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朝顔  作者: 付焼刃 俄
4/7

ちょっとエッチな展開になります。

 健吾は心臓がねじ切れる思いがした。

 不安感に弾かれて振り返る――が、もうマヒルの姿は天端の上にはない。


 また、あの小屋の陰に隠れたんだ――きっとそうだ!


 そう自分を納得させたい一心で、健吾は駆けだした。

 足の裏で床を叩き、ただ真っ直ぐ前を見て走った。さっきみたいに縁から身を乗り出して下を覗き込むなんて、考えただけで背すじが凍った。


 あっという間にマヒルと話した場所に着く――時間感覚は感情に押し潰されていた。

 途端、健吾の耳は血が下がる音を聴いた。瞬く間に夏場の暑さが遠退く。胸に爪を立てていた不安感は恐怖に変わり、身体中をかき乱された。


 女物の細長いスニーカーが綺麗に揃えられて、ダム湖の方に爪先を向けていた。


「お姉ちゃん?」

 かすれた声がもれでた健吾はしゃにむに縁へ跳びついた。恐る恐る湖面に目を落とす。両目からひとつ粒ずつ涙がこぼれた落ちた。

「なんで?」

 景色がどんどん歪んでいく。

 湖面には大きな波紋が拡がっていた。

 涙が(せき)を切って止めどなく溢れ、眼下の景色に飲まれていく――。


 ふっと、健吾は背中に温もりを感じた。それから、シャツを袖まくりした両手が胸元に回される。


「ごめんね、そんなに吃驚(びっくり)した?」


 顔を(あお)()けるとマヒルの困ったような笑顔があった。屈み込んできたマヒルが、ハンカチを取り出して健吾の()(もと)に当ててくる。


「まさか泣かれるとは思わなかったよ」


 どうやら、小屋の陰に隠れていたのが正解らしい。先にそっちを見ておけばと、健吾は悔しくなった。


 まただ! 大人はこうやって子供を虐めて遊ぶのが好きなんだ!


 頭にきた。何か言ってやりたかった。でも、情けない声しか出てきてくれそうにない。悔しさと劣等感で溢れてくるのは涙ばかりで、嗚咽を抑えるだけで精一杯だった。

 (ひと)(しき)りハンカチを濡らした健吾は段々と落ち着いてきた。

 人前で泣いてしまった。健吾は顔を俯けた――消えてしまいたいほど恥ずかしかった。


 すると、先ほど背中で感じた温もりを、今度は胸に感じた。


「本当にごめんね」


 マヒルに引き寄せられて、両手を背中に回わされる。

 健吾の胸でマヒルのふくらみが柔らかくつぶれていく。また恥ずかしさに苛まれたが、それは初めて体験する種類の感情で……体に絡みついてくる知らない熱が、この上なく心地好い――。


 健吾は不味いと思った。


「帰る!」強引にマヒルの手を振り払い、くるりと背を向ける。

 太ももを擦るようにして数歩離れたとき、なんだか誇りとかいうものを深く傷付けられたような気がした。


「暇だからって僕で遊ぶな!」

 健吾は首だけを巡らせてマヒルを睨みつけた。


「じゃあさ、明日も来てよ」

 見返すマヒルの顔は、懐かない猫の相手をするみたいに温かで、少し寂しそうだった。


「……考えとく」

 感じた熱もすっかり冷めた健吾は大股で歩き始めた。

 天端を出るまでに何度も振り返り、その度にマヒルが嬉しそうに手を振ってるのを見てはほっとした。


 チェーンを(また)いで車道に出たとき、ポケットの携帯電話が鳴った――お婆ちゃんからだ。


 健吾はしまったと思いながら通話ボタンを押す。

「ケンちゃん、一時間経ったらせぇに電話しねぇとだめじゃねぇの!」




 往復1時間強を歩いて、ほとほとに疲れたその日の夜。


「そうか、カブトムシは捕れなかったか」


「うん、変な虫がいただけだった」


 晩酌している赤ら顔のお爺ちゃんは、自転車に乗らなかったことには触れてこなかった。


「あのね、ケンちゃん。約束守れねえのなら、もう何処へも遊びに行かせねえからね」

 お婆ちゃんに釘を刺され、健吾は「もう、しません」と指切りで誓わされた。


 その後、健吾はまた絵日記を枕に寝てしまった。

 お爺ちゃんに担がれて布団に連れて行かれる。卓袱台には色鉛筆と絵日記だけが残った。

 細い木になんだかよく分からない奇怪な虫が描かれている。


『カブトムシの代わりに変な虫がエサを食べちゃいました。とてもくやしかった。山のどこからかおもしろい声が聞こえてきたけど、いつのまにかきこえなくなってました。オバケだったのかな?』




「早いなぁ~、9時には寝てるんだ」


「寝ろって言われてるだけだけどね」


 次の日、真昼の天端に二人揃って影をはりつけながら、ああでもないこうでもないと話をしていた。


「健吾くらいの頃ね、白馬の王子さまは絶対にいる、って思ってたんだぁ、私」


 スイカによく似たアイスを(かじ)りつつ、マヒルが馬鹿げた話をふってきた。


「そんなの、一年生の女子でも言わないよ」

 健吾は素気なく返す。

 それを聞いたマヒルは、つまらなそうに天端の縁にもたれて背中を反らした。

 たちまち健吾は目のやり場に困り、ダム湖に目を凝らしてアイスを大きく頬張った――いい加減に噛んで飲み込んだので、こめかみがキンッと痛くなる。


 今朝、まだまだ咲かない青色の蕾を辛抱強く観察した健吾は、何度も何度も時計を見て午前中を過ごし、早めにお昼を食べた。自転車の前をさっさと通り過ぎて、真っ直ぐダムに向かったのだった。

 一度歩いたからか、今日はそれほど疲れなかったし時間もかからなかった。

 そうして、先に天端を散歩していたマヒルに会った。「昨日のお詫び」と、肩に掛けたポシェットから取り出したアイスを貰い、今に至る。


「最近の子供は夢がないなあ」


「夢なんかないってことの方が、勉強より簡単に分かるんだよ」


 意図せず()ねたニュアンスになっていた。健吾は誤魔化すためにまたアイスを頬張る。

 目が泳いでしまわないように、足元におろしたリュックを穴が開くほど見つめた。


「ひねてるね、子供なんだからもっと楽に考えれば良いのに」


 何かを察した声音でマヒルが笑う。上から目線の物言いが面白くない。


「昨日、なんであんなことしたの?」

 健吾は唯一優位に立てる話題を蒸し返した。


「呼び止めても来てくれないって思ったから、別の方法を取っただけ」


「だからなんで、来て欲しかったの?」

 はぐらかされてたまるか! 健吾は口を尖らせた。


 要点に触れない大人のすり替え回答にはうんざりだった。眉根を寄せた健吾を、マヒルはちらりと視線で撫でてくる。マヒルは反らした身体を返した。ダム湖を眺めるのかと思うと――。


「健吾と仲良しになりたかったの」

 ふわりとはにかんだ唇を踊らせた。その言葉は甘やかで、耳をくすぐるように絡んでくる。健吾は胸にせきたてるような高ぶりを感じた。


 声を忘れてしまった口に、健吾はアイスの残りを詰め込んだ。


「どうしたんだい? 昼鼠君」


 意味は分からなかったが、絶対にからかわれている。でも、なんだか妙な気分になっている健吾には、言い返すのがおこがましく思えた。そんな心境でできることなんて、痛くなった頭を小突くぐらいだ。


「そっちに隠れられるんだよ」


 同じタイミングでアイスを食べ終えたマヒルが、小屋の方を指差した。

 手招きするその手に、健吾はアイスの棒を渡すことで一矢報いて慰めにした。二本の棒をポシェットにしまいながら「こっち、こっち」と小屋の向こうに促すマヒルについて行く。

 ダムの開閉操作の施設だろう小屋は、天端に鼻先を引っ掛けるように建てられていた。ほとんど天端の外側に造られた小屋の周囲にはバルコニーみたいな空間があった。


 小屋の正面の大きなシャッターを見ながら通り過ぎる。反対側にも同じような空間があり、


「ほら、こうやって」


 と、そこに入ったマヒルが身長測定をするみたいに、小屋の壁を背にしてぴんと姿勢を正してみせた。

 健吾はそうするマヒルを放っといて、バルコニー奥の縁からダム湖を見下ろした。

 そっか、昨日はここから投げ込んだんだ――。


「――えっ!」


「よっ――、と。おっ! わりと重い」


 マヒルの手が脇の下に巻きついてきて持ち上げられた。身長差で健吾の後ろ頭はマヒルのお腹の辺りにくっついている。


 短い人生の中で、間違い無く一位に躍り出る突飛な出来事に健吾は慌てた。その細身のどこに筋肉が隠れているのか、暴れる健吾をマヒルはまったく問題にしない。一歩二歩と後ろに下がり、壁に背中をつけて腰をおろした。健吾はおのずとマヒルの胡座(あぐら)に尻を収める格好になる。


 汗をかいてぺったりと張り付かせたシャツ越しに、マヒルの体温が伝わってきた。さらに、ぐっと引き寄せられる。背中を柔らかく包まれるような感覚に戸惑っていると、頭に顎を乗せられた。

 心臓が全身の内側を狂ったように叩いてくる。


「……お姉ちゃん、どうしたの?」

 健吾は身を強張らせた。


「んー、ちょっとした遊び」

 ふざけるでも、(おど)けるでもないくすぐるような声色で言われた〝遊び〟は、聴き慣れない言葉に思えた。どちらかと言えば、静かな声遣い。ふとすれば(うわ)(ごと)のような――湯面を揺らすひとしずくのような――(そぞ)(ごころ)をたきつける湿り気が、マヒルの声に滲んでいた。


 背中を包んでいく熱に圧倒されながら、健吾の耳は絡みついた響きを何度も反芻してしまう。脇腹を立て続けに突かれているような感覚に、うなじがぞくりと粟立った。


 顔が湯につかったみたいに熱い。


 直後、短い水音がして、何かがうなじにぬるりと一の字を書いた。

 首筋を這ったのがなんなのか、健吾はすぐに察しがついた。


「しょっぱい、汗が染みこんでるよ」


 脇腹を突いていた見えない指は、内側に食い込んで心臓を(もてあそ)び始める。毛穴を立たせるにとどまらない高ぶりが、何かの限界を越えた。健吾はぶるっと身体を震わせながら、自分でも驚くほど熱を帯びた息を吐いてしまった。


「顔真っ赤ぁ――可愛い……」

 マヒルが楽しむように言った。


 健吾は知らぬ間に目を瞑っていた。真っ赤な視界の中に何かが見えた気がした。

 はっとした健吾は、マヒルから身体を離した。(さっ)と背中が涼しくなる。

 無意識の行動だった――なんだか、親しみ深い温もりと重ねそうになった。健吾はうつむいた。心地良さの合間に、理由の分からない恐怖と罪悪感が見え隠れしている。

 なぜかマヒルまでうつむいていて、やにわに場が気まずくなった。


「……ごめんなさい」

 何に謝るかも判然としないまま、健吾は濁すようにそう言った。


「健吾が謝ることないよ。私の方こそまた吃驚させちゃったね……」


 マヒルは小さく三角座りになる。()(たま)れなくなった健吾は、逃げ足に後ずさった。


「ごめんね、もう来なくてもいいから――」


 聞き終わらないうちに、健吾は駆け出していた。小屋を通り過ぎ、()(さら)うようにリュックを肩に引っ掛ける。


 目を天端の出口一点に据えて、何も考えなくて良いように全力で走った。


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