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――違う。
リリーはその場に踏み留まるように、顔を上げた。
ここで諦めてしまったら、きっと後悔すると思った。
誰かが助けてくれるのを願うのも、嵐が過ぎ去るのを待つのも、過去の自分と何ら変わらない。
それではいけないのだ。
自分にとっても。そして、サイラスにとっても。
そうだ、自分はサイラスと話し合わなければならない。
例え、どんな結果に終わろうとも。
リリーは腹を括った。
「サイラス」
リリーはサッと立ち上がり、サイラスの手を強く握った。
彼が逃げられないように。
もちろん、サイラスが本気で振り解こうと思えば、容易くそれができてしまう。
リリーの力など、たかが知れているのだ。
だが、今のサイラスはそんな乱暴なことはしないだろう。
そう算段がつけられるくらい、リリーはサイラスのことがわかるようになった。
それが今まで一緒に過ごして来たことへの結果であり、サイラスが壊そうとしている二人の関係性そのものだった。
「サイラス」
リリーはもう一度サイラスの名を呼んだ。
いつになく力強いリリーの声音に、サイラスは何かを察したようだったが、無下にはしなかった。
一つ頷き、リリーが次に発することばを待っている。
リリーはそれに後押しされるように、口を開いた。
「あなたの言いたいことはわかった、そう言えれば良かったのだけれど……わたし、あなたの言っていることがさっぱりわからないわ。わたしにはあなたの言動は身勝手で、不誠実にしか見えない。胸が苦しいし、腹が立って仕方がないの。でも、それが間違っているなんて、もう思わない。あなたが教えてくれたから。傷付いた時、相手に負の感情を抱くことは、決しておかしなことじゃないんだって。そのことばが、わたしをどれだけ救ってくれたことか。だからこそ、あなた自身には道理を通して欲しいの。どうして、わたしと別れたいのか説明して。今のわたしのこの悲しみや怒りに、答えをちょうだい」
真っ直ぐにサイラスを見つめる。
彼は視線を逸らさなかった。
それが今のリリーにとって唯一の救いだった。
少なくとも、サイラスはただ言い逃げのようにして去ることはしなかったから。
「わたしは……」
ややあって、サイラスの口元が動いた。
彼にしては珍しく、ことばを選ぶような素振りだった。
「わたしは、別れたいとは言っていない。別れようと言ったんだ」
「それに違いがあるの?意味は同じ、離婚するということでしょう?」
まるで、自分は別れたくないけれど、そうしなければならないと言っているように聞こえる。
が、離婚を切り出したのはサイラス自身だ。
したくないのであれば言う必要はなかったし、よしんば何かしらの理由があったとして、それを説明しないというのは意味がわからない。
女性というのは、いつも弱い立場で、男性から別れを切り出されれば、それに抗う術はない。
しかも、夫婦の場合、世間からは妻の方に何か問題があったのだろうという認識になるのだ。
サイラスはそれを承知で、この離婚話を切り出した。
自身の利益の為に、リリーを貶めようとした訳ではないと信じている。
だからこそ、理由が知りたいのだ。
理解できるかはまた別の話で。
リリーはただサイラスの口から彼の考えを聞きたかった。
リリーは真剣だった。
「わたしは変わったわ。あなたと出会って変わった、変わらなければならないと思った。そして、あなたも変わった。結婚当初からは考えられないくらい、お互いに変わった。それが成長したということなら、わたし達、きっと向き合える。きちんと、ことばを尽くしてわかり合えるはずよ。だって、わたし達、夫婦なんだから」
これで拒否されてしまえば、もう本当に後戻りはできない。
夫婦としても、二人の今までの関係性も、全てが終わる。
これは賭けだ。一世一代の大勝負だ。
――だから、お願いよ。サイラス、どうか逃げないで。
祈るように見つめる。
すると、サイラスはふと微苦笑を浮かべた。
それは自嘲なのか後悔なのか、はたまた、ただおかしかっただけなのか。
リリーにはわからない。
ただ、サイラスはジェスチャーでこの場に腰を下ろすよう促した。
腰を据えて話し合おう、そういうことなのだろうと悟って、リリーは「よし」と内心で拳を握った。
リリーは賭けに勝ったのだ。
――この後、どう転ぶかはわからない。でも、少なくとも一歩前進よ。
リリーが迷わず、その場に座り込むと、サイラスも倣うように腰を下ろした。
二人とも、服が汚れることを厭わなかった。
いや、気にしていなかっただけか。
兎にも角にも、リリーとサイラスは文字通り、顔を突き合わせて向かい合ったのだった。




