5
カブトムシの捕れない穴場まで走った健吾は立ち止まった。膝に手を突いて息を整える。
なんとなく周りを見回すと、木に塗られた水飴がまだ乾いていない、てらてらと歪んだ光が目に入った
――どこに通じるものがあったのか、先ほどの出来事が脳裏で瞬く。
健吾は山に分け入って、地面を覆う小枝や葉っぱを掴んだ。自分でもどうしてそうしたいのか分からないまま、水飴にそれを貼り付けた。
歪んだ光が見えなくなると、心のどこかがほっとした。にわかに緩んだ足取りで下り始める。あと1メートルで車道に出ようかというところで、
「うわっ!」
雑草に足を取られた。
昨日の再現だ。車道に転び出された拍子に膝小僧をアスファルトで擦った。
痛みはあるし、血が滲みだしてそれなりに驚きもした。でも、そんなに気にならない。今なお小さく燻ぶり続けている熱が健吾の心を占めていた。
そして、さらに痛みを遠退かせることを思い出す。目の前に携帯電話が転がっていた――転んだときにポケットから落ちたようだ。
家をできてからの時間感覚で、「まずい!」と口にした瞬間――。
電話は震えだし、着信音が鳴る。お婆ちゃんだ。健吾は慌てて通話ボタンを押した。
「なんで、電話しねぇの!」
「い――今、しようとしてたよ」
開口一番に叱られ、怯みながらも健吾は言い訳した。
「ケンちゃんはっきり言っとくよ。いいかい、次はねぇからね」
それで通話は切れた。お婆ちゃんの声を聴いて、完全に気持ちの波が凪いでくれた。
ほうっと、大きく一息吐く。すると、じわじわと膝の怪我が痛みだし、健吾は眉を歪めた。
帰ろうと歩き出して間もなく、後ろからエンジン音が響いて来た。
背後から段々と近づいてくる音が気持ち悪くて立ち止まる。ほどなくして、バタバタと忙しないストローク音を鳴らしながら、一台のバイクがカーブを曲がってきた。だんだんと姿が大きくなる。乗り手の服装が分かるくらいに近づいた時、その人が手を振ってきた。
健吾はバイクの物々しさに動けなくなった。古い洋画の暴走族が乗ってるようなやつだったからだ。待っていると、すぐ横にバイクが停まった。エンジンが切られて辺りが静かになる。
「坊ちゃん、こんなところで何やってんだい?」
嗄れた男声が聞こえ、その人はヘルメットを脱いだ。
桑年の胡麻塩頭としょぼついた目が印象的なおじさんが顔を出す。白い服が「私は医者だ」と言っていた。
「その怪我、転んだのか?」
おじさんは健吾の膝を指差した。
バイクから目を離せず、健吾は怖ず怖ずとうなづく。
「……血が乾いたら、大丈夫だと思います」
「そいつはいけないよ、坊ちゃん。この辺りは狐もいれば狸もいる。山の道路に舐められたら怪我じゃすまねぇぞ。診せてみなさい」
おじさんは座席から離れ、後ろのキャリーを開ける。木目が浮いた救急箱を取り出して来て、健吾の前に屈んだ。
「ちょっと、しみるぞ」
と、消毒してガーゼを張ってくれた。
「当てようか? 君は、テツさんとこに遊びに来た坊ちゃんだろう?」
テツさんとは、健吾のお爺ちゃんである徹也の愛称だ。去年来た時、寄り合いの酒席でそう呼ばれていた。思い出した、この人は確かアカシと呼ばれていた。
「ほう、嬉しいな。俺なんかの名前を覚えてるのか」
おじさんはバイク後部の背凭れをぽんと叩いた。
「さあ、乗りな」
「えっ? あ、あの、良いんですか?」
「目の前の患者に優先順位をつける医者なんて、都会だけでたくさんだろう?」
よく分からない。でも、なんとなく分かる。しかし、それでも健吾は少し躊躇われた。知らない人にはついて行かない。これは8才を生きる子供にとっても、基本的にすり込まれた処世術の最高峰だ。
なんて、ぐずぐずしていると、
「いいなら行っちまうぞ?」
手早くエンジンが掛かり、燃費の悪そうな爆音を轟かせてバイクが走り出す。
あっ、と思った瞬間、数メートル先で止まったおじさんがこちらを振り返った。
「どうする?」
「……乗ります」
バイクに乗ってみたい。健康な男の子の正常な興味本位だった。
バイクはゆっくりと走り出し、その速度を保った。少し残念だ、と健吾は思う。それは健吾が乗っているからの配慮なのは重々承知なのだが、今し方見た加速度を考えると、景色の動き方は牛歩な耕運機と大差ない。エンジンの嘶きも先ほどと打って変わって大人しいものだ。
「その様子だと、田舎の冒険を楽しんでるみたいだな。もうダムには行ってみたか?」
「ううん、カブト狩りです」
咄嗟に口を突いた嘘と、自分の膝小僧に視線を感じて、健吾は複雑な気持ちになった。
「おじさんはどこに行ってたの?」
「往診だ。この界隈の患者はみんな俺が診てる」
「オウシンって?」
「患者のところに出向いたって意味だよ。ダムの先にキャンプ場かあってな。大学のサークル連中が遊びに来てる。この辺りは夏でも夜は肌寒くなるってのに、川で泳いで風邪引いた馬鹿がいたってんで行ってきた」
「今さっきですか!?」
おじさんの言葉に驚いた健吾は思わず訊いた。
「ああ、そうだ。あんな簡単な診察なら五分もいらねぇな。注射一本で終わりだ」
思わず目が泳ぐ。あの時、この爆音が聞こえないほど気が散っていたらしい……。
「ん? どうした、腹でも痛いのか?」
黙って首を振る。それしかできなかった。
健吾は背凭れに身体を押しつけ続けた。そうしていると、またあの感情の波に翻弄され始めた。
「じゃあ、お大事に」
「どうもご迷惑お掛けへらだ。あとで何か持って行きますんで」
お婆ちゃんに頭を押さえ付けられて、健吾も頭を下げた。
ばたばたと煩くがなりながらバイクが走り出した。
「ケンちゃん、怪我は痛くねぇかい?」
健吾は黙ってうなづいた。
「でも、今日はもう遊びに行っちゃだめだからね。宿題でもやっておきっし」
もう一度うなづいた健吾は、急いでいる風を装って駆け足に家に向かう。
「おう、お帰りケン坊」
ガレージ兼納屋の前にお爺ちゃんがいた。
自転車の前輪を持ち上げるように固定して、ブレーキをいじっている。
「いつ乗っても良いんだからな」
サドルを叩きつつ言われた。
適当に返事をし、健吾はさっさと玄関をくぐった。居間に行って背中のリュックを放り出す。寝室の襖を閉め、布団が敷かれていない広々とした畳へうつぶせに寝転がった。
なんなんだこれ?
健吾は行き着く先の分からない――結果の見えない原因のみの――胸の燻ぶりにまいっていた。何より、マヒルの顔が頭から離れない……。
健吾はじりじりと頬を畳に擦りつけ、身体を捩り続けた。
ほとんど眠れないまま朝になり、健吾は明るんできた部屋の天上を眺めていた。
時計が午前6時をさすころ、二人が起き出したので、健吾も布団から身体を起こした。
「おっ、ケン坊、今日は早えな」
「うん……」
寝間着のまま朝顔を見に行った。彼らはなかなかの寝ぼすけだ。9時を回らないと花を開かない。それに、青色は今日も開きそうにない。かたくなに蕾を閉じている。また幾つかの蕾が咲きそうに膨らんでいたが、それらはぜんぶ赤っぽかった。
結局昨日は宿題が手につかなかった。風呂に入ったことも、晩ご飯を食べたことも意識が上滑りして覚えていない。気が付いたら絵日記も書かずに、布団の上で輾転反側していた。
朝のひんやりとした空気の中、大きく伸びをして、だらんと肩を下ろす。小さな身体に、寝不足が深く食い込んでいて、いっこうに怠さが消えてくれない。
それでも……。
健吾はダムに来てしまった。
誰もいなかった。初めて来た時と同じで天端は静まりかえっていた。
がっくりと健吾は肩を落とした。でも、どこかで胸をなで下ろす自分もいる。肩を落としたのは、もう一度マヒルに会いたかったからで、ほっとした何故は分からなかった。
だけども、やはり残念な気持ちの方が大きい。健吾はマヒルとの関係をあれで終わりにしたくなかった。
どこかに隠れているのかもしれない。そう思って、健吾は天端の奥まで歩いて行った。例の小屋を横切り、さらに奥へと歩を進める。
なにげなく視線を投げたダム湖は今でも綺麗だけど、初めて見た時の感動は見当たらない――しばらく眺めていてもそれは同じだった。
ふと、初日に対岸へ行こうとしていたのを思い出す。健吾が足を向けてほどなく、対岸に着いた。道幅が右側に少し押した形で拡がり、山には入れないように壁があった――ただそれだけだ……。
広めの床と壁があるだけで、何もないし、誰もいない。
健吾は踵を返した。そうだ、マヒルは「もう来なくても良いよ」と言ったじゃないか。何かは分からないが、あの〝遊び〟で、自分とマヒルはお互いに〝何か〟を越えてしまったのだ。
そうなると、自転車で来なかったことが急に悔やまれだした。健吾の中で、あの自転車に乗らないのは、マヒルに見られたくないという理由に変わっていた。
――あっ……。
今日ここに来た本当の理由が頭をかすめる。健吾は空恥ずかしくなってきた。自然と帰る足に力が入る。小屋に差しかかった。マヒルと遊んだバルコニーが目について、ひとりでに足が止まってしまう。未練がましい。下心を振り払おうと、深い溜め息をひとつ吐いた。
「もう帰ろう」
健吾はわざわざ口に出して言った。目を上げた瞬間――。
息が詰まった。天端近くの車道をマヒルが歩いて来た。そして、天端に入って来る。
健吾は咄嗟に隠れた。なんで隠れたんだ? そんなことを隠れてから思う。
もう見られているかも知れない。それに、ここはマヒルが隠れてた場所じゃないか。つまり、見つかる確率は高い。いや、そうじゃなくて、なんで隠れる必要があるんだ? 僕は何も悪いことはしていない。それに、マヒルに会いたくて来たはずだ。
なのに、なんで……。
マヒルの姿を見た途端。健吾はまるで自分が裸でいるような気がした。遠くで響いていた小さな音が、徐々に足音になってくる。天端の床を軽く叩く小気味の良い音が、一歩ごとに大きくなる。それにともなって健吾の鼓動も大きくなった。
こんなに心臓がうるさかったら気づかれる。足音がすぐそこまで来た。ダメだ、見つかる。と覚悟を決めた時――。
突然、足音が止まった。おそらく小屋を挟んでちょうど反対側。床を靴で擦るじゃりじゃりという音がする。健吾はマヒルが何をしているのか想像できた。多分、ダム湖を眺めてるのだろう。
そうだ! 健吾は足元を見回した。運良く手頃な石が転がっている。石を取り上げた健吾は、力一杯湖に向かって振りかぶった――無理矢理だけど、これで隠れた理由ができる。
まもなくポチャンと水音が鳴った。マヒルが驚いた様子が聞こえ、健吾は小屋の陰から出た。
やはりマヒルはダム湖を眺めていた。縁に乗り出させていた体を起こして、目を健吾に移してくる――寂しそうな目だった。
「……こんにちは」
「今日は健吾が隠れてたんだ」
ぱっとほころんだ顔に、健吾は黙ってうなづいた。そうだ、僕はマヒルの真似をして隠れていたんだ。恥ずかしかったから隠れた訳じゃないんだ。
「来てくれたんだね」
マヒルははにかんだ。
「ここから町って、結構あるよね。いつも歩いて来てるの? 汗だくだよ」
〝汗〟という言葉に健吾の小さな心臓は大きく脈打った。その言葉には、もう特別な意味が足されているのだ。
「自転車……はあるけど、変な形で格好悪いから――」
緊張し過ぎて声が裏返ってしまい、健吾は思わず俯いた。
「どうしたの? 初めて会った時よりおどおどしてるね」
朗らかに笑わうマヒルが顔を覗き込んできた。
「なんで来てくれたの?」
いきなり痛いところを突かれた。
「このダムは別にお姉ちゃんの物じゃない――から、来たいと思ったら僕は来るよ」
健吾は答えを取り繕ったが、声の調子はそれにふさわしくなかった。
「本当に?」
マヒルは茶化すように訊き直してきた。
本人を前にして、健吾はやっと分かった。言える訳がない。自分はお願いをしに来たのだ。それも、大の大人が駄菓子を買ってくれと駄駄を捏ねるぐらい目も当てられないお願いを……。想像にも堪えない欲求で、実に痛々しい。
だんまりになっていると、マヒルに眉根を寄せられた。
何か適当な嘘でこの場をしのごうと思ったのに、マヒルは先回りしてきた。
「はっきり言わないと分からないよ?」
マヒルが顔を寄せてくる。
顔に陽射しよりも熱を感じて、ぎゅっと目を閉じた。健吾がしゃべらないでいると、また先回りされた。
「ひょっとして、昨日のこと?」
口が開かない。健吾は黙ってうなづいた。
「あの遊び、嫌いじゃなかったんだ?」
これにうなづいたら、下心をさらけだすことになる。健吾は恥ずかしさの余り身動きも取れなくなった。数拍、気まずい沈黙があり――。
あやすような声でマヒルが言った。
「いいよ。でも、先に別のことで遊ばない?」
もうどうにでもなれ。健吾はとにかく頭をたてに振った。
その時、ダム湖の方から水面を叩く音が聞こえた。
びくっと硬直した両肩に健吾は熱を感じた。
「じゃあ、目はそのままつぶって、静かにしてて……」
マヒルの手が肩に置かれているらしい。
「ちょっと変わったかくれんぼなんだけどね」
〝かくれんぼ〟と聞いて、健吾の緊張は少し緩まった。
「私はこの町にいるから、絶対今日中に見つけて――さもないと……」
……さもないと? おかしな言い回しに健吾が眉を歪めた次の瞬間――。
水を打つような吐息が耳に触れてきた。
「自殺しちゃうよ」