邂逅
ケンジェル視点です。
俺は大きなガラス窓の向こうに見える、蕾を開きかけたサクラの木を眺めていた。こうやって家の中のイスに座ったまま外の花木を鮮明に眺められるとは、なんて贅沢なんだろう。
硝子窓というのは、大抵は向こう側が見えないものだ。一度貴族の家にある透明なガラスを見たことがあるが、こんなに平らに作られていなかったせいか、表面が波打って外の景色が歪んで見えた。
このガラス一つとっても大金だ。ここの人たちはその価値に気付いていないように見える。フミコに言わせると贅沢ではない普通の一軒家と言うことになるのだから。
この世界の文化水準は俺のいた世界とは比べ物にならないぐらい進んでいるようだ。ほとんどの人が大人になるまで学校に通うらしい。俺の常識だと、学校へ行けるのは村長の息子と大店の旦那の跡継ぎぐらいなものだった。なので、タカシが俺を学校に通わせると言ってくれた時に、ひどく偉くなった気がした。
学校に行く前の勉強ということで、チエとケンイチが俺に苦心してひらがなと数字を教えてくれた。これは普段使っている言葉が字になっただけなので、なんとか一日で覚えることが出来た。しかし、昨日習ったカタカナには苦労した。「ソ」と「ン」、それに「フ」と「ヲ」と「ラ」が似ていてややこしい。こういう時に記憶のマナが使えるといいのだが・・・王宮に勤める魔術師ならできても、火・風・光・水・闇の五つの基本魔法しか使えない俺では、そんな高等技術など夢のまた夢だ。仕方がないので、何度も何度も書いて覚えた。幸い鉛筆と紙はこの世界では安く手に入るようだ。俺が紙や鉛筆を使うことに躊躇していると、チエがそう言って教えてくれた。
そのチエだ。タカシに似ていて優しい子だ。最初はお互いに遠慮していたけれど、俺が危なっかしいと思っているのか、今はケンイチと同じぐらい俺にくっついて世話を焼きまくってくれる。
あまり側にくっつかれると嗅いだことのないいい匂いがして、変な気分になってくる。もう嫁に行くような歳なんだから、あまり男に近付かないほうがいいのにな。俺に気があると勘違いされたらどうするんだ。
俺はそんなことは思っていないぞ。・・・彼女はこの世界に慣れていない俺のことを案じているだけだ・・たぶん。
「ケンジェル、今日は漢字の勉強をするからね。その前に、健一と一緒にジョンの散歩に行って来てくれる? そろそろ外の世界との付き合い方を学ぶべきだと思うの。驚いても大声を出さないようにして、健一に質問してね。近所の人に会ったら、言葉を少ししか覚えていない外人の振りをするのよ。」
噂をすれば影だ。昨日から暖かくなってきたので、チエの着る物が薄手の物になっている。胸、思っていたより大きいな。おっ、返事をしないと。
「わかった。気を付ける。」
庭に出るためにクツを履く。このクツというものはすぐれものだ。履くのに時間かかからないし、それに軽い。「大きな足ねぇ。まだ身長が伸びるのかもね。」とフミコに言われたが、そんな俺の足に合わせて作ったかのように店にクツが売られていたのには驚いた。既製品というそうだが、店に入ってすぐに履物が買えるなんて、なんて便利なのだろう。それもチエが「セールでいいのがあったから。」と言って、用途の違うクツを4つも買ってくれたのだ! あっ、そうそう4つじゃなくて4足だった。セールという言葉は、女を喜ばせるものらしい。フミコもチエもこの言葉には敏感に反応する。
庭に出ると、ケンイチが犬の顔をタオルで擦っていた。犬畜生にタオルという高級な布を使うなんて、なんて贅沢なことをするのだろう。
「散歩に行くだけなのに、犬におめかしするのが常識なのか?」
この世界の常識がわからないので、内心はあきれ返りながらもケンイチに声を掛ける。
「違うんだよ。いつもはこんな事をしないんだけどね。ジョンがなんか赤い色が付いたものを食べたみたいで、顎の所にそれがついてるみたいなんだ。でも擦ったくらいじゃ落ちないや。今日は身体を洗ってやらないと駄目だな、これは。」
『身体を洗われるなんて、ごめんだぜっ。』
「「えっ!!」」
「ジョンが喋った!!!」
「まさかその声っ! 赤髭のジョンなのかっ?!」
『ケンジェル・・だったよな。気づくのが遅せーよ。・・それになんでお前は人間のままで、俺は犬なんだよ。』
「ジョン、いつからここにいたんだ?もう五日も犬のままなのか? 気づかなくてスマン。俺だけがこの世界に来てしまったんだと思ってたんだ。」
『いつからって、今朝からだよ。あの森でオークキングに出くわしちまってな。何とか相手を倒したまではよかったが、酷い手傷を負っちまったんだ。呼べと叫べとお前たちの声もしねぇ。しょうがないから洞穴に逃げ込んで傷が癒えるのを待つことにした。けどな何かの菌が入っちまったらしくてここのところずっと高熱が続いてたんだ。こりゃ俺も今回は年貢の納め時だなって思いながら寝入り込んで、目が覚めたら、見たことも無いような変わった建物の中でさ。立ち上がろうにも四つん這いのまま立てないんだ。自分をよくよく見て見れば、犬のような足をしてるじゃないか。この驚愕がわかるか?目が覚めたら犬ってなぁ・・・。』
ジョンにとってはこの状況はとんでもない状況だ。しかし俺にとっては、一人ぼっちでわけの分からない世界に飛ばされて、宙に浮かんでいるような頼りなさを感じていただけに、ジョンがここにいてこうやって話が出来たというだけで、生き返ったような気持だった。
フミコはパートに出ていていなかったので、タカシとチエを呼んできて今度はジョンの対策会議をした。
一応「人間」に犬小屋は不味いだろう。ということで、ジョンは家の中で暮らすことなった。この世界では家の中で暮らす動物もいるらしい。なんともはや。けれどそういう前例があるのならジョンのことも目立たないだろう。
家の中に入るのなら身体を洗わないといけないということで、結局ジョンは身体をとことんゴシゴシと洗われることになった。情けない顔をしていたが、こればかりはしょうがない。俺も最初の日は、タカシとケンイチに身体を隅々まで洗われたのだ。
その後、ジョンが素っ裸では頼りないというので、チエが学園祭というもので使ったというマントをジョンの首にかけることにした。「またペットショップで、服を買ってきてあげる。」という言葉には首をひねったが、なんと犬に着せる服があるそうだ。開いた口が塞がらない。
ジョンは、俺と同じようにトイレを見て驚愕していたが、我慢していたということですぐにトイレを使っていた。犬の身体でトイレを使うのは大変だったそうだが、なんとか独りで水も流していた。
「すごーい。天才犬だって言われるね。」とケンイチは驚いていたが、これって犬として見ていいのだろうか。ジョンのことを人間として見るべきか犬として見るべきか判断に悩む評価である。
「俺、犬でよかったかも・・・。」
俺がチエとケンイチに漢字を教えてもらって、脂汗をかきながら勉強している姿を見て、ジョンはポツッとそう言った。ジョンはテレビを気に入ったようだ。俺が四苦八苦して勉強に精を出している間、ジョンは居間のソファに座って、ずっとテレビを観ていた。
フミコがパートから帰って来て、テレビを観ているジョンに驚いたが、ケンイチが直ぐに今朝からの事をフミコに伝えていた。
「まあまあ、何という事なのかしら。ジョンが話せるなんてっ。」
俺とチエとケンイチが客間で勉強している間、ジョンはフミコとタカシと一緒に居間でテレビを観ながらなにやら長いこと話し込んでいた。年代が同じ(?)なので話が合うのだろう。
ジョンとの邂逅は、また俺たちの生活に違った彩を添えてくれることになった。
高原の家でフミコが結婚するまで使っていたという古いベッドに身体を横たえながら、隣の客用布団に身体を伸ばして休んでいるジョンの様子を伺う。ジョンには悪いが、今日は心底ぐっすりと眠れそうだ。
仲間がいるというのはなんという安心感なのだろう。
目の前に浮かぶ漢字の形の数々を振り払って、俺はゆっくりと目を閉じた。
ジョンとの再びの出会い。ケンジェルは嬉しかったようですね。