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先に口を開いたのは、サイラスの方だった。
彼は思いのほか、優しい声音で話し始めた。
「リリー、君の言うとおりだ。わたし達は話し合わなければならない。だから、ごめん。あんな風に切り出して。色々と考え込んでしまって……いや、違うな。それは言い訳だ。本当にごめん。初めから、こうすれば良かった」
「話し合った方が、より気付けることもある」
そう言って、サイラスはじっとリリーを見つめた。
その表情は例えるなら、慈しみだろうか。
意図を測りかね、リリーは戸惑い気味に尋ねた。
「気付くって、何に?そもそも、あなたはどうして離婚を切り出したの?」
核心をつく問いに、サイラスは少し目を細めてから言った。
「……わたしには初恋の人がいたんだ。子どもの頃に出会った"ヴェロニカ"という少女だ」
「ヴェロニカ……もしかして、公爵夫人のこと?」
サイラスが夫人のことを愛しているのは知っていたが、その理由までは深く知らなかったリリーである。
初恋の人だったと言われれば、なるほど納得がいった。
「あなたは、今でも彼女のことを愛しているの?」
「ああ、愛しているよ」
サラリと言われ、やはりという気持ちが駆け巡った。
サイラスは夫人のことが忘れられないから、離婚しようと言っているのだろうか。
「"ヴェロニカ"のことは、ずっと好きだった。幼い頃から結婚したいと、そう思っていた。"ヴェロニカ"はわたしの全てだったんだよ。彼女との出会いがあったからこそ、わたしは辛い幼少期を耐えられたんだから。ねぇ、リリー」
「はい」
急に呼ばれ、リリーはかしこまったように返事をした。
サイラスの口調は変わらず優しかったけれど、決意めいたその瞳に、思わず魅入られる。
「昔、君は領地の馬小屋で泣いているわたしを慰めてくれたね。わたしのことを"少年くん"と呼んで」
「え?」
リリーは戸惑った。
戸惑ったのは、サイラスの口調が質問ではなく確信のそれだったからだ。
以前、サイラスの領地を訪れた際、リリーは少しお転婆だった頃の、牧歌的な少女時代の思い出を語ったことがある。
男の子との出会い、そして別れを。
しかし、その男の子のことを"少年くん"と呼んでいたことは言っていない。
それをサイラスが知っているということは、つまり……。
「まさか……」
「ああ、そうだよ。"少年くん"は、わたしだ。わたし達は、あの時、領地で出会っていた。リリー、君はわたしの、初恋の人だった」
リリーは仰天して、サイラスを見つめた。
あの泣き虫で、でも優しい思い出の中の男の子と、今目の前にいる端正な顔立ちの男性に、共通点はあるだろうかと思いながら。
「あんな風に別れてしまうことになって、本当に辛かった。でも、君は約束を残してくれたね。ネリネの花ことばは……」
「また会いましょう」
リリーが呟くと、サイラスは満足気に頷いた。
「君は約束を守ってくれた。望んだ形ではなかったかもしれないけれど、わたし達はこうして再会できた」
「サイラス……」
もちろん、リリーは覚えていた。
子どもの頃のたわいもない口約束。
どこか夢見がちな少女だったリリーは、お互いに大きくなって社交界で再会できたらいいな程度にしか思っていなかったけれど。
ーーでも、サイラスはもっと、ずっと真剣に考えていたんだわ。
絶対にもう一度会う。
そして、想いを伝える。
結婚したいというのは、そういうことだ。
ふと、幼い頃のサイラスの表情が甦る。
どこか頑なな、でも誰よりも真っ直ぐな瞳は、あの出逢いからずっと、初恋の少女に向けられていたのだろうか。
「ごめんなさい。わたし、あなたがあの"少年くん"だって気が付かなかったわ」
「いいんだ、わたしも同じだから。しかも、別の女性を初恋の人だと思っていた」
リリーはハッとした。
そうだ、サイラスは言っていた。
"ヴェロニカ"が自分の全てだったと。
貴族としての義務も世間体も全て投げ出す程、愛に走ったのは、積年の強く激しい想い故だったのだ。
にも関わらず、ヴェロニカとはなす術なく死に別れ、あまつ、数年後には、それがただの人違いだったとわかったのだ。
どれ程の衝撃だろうと、リリーは思った。
今まで立っていた場所が崩れ落ちるような感覚だろうか。
その耐え難い苦悩は、亡き夫の秘密を知った時のリリー以上かもしれない。
「あなたはいつ気付いたの?初恋の人が、その……」
「ヴェロニカではなく、君だって?最初に、二人で領地を訪れた時だよ」
では、サイラスがずっと悩んでいたのは、このせいだったのだろう。
理由が、まさか自分にあるとは考えていなかったけれど。
「なんて自分は愚かで、滑稽なんだと思ったよ。大切な君を傷付け、思い出まで汚してしまった。全てを台無しにしてしまったのは自業自得だけれど、君を蔑ろにしてしまったことは、大きな罪だ。どうあっても償えない。全てが偽りのものに見えて、自分自身のことさえよくわからなくなってしまった。ヴェロニカに対する想いさえ」
「でも、あなたは答えを見つけた。そうでしょう?」
初恋の人だと勘違いしていたとしても、ヴェロニカへのサイラスの想いは本物だ。
その気持ちまで偽物だった訳ではない。
「最初は、初恋の思い出があったからかもしれないけれど、夫人と一緒にいる内に、あなたは彼女自身を愛するようになった。もちろん、不倫は良くないけれど……でも、あなたの気持ちは何ものにも変え難いあなただけのものだわ。夫人への気持ちは、嘘偽りなく、あなたから彼女への愛そのものだったはずよ」
「君のそういうところが好きだ」
「あ、ありがとう」
あまりにも自然に言われ、リリーは思わずまごついた。
もともと、女性的な魅力に溢れるタイプではない。
両親や弟以外に、これだけストレートに好意を示された経験など、ついぞなかったリリーである。
照れてしまうのも頷けた。
「わたしは君が好きだ。優しく聡明で、誰よりも真っ直ぐな君が。だからこそ、君には幸せになって欲しい」
サイラスはリリーの前で跪いた。
自然、リリーは少し顔を上げる形になる。
そうしていると、座位よりも距離が近くなり、よりサイラスの表情が具に見えた。
裏を返せば、彼からもリリーの表情の機微がよくわかる訳で……。
「リリー、君もようやく答えが出たんじゃないか?自分の気持ちに気が付いただろう?」
「ど、どうして……」
「そんなことがわかるかって?わかるさ。きっと君よりも早く気付いていたのは、わたしの方だ。隣国から帰って来た時、見つめ合う君たちを見たわたしだからこそ、わかるんだ。リリー、君はアルバーン子爵を愛しているね」
嘘をつくことは許されなかった。
向き合おうと言ったのは、リリー自身だったから。
そもそもリリーは、今目の前にあるサイラスの真っ直ぐな瞳に背くようなことをしたくなかった。
ーーああ、わたし達はようやく夫婦になれたんだわ。
リリーがずっと夢見ていた、力も立場も等しく同じ、虚飾も嘘もない関係。
両親のような、憧れの理想の夫婦。
リリーは悟った。
今から発することばで、自分はサイラスを傷付けてしまうだろうと。
でも。
わかっていても尚、言わなければならないこともある。
誤魔化しも、否定も要らない。
わたし達は夫婦だ。
限りなく、本音で向き合う夫婦だ。
そうなれたからこそ、リリーは目を逸らさずに頷いた。
「子爵を愛しているわ」と言って。




