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「え……」
リリーは最初、言われたことばが理解できなかった。
頭がフリーズして、意味を理解するまでに、やや間が空く。
「……どうして」
リリーがようやく口を開いた時、発せられたそのことばは明らかに困惑のそれだった。
当然だ。
湖に着くまでの道中、二人の間には和やかな雰囲気が漂っていた。
決して、別れを切り出されるような、そんな険悪なものではない。
リリーに至っては、サイラスへの想いを固め、夫婦として一緒に歩んで行こうと決めたばかりでもあった。
だからこそ、リリーはもう一度、繰り返した。
「どうして」と。
思いの外、声音が弱々しいものになってしまったのは仕方がない。
リリーはサイラスの意図を押し測ろうと必死だった。
「どうして……どうして、そんなことを言うの?急に、そんな……もしかして、わたし、何か気に障るようなことをした?何か迷惑をかけるようなことを?」
「リリー」
必死に理由を探るリリーを、サイラスはやんわりと止めた。
首を横に振り、静かに言った。
「君は何も悪くないよ。気に障ることもなかったし、迷惑だと思ったこともない」
「じゃあ、どうして……」
そんなことを言うのと、リリーはサイラスを見上げた。
じっとサイラスの返答を待ちながら、サイラスの表情を確認し、それが穏やかなままだったことに、なおリリーの胸中は掻き乱されるのだった。
「理由は……いや、やめよう。今となってはもう意味がないことだから」
「何よそれ……」
リリーは呆気に取られて呟いた。
別れるというのは、つまり離婚するということだ。
それは重大事だった。
貴族にとっての離婚は、不貞の証明でもある。
特に、女性側に不利な裁定が働くので、離婚が成立すれば、リリーはまず間違いなく生活の全てを失う。
だが、リリーにとって今一番、頭の中を占めているのは別の事柄だった。
ーーどうして、そんな酷いことを平気で言うのよ。
二人の関係をどうしていくのか、これからの将来についてどうしていきたいのか、一緒に考えるのではなかったか。
未来に向かって進んでいくのではなかったのか。
それを無意味だと、サイラスは今そう言ったも同然だった。
だから、リリーは叫んだ。
「意味がないことなんてないわ!」と。
今までのリリーでは考えられないほど、大きな怒りを含んだ声音だった。
「あなたが言ったんじゃない、やり直そうって!今までのことを償いたいって!これからのあなたで、それを示してくれるんじゃなかったの?一緒に変わっていくんじゃなかったの?それなのに、急にそんな……自分勝手にも程があるわ!」
お互いに成長して、一緒に幸せの形を見つけていくのだと思っていた。
その過程で、悩んだり苦しんだりすることはあれど、それは次に進む為に必要な痛みであり、覚悟でもあった。
それなのに。
サイラスは「別れよう」という一言で、それら全てを否定してしまった。
切り捨ててしまった。
ーーあまりに、それじゃあ、あまりに虚しいわ……。
今までの二人で歩んできたものを、関係性を、サイラスは非道なまでに足蹴にし、台無しにしてしまった。
リリーは震えるように自身の身体をかき抱いた。
涙が頬を伝うままに任せて。
「リリー……」
そんな悲しそうな顔をしないでよと、リリーは思った。
サイラスの方がよほど苦しい表情をしているなんて、おかしいではないか。
この現状を引き起こしたのは、他ならぬ彼自身なのに。
「君を泣かせるつもりはなかった。ごめん」
ーー謝らないで。謝るくらいなら、理由を教えて。ちゃんと、わたしを納得させてよ。
リリーはとうとう、その場に崩れ落ちた。
サイラスは一切、言い訳を述べなかった。
ただ謝るだけで、彼は理由も事情も何も教える気などないのだ。
そこに、サイラスの揺るぎない本気を感じた。
「わたしが全て悪いんだ。恨んでくれていい。だから、リリー……別れよう」
ーーそんな風に言うなんて、ずるいわ。それじゃあ、あなたを許せなくなるじゃない……。
リリーはきっとサイラスを許したいのだ。
何だかんだで、夫婦としての絆がある。
こんな形で、今まで築き上げてきたものを壊したくなかった。
でも、サイラス自身がそれを求めていない。
サイラスはもう何かを決めてしまっていて、リリーとの離別を選んでしまった。
全て手放す覚悟を固めてしまったのだ。
ーーああ、わたし達はもう……。
戻れない。
後はもう、抗う術のない水の如く、ただ流れていくだけだった。




