第二話 初見
「ここら辺で休憩しようよ?」
彼らが今いる世界は、所謂廃墟と呼ぶに相応しい場所で、空はどんよりと曇っており、辺りは薄暗い。更に彼らの周りには、
――どうしてこんなに沢山の人形が? それも、
少しだけ寒気を覚えつつ、彼はしばしの間それらを見つめていた。
――こんなにバラバラにされて。
それらは彼の言うように腕や足どころか腹部や頭部まで破壊されている。まさに悪趣味としか言い様がない。
「ねぇ、アリスちゃん?」
「何?」
「まさかとは思うけど、キミまでこんな目に遭う。なんて言わないよね?」
彼が彼女にそう訊ねると、彼女は彼に、「そんな心配はしないでいい」と言い、「貴方はただ、私の為だけに目的を果たせばいいだけだから」と言って、あの時の様に彼をじっと見つめた。流石の彼も、彼女からのその眼差しだけは苦手で、つい視線を逸らしてしまった。
「ごめん」
「解ればいいの」
彼女はとてもおとなしく、あくまで普通――ただし、その特異な状態(言動が取れる部分など)は省いて――だが、それでもまだ出会って間もない事もあり、どこか馴染めない部分がある。
――まぁそりゃそうだよね? だって僕達、まだお互いの事がほとんど解ってないんだから。
――だからこそ、早く仲良くならなきゃいけないんだよね?
自分に言い聞かせるように、彼は内心でそう呟いた。
そんなふうに彼女と会話をしながら、彼らは丁度足を休められそうな場所を見つけた。そこは一件の建物で、やはり廃墟らしく崩れてはいるが、思ったより瓦礫は少なく、そのうえそこには都合よく二人分の椅子があった。
――運がよかったのか、それともあらかじめ用意されていたのか……まぁそんな訳ないか。
一先ずそこに足を運び、その椅子で身体を休める事にした。
「よかったね? 確かに殺風景な場所だけど、ここなら少しは時間が潰せそうだ」
「そうね」
彼女はあくまでもその無表情と素っ気ない態度は変えず、彼の質問に対してただ淡々と応えるだけだ。
――本当に素っ気ないよね? ま、いいけどさ?
「それより、キミがもし目的を果たす事が出来たら、それから先はどうするつもりなの?」
「解らない。でも、強いて言えば、もう少しだけ、貴方といたい」
そう言って、彼女は彼を見つめた。
「アリスちゃん……」
相手はあくまでも人形。だがそうは理解していながらも、彼はあの時のように鼓動が高ぶり、ほんの少しだけ落ち着かない気持ちになっていた。
――アリスちゃんには悪いけど、この子は《人形》なのに、どうして僕はこんなに動揺してるんだ? 馬鹿か?
そんなふうに自虐しながら自分を落ち着かせようとはするが、それでも彼はどうしても相手が彼女だと調子が狂うようで、上手く自分をコントロールする事が出来ない。
――何だかなぁ?
「そういう貴方はどうするつもりなの?」
「え、僕? 僕は……」
唐突にも程がある程唐突だった。しかしその質問は彼も彼女に対してしている為、応える義務はある。
「そうだね、僕は……」
それでもどう応えるべきかは解らなかった。自分も彼女に対して同じ質問をしておきながら、とても情けない話である。
「ごめんね? 僕は解らないや」
「そう」
彼からの返答を受け、彼女は俯いた。その表情はどこか寂し気で、彼は何となく可哀想だなと思った。
――何だか悪い事をした気分だな?
そう思い、彼は彼女にある話題を振ってみる事にした。
「ところでアリスちゃん、今更だけど、キミはあの時どうやって僕の部屋に入ってきたの?」
「それは簡単。貴方が私と共にこの世界に訪れる際に窓の外にに現れた空間に足を運んだように、私もそこから侵入したの」
「そうなんだ? それで、ずっと僕を待ってたの?」
「そう」
彼女はやはり淡々とした口調で質問された事に対して返答するのみで、余計な事は一切言わず、そんな彼女はよく言えば利口で、悪く言えば愛想がない。といったところだろうか? そんなふうに彼は思い、だけど、と彼女を盗み見た。
――そんな事をこの僕が思ったところでどうの仕様もないんだけどさ?
「いくらキミが人形だからって、よく飽きなかったね? 多分キミの場合あの場所に同じ姿勢でいたんでしょ? だったら尚更だよね?」
「そうね」
彼女は尚もその無愛想な態度をとり続けている。そんな彼女に対して彼はやれやれと思い、でもまぁと考えを改め、こんなふうに思った。
――よく考えてみれば、例え相手が《人形》とは言え、こんな可愛い女の子と一緒いるっていうのは男としては別に悪い気はしないし、それに何よりこんなふうに誰かとお喋りが出来るっていうのは本来僕が望んでた事だから別にこれはこれでありだよね?
それは確かに彼の言うように本来彼が望んでいた事で、少なくともここ数ヶ月間は体験出来なかった事だった。そのうえ、
――この子が僕にとっての初めての友達になるのかもしれないしね?
そんな淡い望みを胸に、彼は彼女にこう問い掛けた。
「キミの言うそのパーツっていう物が早く見つかるといいね?」
「他人事のように言わないで。それを探すのは貴方なのだから」
そう言って、彼女は彼を見つめた。彼はまたかと思った。しかしよく見るとその黄ばんだ包帯に滲む血の量が増している様に見え、彼は思わず目を擦り、そして再び彼女の目元を確認した。だが既にその目元は元の状態に戻っており、やはり先程自分が目にしたものは見間違いだったのかなと思い、一度胸を撫で下ろし、そのうえで彼女を不快にさせてしまった事について謝罪する事にした。
「ねぇ、アリスちゃん?」
「何?」
「もしも今、ぼくのせいで不快な気分になったのなら、それはごめんね?」
「大丈夫、解ればいいの。気にしないで?」
「うん」
――それにしても、本当に気味が悪いよね? ここ。
辺りにあるのは崩れた建物や破壊された人形ばかりで、彼は正直居心地が悪かった。
――一体、誰がこんな真似を?
不気味に思いながらも、彼は両腕を頭の上で伸ばし、少しでも身体に溜まった疲労を和らげ様とした。
――アリスちゃんは心配しなくていいって言ってくれたけど、やっぱりいつこの子まであの人形達と同じ
ような目に遭うか解らないから、そんな事にならないように僕が注意しないと。
そんな事を思う彼の傍で、彼女はぼうっとした表情のままで俯いていた。彼女はやはり相変わらずの無表情で何を考えているのかは解らない。それでも恐らくは先程の彼からの発言についてはもう既に許してくれている頃合いだろう。
――これから先、何かと上手くいけばいいんだけどな?
そんな僅かな思いをいだきつつ、彼はそう願った。
――僕にしか、アリスちゃんを守る事が出来ないんだから。
――そうだよね? アリスちゃん。
「何?」
「え? ああいや、別に、何でもないよ?」
「そう」
短くそう言って、彼女は口を閉じた。
「さて、それじゃあそろそろ行こうか?」
「そうね」
その場から立ち上がり、彼らは再び歩みを刻んだ。
「暗いね?」
歩いても歩いても曇り空はどこまでも続き、全く晴れる様子はない。そんな空を見ていると、彼はまるでそれを見ている自分までもがどんよりとした気持ちになりそうな気がした。
――いつまでこんな空が続くのかな?
この空のせいで、或いは憂いにも似た感情が芽生えつつあるような気がした。
「ねぇアリスちゃん、例えばだけどさ、もしもこのタイミングで僕達の目の前に何か出てきたりしら……」
その時、
ザッ。
――え?
何か鋭利な物が彼の頬を掠め、そこから血が流れた。そんな彼を見て、彼女は「そう」と呟き、「来たのね?」と、何かを察したかのような口調でそう言った。そして、「私に戦闘命令を」と言って彼の方を向き、彼を見つめた。
――戦闘命令って何だよ?
そんなふうに油断していると、
「くっ!」
向こうから次々と無数のナイフが飛んできた。その中の一本が彼の左腕に突き刺さり、そんな彼を庇うように彼女は彼を抱き、「落ち着いて」と言って彼を宥めた。
――何なんだよこれ?
ナイフが自分の身体に突き刺さる度に彼女は苦痛の声を漏らし、しかし尚も彼を庇おうとしている。彼は訳が解らなかった。一体今、この場で何が起きているのか、誰がナイフなどを飛ばしてきているのか、そして何より、それ以前にその相手は果たして何者なのか。それが解らないままでは抵抗の仕様がない。しかしそんな彼女は彼に訴えかけるようにこう言った。
「その左腕で、私に魔力を送って」
苦しそうな話し方だった。それは声を絞り出しているようにも見える。
「アリスちゃん!」
「動かないで。大丈夫、私は平気だから。貴方はまず、魔力を集中させて」
「ま、魔力って……」
「いいから!」
この時初めて彼女が彼に対して声を荒げた。まるで彼女自身も焦っているかのようだ。
「アリスちゃん」
「……ごめんなさい、少し取り乱してしまったわ? 許してちょうだい」
「別にいいけど、でも……」
「もう躊躇っている時間はないの。だからお願い、早く私に魔力を送って」
「……っ!」
彼は先程ナイフが突き刺さった事によって痛みの残る左腕のそれを強引に引き抜き、彼女の頬に左手を添え、もうどうにでもなれとばかりに半ば自棄になりながらその腕に力を込めた。
――これでもし失敗したら、その時は本気で泣いてやる!
そんな事を思いながらも、しかしそれでも彼は強気だった。それは彼女を想う気持ちと、強いて言えば自分がまだ死にたくないという二つの気持ちがあったからだ。
「……ありがとう、錬磨」
すると、彼の魔力を受けた彼女の身体が淡い光を放ち、「私の手を取って」と言って、彼に自身の右手を差し出した。
「貴方の魔力を得た私は、貴方と手を取り合う事によっ真価を発揮する事が出来る。だから早く」
彼女のその呼び声に対して、彼は今度は躊躇う事なく応答し、彼も自身の左手を彼女に差し出した。
「ねぇアリスちゃん、これはお詫びとお願いを踏まえて言っておきたいんだけど、その傷は後でちゃんと治してあげるから、絶対に無理はしないでね?」
「解っている」
「それじゃあ、行くよ?」
「イエス、マイ・マスター」
互いに繋いだ手に力を籠め、彼らはその、『見えない誰か』と対峙した。
「僕達に敵対するのは誰だ! 一体どこにいる! 邪魔するつもりなら、容赦はしねぇぞ!」
彼の怒り交じりの威嚇に対して、彼らの向こう、暗い闇の中から一人の少女が……いや違う。彼女は、
――血に染まった左目。まさか……!
彼は彼女の姿にも見憶えがあった。あの時彼の夢に現れた、顔を押さえていたもう一人の少女だった。
――この子がアリスちゃんと揉めていた女の子、いや、《人形》か? でも……、
大きく目を見開き、下品な笑みを彼らに向けているその《少女人形》は、どう考えてもあの時彼の夢の中でアリスを怒鳴りつけていた《人形》とはまるで別人のようだった。
「キミがアリスちゃんから《眼》を奪った張本人だね?」
「いかにも、この僕こそが貴方の傍にいらっしゃるアリス・ド・カオスさんからこの《眼》奪った存在である、ヘレン・ローズ・キルです。もしよろしければ、気軽にヘレンとでも呼んでください」
ヘレンと名乗るその《人形》の手中には一つの球体が握られており、それは紛れもないアリスの眼球で、それを目にした彼は再び寒気を覚えたが、しかしそれと同時に覚悟も固まっていた。
「解った。それじゃあヘレンちゃん、キミに一つだけ聞いておきたいんだけど、どうしてキミはこの子の《眼》を奪ったりしたの?」
「そんな事は言うまでもなく、そこにいるアリスさんによってこの僕も大切な《左眼》を奪われたからですよ。まぁ最も、僕の場合はちゃんと奪い返す事は出来ましたがね。ただしそれから数百年間、僕はもう二度とそれを元に戻す事は出来ませんでしたが」
「そう、なんだ……」
そんな彼女とのやり取りの中で、彼は再び躊躇いをもち始めていた。それは彼女も彼女で被害者であるが故にその仕返しとしてアリスから《眼》を奪ったらしく、その言い分は認めたくはないが筋が通っていたからである。しかし、
――本当にこの子の言ってる事は正しいのかな?
彼はアリスのパートナーであるが故に彼女の味方にはなれない。だが、だからといって彼女だけを責める事も出来ない。だから彼は彼女にこう質問してみた。
「ヘレンちゃん、別に僕はキミを疑っている訳じゃないけど、これは念の為に訊いておきたい事なんだ。だからあえて質問させて貰うよ。いいね?」
「何でしょう?」
「キミの言っている事は本当なんだよね? ヘレンちゃん」
すると、ヘレンは彼に、「だから嫌なんだよ」と言って、右手をすっと上げた。
「だから面倒臭い人間は嫌いなんだよ」
そう言って彼女はぽつりぽつりと何かを呟き始めた。そしてそれが終わると、
「すみませんが僕は少々気が短くて、貴方の様な人間を目にしていると虫唾が走るんですよ。だから――」
来なさい。そう言った彼女の周りから、「きゃはは!」という、まだ幼さのある声が聴こえてきた。
「――残念ですが、お二人にはここで消えて貰います」
彼女のその手が彼らに向けられ、「行きなさい」と、何者かに命令した。すると、その暗闇の中から幾体もの幼い子供の姿を模した裸の人形が現れた。いや、それだけならまだしも、それらの胸の中央部には大きな穴が開いており、そこには右には歯車が、左には生身の心臓が埋め込まれており、それぞれがそれぞれのリズムを刻んでいた。
「冥途の土産に紹介しておきましょう。彼女達はこの僕の忠実なる下僕、〈コープス〉です」
〈コープス〉、そう名指しされた《人形》は、彼女の周りを初め、彼らを囲むように辺りからも幾体も現れた。
「……やっぱり僕達に敵対するつもりなんだね?」
「当然です。何故なら僕も、彼女を許す事が出来ない、いや、一切そのつもりがないのだから。だから貴方には恨みはありませんが、先程もう宣言したように、この場で消えて頂きます」
「そう」
――仕方ない、よね?
「アリスちゃん、手に力を籠めて」
「イエス、マイ・マスター」
そして彼女とのこの出会いが切っ掛けとなり、彼らの初戦が始まった。
「くっ!」
ヘレンは勿論、その他の《人形》もその一体一体が強力だった。何故ならそれは〈コープス〉というだけの事だけはあり、倒しても倒しても次々と起き上がってくる。そのうえその身体があまりにも固く、なかなか破壊する事が出来ず、その為彼ら――少なくとも彼――は体力だけが消耗していく。その姿を眺めながら、彼女は彼にこう言った。
「僕なら自分の魔力でいくらでも人形を操る事が出来ますが、果たして貴方はどうでしょう? 現在貴方が操る事が出来る《人形》はアリスさんのみ。そしてそんな彼女すら貴方の魔力を得なければ戦う事が出来ず、尚且つ貴方の魔力は微弱故、互いに満足に戦う事は出来ない状態です。だから、結論として――」
彼女の手刀が構えられ、その手先が彼らを捕らえた。彼はアリスを背に庇ったが、
「かはっ!」
それが命取りとなった。
「――貴方では僕達には、いいえ、もっと言えば、この僕には勝てません」
彼女のその右手が彼の腹部に突き刺さり、貫通はしなかったものの、彼の体内で彼女の右手が暴れ、吐き気と嘔吐が彼を襲った。
――は……吐く……。
彼の身体の中が、それでこそヘレンによって滅茶苦茶にされてしまいそうな思いに駆られた彼は、だがそんな状態でもアリスを庇い続け、決して傷つけまいと努力した。
――僕が……アリスちゃんを……。
「ほう、なかなかな器ですね? 自身が苦しい思いをしているにも関わらず、それでも懸命に耐え続けるとは。それでこそ、殺しがいがあるというものですよ。ねぇ? ……渡良瀬錬磨ぁ!」
その勢いで彼の体内から何かが奪われた。それは彼の心臓だった。何故その様なものを奪い取ったか、それは彼女いわく、何となくだった。
「これは僕が頂きます。アリスさんの《眼》と共に。ところで、そろそろお二人の本気も見てみたいのですが、果たしていつになれば魔力を解放してくれるのでしょうね?」
そう言って数メートル程後方に飛び退き、彼女は笑顔のまま、彼らの様子を窺った。
愉快気に微笑む彼女とそれを見守る様に彼らの周りで棒立ちになる人形達。そんな彼女達を朦朧とした状態のままで見つめながら、彼は思った。
――僕だって本気は出してるのに。この子達を倒そうって、そう思ってるのに……。
それでも上手く魔力をコントロールする事が出来ない。いや違う、戦う事そのものすら出来ないというのが、或いは適当だろうか? どちらにせよ、今の自分が相当圧されている事は確かだった。
――このままじゃ、僕達……、
この時、彼は生れて初めて敗北する事に対する恐怖心をいだいた。いや、それどころか、下手をすれば死すらあり得るであろうこの状態に怯え始めていた。というのが適当だろう。
――僕は……どうすれば……?
腹部の痛み、そして吐き気と嘔吐、これ程までの苦しみは今まで味わった事がない。それでも質の悪い事に、先程のような出血はしていない。これでは別の意味で生殺しである。
「アリスちゃん、何か、ごめんね?」
「どうして謝るの?」
「だって僕が弱いせいでこんな事になっちゃったんだもん。敵だって一人も倒せてないし。それに……」
「言いたい事はそれだけ?」
「え」
「貴方は私と何を約束したの? どんな契約で私とこの世界に来たの? 貴方はそんな弱い人間なの?」
アリスは表情こそ変わらなかったものの、しかしそれでもその口調や声音にはやや怒りが含まれている様にも思えた。それに対して彼は、「でも」と応えようとしたが、彼女から「口答えしないで!」と怒鳴られ、
「茨の主に選ばれた人間の使命はただ一つ、それはその力を与えた人形と共に使命を果たす事、ただそれだけ」
そう言って、「だから、貴方は一人じゃない。私がいるから」と言った。
その時、彼の腕の紋章が輝き出し、鈍い痛みが走った。
「これは……」
「そう、これでやっと、貴方も本気が出せるのね?」
「それって、どういう意味?」
「貴方も使えるの。『傀儡の魔法』が」
「くぐつの、まほう?」
「そう」
「それって何?」
「貴方の胸に訊いてみて」
そう言われ、彼は彼女の言う通りにしてみた。すると、
『マスター』
――この声は?
彼の意識の中で何者かの声が聴こえた。それは落ち着きのある少女のもので、彼女とは別の意味で優しい声音だった。彼は一瞬驚いたが、しかしすぐにその声に耳を傾けた。
――キミは誰?
彼からの問い掛けに、その少女の声は、『貴方様の下僕です』と応えた。そして、『私を解放してください』と言い、その姿が、彼の中で徐々に実体化していった。
『私の名は茨の巫女。貴方様の腕の紋章に最も近い魔力を有する存在です。そして、今回の件、つまり、今現在貴方様に害する複数の者達に抵抗可能なのはこの私のみとなります』
ですから、そう言って、『どうかこの私を解放してください』と、彼にもう一度願った。
――解った。
彼らの前に青黒い古代文字の様なものが刻まれた魔法陣が現れ、その中央部からその名の通り全身に茨の様な蔦を絡めた少女の容姿をもつ人形が現れた。彼の魔法によって召喚されたその人形は彼らの方を振り向き、瞑った両瞼を開き、その、まるで血のように赤く、そして闇のようにどす黒い眼を露わにした。
「この茨の巫女、貴方様の魔力に呼応し、参上致しました」
彼の腕の紋章は尚も輝き続けている。まるで彼女にまで魔力を与えているかのように。
いや、この場合、
――僕とアリスちゃんを通して。って言った方がいいのかな?
「さて、それでは今度はこの私が参りましょう。マスター、貴方様は今一度その身体を休ませていてください。私に送り込まれる魔力はかなり大きいので、楽な姿勢でいた方がいいと思うので」
「解った。それじゃあアリスちゃん、悪いけど、少し肩貸して?」
「はい」
アリスの力を借りてゆっくりとその場に腰を下ろし、彼は胡坐を組み、腕を投げ出した。
――お腹、痛いな?
先程の現在であるが故に、体調は勿論優れない。おまけに二体の人形に対して同時に魔力を送り続ける必要がある為、彼自身相当な体力が要求される。
――なんて事はいいとして、茨の巫女、けっこう強いな?
形としては、地面を初め、瓦礫や人形達の身体そのものからなど、あらゆる場所から直接その蔦を出現させ、どれ程の力で締め付けているのか、ギリギリと音を立て、最終的には無残にその身体が砕かれ、一体、また一体と、その体内に収められていた歯車と心臓を残し、夥しい量の血を辺りに撒き散らし、人間ならば息絶えるというふうになっていた。という訳だ。
「――さて、残るは貴方一人です。ヘレン・ローズ・キルさん」
茨の巫女の黒い蔦が彼女の右手と共にヘレンに向けられていたが、彼は左手で彼女を制し、それを阻止した。
「待って。あの子の事は、僕が倒さなきゃいけないんだ」
「ですが……」
「お願い、これだけは、どうしても言う事を聞いて欲しいんだ」
優しく、しかし力強く言い、彼はその場から立ち上がった。
「……解りました」
「ごめんね? 茨の巫女」
彼は茨の巫女の召喚を解き、ヘレンに向き直った。
「ヘレンちゃん」
彼らのすぐ向こうに立つその少女人形に彼の視線が集中する。
「キミの事は、僕が倒す」
左手にありったけの魔力を集中させ、その拳を腰の横で構え、彼女を威嚇した。
「出来るものならやってみなさい」
「それじゃあ……行くよ!」
そして一気に攻め入り、いつも不良達を相手にする時と同じ構えを取った。
――この手で、僕が!
ヘレン目掛けて駆け出し、拳を彼女に向けてぶつけようとした。だが、
「なっ!」
すぐ目の前まで来た辺りで躱されたしまった。それどころか、
――何だ?
どういう訳か、今自分がどのような状態になっているのかが解らなかった。ただし一瞬だけ理解出来たのが、今現在ヘレンは自分を見下ろしているという事だった。それ以上の事は何も解らず、そのうえ彼の意識はすぐに薄れていってしまった。
――彼女のこんな声が、一瞬だけ聴こえたような気がした、そんな曖昧な記憶を残したまま。
「やはり貴方はまだ死ぬには惜しい人材です。だから今しばらくは、『これ』で命を繋ぎなさい」
「……ま……錬磨……」
――誰だ?
「錬磨!」
――この声は……アリスちゃん?
「……どうした……」
パーンッ!
「……の」
彼女からいきなり頬を平手打ちされ、彼はその頬を押さえたままゆっくりと起き上がった。
「僕は一体……ああそうか、ヘレンちゃんにやられたんだっけ? でも、だからってどうしてキミがそんなふうに怒ってるの? 僕は別に……」
「私に口答えするつもり?」
「え? だから、ほら……」
「自分が何をしたのかよく考えてよ。もし貴方が今息絶えてしまえば、私はどうなるの? 何故あの様な無茶をしたの? どうして私を困らせるの?」
「アリス……ちゃん?」
彼女のもう片方の目には再びあの時の様に血が滲んでいた。それも今回のものは相当で、その血は頬を伝い、首にまで達している。
「ま、待って、落ち着いてよ! だって、だって僕はこうして生きてるんだよ? ならそれでいいじゃないか! それなのに、一体何が……」
「言い訳しないでよ!」
「アリスちゃん……」
「貴方はただ、私の為に目的を果たせばいいの。その為に、貴方からはまだ死なれては困るの。お願いだから、それを解ってよ……」
彼女は彼の胸に顔をうずめ、じわりと熱い何かを彼の服に滲ませた。これは、或いは涙だろうか? または、
――最悪だな? 僕って。
そんなふうに自虐し、彼女から嫌がられる事を覚悟で、彼女のその小さな身体を抱いてみた。
――今夜は僕の負けか。
辺りに残るのは夥しい血の海と、瞼を閉じた人形達の頭と破壊された身体の残骸のみで、彼はそんな悍ましい光景を溜息を吐きながら眺めつつ、こう思った。
――絶対に、僕がこの手で。
必ずヘレンを殺す。そう誓い、今宵の月を仰いだ……。