が必要だ。貴公にはそれが足りないように感じていたが……ようやく大切な何かを見つけたんだな」
上司が微笑むのを、サイラスは初めて見たような気がした。
父親を早くに亡くしたサイラスにとって、この上司は言わば父親代わりのような存在だった。
出会った時からずっと厳しい人だったけれど、きっとそれだけではなかった。
優秀な彼が、ヴェロニカの死で怠惰に堕ちきっていたサイラスの状況に、気付かなかったはずがない。
上層部に知られて罰せられないよう、陰ながらサポートしてくれていたのではないだろうか。
マリーの病気の件だって、サイラスの家族を気にかけてくれていなければ、知り得るはずがない情報だった。
ーーそうか、この人はきっと、わたしのことをずっと見守ってくれていたのだな。
上司の配慮に今更ながらに気付いて、サイラスはただ頭を下げたのだった。
近く動きがあることを、サイラスは確信していた。
だから、執事のエルバートから、とある人物の訪れを知らされた時、自ら出迎えた。
「やあ、レイチェル。久しぶり……ではなかったけれど、元気そうで何よりだ」
「……ありがとうございます」
どうして、伯爵がわざわざ?といった表情のレイチェルに、サイラスは一つ頷いてみせた。
「いや、たまたま居合わせたんだよ。気にしないでくれ。ところで、君がここに来るなんて珍しいね。今日はなぜ?」
「え、ええ。実は、私事なのですが、結婚の日取りが決まりまして、そのご挨拶に伺いました。彼もですが、私もこちらの皆様には大変お世話になりましたので」
レイチェルは、サイラスの屋敷に勤めている庭師と結婚することになった。
その話を、サイラスは勿論、聞き及んでいたので、ニッコリと微笑む。
「ああ、聞いているよ。遅くなったが、結婚おめでとう。君と結婚できて、彼は幸せ者だね。日取りが決まったようだが、結婚式はいつ?」
「半年後を予定しております。親しい人だけを呼んだフランクな式にしたいと思っています。出来れば、夫人にも直接、結婚の詳細についてお伝えしたいのですが、今日はどちらに?」
「リリーは、今、実家に帰っているんだ。残念だが、わたしから直接、伝えておくよ。それでもリリーは充分、喜ぶだろう。君を解雇してからというもの、随分と気にしていたようだから」
「勿体ないことです。夫人は何一つ気にされる必要などありませんでしたのに。お優しいところはお変わりありませんね」
「ああ。ところで、レイチェル」
「はい」
「君が持っているそのカゴは何かな?」
「ああ、そうでした」
レイチェルはハタとしたように、カゴの中身を取り出しながら説明した。
「これは、手製のパンでございます。彼がとても好物で、休憩時間にでも食べて貰おうと思い持参しました。口に合うかどうかわからないけれど、アン様たちの分もあるので、挨拶がてら渡すつもりです。こちらは海外の紅茶と苺ジャムで、ジニー様から夫人にと。直接お渡ししたかったようですが、今、お屋敷に公爵夫人……ジニー様のお祖母様がいらっしゃっていて、お忙しいご様子でしたので、私が預かって参りました。あと、これは……」
「わかっているよ」
サイラスは遮るようにして、レイチェルが差し出したものを受け取った。
サイラスの表情がいたく満足気なものだったので、レイチェルは少し訝ったように眉を上げた。
「伯爵はそれが誰からの物で、何であるのか、既にご存知なのですか?」
「ああ、勿論だ。これを待っていたんだ。こういう形で届けられるとは思っていなかったが、とにかくありがとう。どうやら、先日の件、上手くやってくれたようだね。本当に助かるよ」
レイチェルは何か言いたそうだったが、賢明にもお辞儀をしただけで、それ以上、口を開くことはなかった。
サイラスはもう一度、満足気に頷いた。
ーーこれでいい。あとは"その時"を待つだけだ。
そう、"とある人物"が、サイラスを殺しに来る、その時を。