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お爺ちゃんとお婆ちゃんが寝静まるのを待ち終えたのは、日付が変わる20分前だった。
じりじりと寝返りをしまくった布団をはねのけたい衝動を押し殺し、健吾は注意深く立ち上がった。着替えを済ませ、もしもの時のためにすぐ連絡できるよう携帯電話を後ろのポケットに突っ込む。そして、隣の部屋で寝ている二人の寝息より大きな音を立てないよう、早る足に注意して玄関に歩を進めた。自分の運動靴を持ち上げ、小脇に抱える。
玄関は開けられない。戸車がとんでもない悲鳴を上げてしまう。
健吾は炊事場の勝手口に向かった。打ちっ放しの土間に下り立つ。
急ごうとする手を抑えて開けた掛け金は、針を落した程度も音がしない。戸も同様に静かに開いてくれた。
万事上手くいき、健吾は外に出た。
早速ダムに行こうと、早足で前庭に回り込む。今から走っても間に合わない。そんなことは考えなくても分かってる。それでも、子供の自分を駿足にしてくれる術が庭にある。
ガレージに立て掛けてある自転車が目に入った瞬間、健吾は足音も気にせず駆け寄った。もう文句など言っていられない。力強くカマキリハンドルを握り込んだ健吾は、助走をつけて飛び乗った。
速い!
右側のブロック補強された山の急斜面が、アスファルトの車道が、ガードレールが、木々達が、標識が、健吾の流した汗と一緒に次々と後方に吹き飛んでいく。夜陰との相対感があいまって、自分を中心に世界を回しているような錯覚さえあった。
ペダルを踏むたびに、ポケットの携帯電話がズボンを突っ張らせて邪魔をしてくるが、まったく意に介さない未体験のスピードを健吾は味わっていた。
子供の体重と、ちぐはぐなタイヤゆえに慣性力こそ心許ないが、それでも両親に買って貰ったシティサイクルと比べて段違いに軽量だ。
急げ! 次々と迫ってくる夜の暗い山道を、一条のライトで照らしだし、恐怖を感じる暇さえなく、もっと速くもっと急げると言うように、健吾は駆け抜けた。
天端は点々と灯る常夜灯で闇に浮かび上がっていた。入り口に乗りつけた健吾は自転車を放り出し、柵を跳び越えて走り込んだ。
途端に、寂れたコンクリートには似つかわしくない真っ白な点が目に映る。
マヒルだ。純白のドレスに身を包んだマヒルが縁の上に立ってダム湖を覗き込んでいた。
「マヒルお姉ちゃーん!」
弾かれたようにマヒルが振り返ると、瞠った目で健吾をとらえた。
マヒルの足元で立ち止まった健吾は、息を切らし喘ぐように言う。
「降りてよ! 危ないよ!」
マヒルは悲しそうに笑っているだけで降りてこない。
「降りてってば!」
声を荒らげても梨のつぶだった。
見つめ合った視線が命綱に思えて、健吾はマヒルから目が離せなくなる。
縁の上で身体を揺らしているマヒルは、無理に引きずり降ろそうとすれば飛び降りるのではないかという危うさがあった。
ややあって、健吾の息が整いだした頃――。
すっと、マヒルの手が伸びてきた。
健吾が思わずその手を取ると、マヒルは貴族のような仕草で天端の床に降り立った。
「ああ、やっと私を迎えに来て下さったのね。私は、あなたが来るのを、ずっとずっとここで待っていました」
マヒルの歌うように紡いだ台詞に、健吾は口をぽかんと開けた。それから、歯が溶けそうな甘い言葉が重ねられる。
この人は誰だろう?
健吾はそう思った。
マヒルが別人に見えたのだ。愛する人をただただ待ち焦がれている少女の物語から迷い出てきてしまったヒロインに……。
マヒルは一頻り語り終わると、うすく汗をかいた顔でふわりと微笑んだ。
「今度の演劇で、ヒロインを決めるオーディションの課題になってる台詞なの。こ
の衣装は配役された人が着るんだけど、勝手に持ち出してきちゃった。ねぇ、どうだった?」
ほっとした健吾は、肩の力が抜けると目許の栓も一緒に抜けてしまった。涙が溢れ、顔中をシワだらけにした健吾はマヒルに抱きしめられた。
「ごめんね、怖かったよね」
頭を優しくなでられ、健吾は声を大にして泣き出した。両親のこと、祖父母のこと、マヒルのこと、それら全部をひっくるめて納得できないものを洗い流したかった……。
むっとくる夏夜の熱気に満ちた天馬に、一人の子供の泣き声が、長く長く響き続けた。
「あのヒントでよく分かったね」
「ひどいよ、夜更かしなんていい加減な答え。大人とそんなに関係ないじゃないか」
鼻をすする程度におさまった健吾は、マヒルの胡座の上に座っていた。
「それに、お姉ちゃんは嘘つきだ」
健吾は声音で責めた。
マヒルの本当の名前はマヤ。真夜と書いてマヤと読むのだ。キャンプ場で合宿していた学生達の一員で、「正反対の名前ならいる」というのは彼女のことだったのだ。
真夜は家族の関係がもとで、大学入学を機に実家を飛び出したと言う。
引っ込み思案な性格を改めようと演劇サークルに入ったが、思わしくない学生生活を送り、恋人になった先生にまで裏切られて自暴自棄になってしまった。
そんな時に健吾と出会い、健吾の前では肩肘を張らず、なりたい自分を演じれるのが嬉しかったらしい。マヒルなんて偽名を使ったのは、正反対の自分になるおまじないにしようと思ったのだそうだ。
「ごめんね。恋人の代用品なんかにして」
健吾は微妙な気分になった。真夜のあの行動は、健吾に他の誰かを重ねたものだった。
それは僕も同じか……。
お母さんの顔が思い浮かび、顔から火が出る思いがした健吾は肩を縮めた。
真夜はいつまでも自分を語り続けた。まるで、健吾をもう一人の自分にしようとでもするように。
いつしか健吾は眠ってしまった。肌に寒さを覚えて目を覚ました時、空は白んでいた。
寝ぼけ眼で顔を上げた健吾の前で、
「健吾、見てて」
待ってましたと真夜が仁王立ちした。
「今度のオーディションで絶対にヒロインになってやる。先生に――あいつに、私を捨てたことを後悔させてやる。私の方が魅力があるって分からせてやるんだ!」
と、ガッツポーズをとった真夜は、もう一度あの台詞を歌い上げる。
真夜は朝焼けに紅く染まっていた。純白のドレスは朝陽の紅い光を隅々にまで吸い込んでふくらんでいるようだ。
それは、これまで健吾の目に映った何よりも、素晴らしく、尊く、力強い景色だった。
健吾は朝帰りの理由を祖父母の二人がかりで問い詰められたが、真夜のことは一切しゃべらなかった。
数日後に、真夜は合宿の終了と見事ヒロインを勝ち取ったとことを告げ、「きっと来てね」と、大学の住所と公演日を書いたメモを健吾は手渡された。
一人になってしまったあとの時間は、大人しく宿題をして過ごした。
宿題が片づき、絵日記と朝顔の観察ノートも規定枚数に達し、やることがなくなった夏休み終了三日前――。
お母さんが迎えに来た。
大人の深い事情に興味はないが、どうやら健吾は晴れて片親になったようだ。祖父母がお母さんに頭を下げて詫び、土産だと言って米やら山菜やらを山ほど真新しい軽自動車に積み込んでいく。
健吾は黙ってお爺ちゃんが組んだ自転車を、開いたバックドアに運んだ。
きょとんとした顔のお母さんに首を傾げられる。
「もらってもいい?」
健吾は謝るかわりにそう言った。
「ああ、持っていきな。そんでもって、また遊びに来い」
自転車を積み終わり、朝顔の鉢と一緒に健吾が助手席におさまった。
お爺ちゃんとお婆ちゃんに見送られて車が走り出す。
今では無数に開いた朝顔の花に健吾が膝をくすぐられていると、
「あら、それ赤い花ばかりじゃない。健吾は青の方が好きなのに」
「そうだね」
健吾は目を窓の外に投げっぱなしたまま、朗らかま声色で返した。
お母さんは知らない。僕が変わったことを知らない。今の僕は青じゃなくて赤が好きだ。
ただそれだけのことで、健吾の心は晴れやかだった。
真夜からもらったメモを眺めてながら思う。
ここって、自転車で行けるかなぁ?
(了)
読了ありがとうございます。
解説としまして
大人になりかけの女の子とまだまだ子供である男の子が短い夏の中で出会い、お互いに一歩成長する姿を描きたかったのです。
題名を『朝顔』にしたのは、夏の風物詩だったのと、水をやり続けるだけで勝手に成長していく姿が子供の成長に似ていると思ったからで深い意味はありません。
感想など頂けましたら嬉しいです。