九話
その晩。
毎度のように卯花を名代に立てさせられ、なよ竹は自室を追い出された。
いつも龍次が待つ出格子に座り、膝を抱く。いつまでこんなふうに、我慢しなくてはいけないのだろう。
解決法は、明らかである。
自分が朔太郎を受け入れればすむことなのだ。
どうせ末は夫婦になるのだ、早いか遅いかの違いではないか。そうすれば、卯花にもつらい思いをさせなくてすむ。結局は、自分ひとりのわがままだった。
しかし頭では理解していても、感情がついてこない。
理由は、ただひとつ。
今日はここにいない、彼のせいだ。
なよ竹は出格子の桟をなで、ため息をついた。
胸がざわめく。野分のように。
やがて中引け(午前零時)の拍子木が聞こえたので、なよ竹は階下へ降り、例の布団部屋で着替えて表へ抜け出た。
向かうは、九郎助稲荷だ。
まだうだるような暑さが残っているので、河岸見世の連中も外へ出ているかと思ったが、今日は誰もいない。今の気分にちょうどよい、と思いつつ稲荷へ行くと、先客がいる。
なよ竹はどきりとした。
上背のある後ろ姿。無造作にまとめただけの髪。
今夜は満月だ、見まごうはずもない。
あわてて引き返そうと思ったとき、下駄の音を聞きつけた先客が振り向いた。
「なんだ、おまえ。具合が悪かったんじゃないのか」
「う……」
帰ったはずの龍次だった。
なんでまたよりによってこんな時に、こんなところで会うのだ。
「ちょっと横になったらだいぶ楽になったんでね。夜風に当たりに来たのよ」
「夜風にねえ。江戸一と正反対までわざわざ来んのか」
「…………」
ぐうの音も出ない。
なよ竹は矛先を転じようと、話題を変えた。菊さまはどうしたのかと聞いてみる。
「駿河屋でおやすみになってる」
「……怒ってらした?」
「いんや。怒ってはないが、おめえの身体を心配してらっしゃった。顔色、紙みてえに真っ白だったからな」
「そう……」
仮病のはずだったが、どうも本当に具合が悪そうに見えたらしい。
なよ竹は顔を伏せた。
しばしの静寂。否、聞こえるのはうるさいくらいの虫の声のみだ。
先に口を開いたのは、龍次だった。
「ここで、えらく威勢のいい遊女に会ってな」
前置きもなにもなく唐突だったので、なよ竹は面食らった。
そんななよ竹の反応がおかしいのか、彼は笑って、
「覚えてねえのか、おめえはここでしゃがんでべそかいてただろうが」
と、続けた。
すこし考えて、思い出した。二月ほど前にここで会った男のことだ。
「あんた、あのときの……!」
「やっと思い出したか。あのときはな、ちょうど若旦那と初めて吉原に来た日だった。おめえの道中を見て若旦那はいたく気に入られたんだ。だけど俺ァ、例の噂も聞いててな」
肩をすくめ、龍次は続ける。
「『諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原』って言ってな。京じゃあ意気だの張りだのはあんまりぴんとこねえんだ。おめえのなりだけじゃあ、もひとつわからん。そこでもうちっとなよ竹おいらんについてくわしく聞こうかと思ってた矢先だ。ここでその当人に会った」
龍次は腕を組みなおし、破顔した。
「そりゃあもう、立て板に水の啖呵ときた。これは面白ェと思って、若旦那にお勧めしたってわけだ。でもびっくりしたぜ、まさかこんなとこで会うなんてな」
上機嫌で話す龍次に、なよ竹はなんとなく腹立ちを覚えた。
──けっきょく、面白がられただけじゃない。威勢がよくって京では珍しいってだけでさ。あたしは見世物じゃないっての
「ん、どうした。ふくれっ面ァして」
「別に」
いまや完全にむくれたなよ竹に向かい、龍次は鳥居に背中をあずけ、笑顔を消して言った。
「……おめえ、どこの生まれだ?」
あまりに真剣な声に、へそを曲げていたなよ竹は唇を尖らせるのを忘れた。
「そんなこと聞いてどうすんのよ」
「聞かれたくないか?」
遊女の身の上話は、客の同情を引くためにたいがい脚色つきである。だがなよ竹は同情されるのがいやで、いつもあいまいにごまかしていた。
しかし龍次の声は、それを許さぬ強さがあった。
「……よく覚えてない。日本橋の商家だったらしいんだけど、子どものころに両親が亡くなったからくわしいことは覚えてないの」
なよ竹は、誰にも言ったことのない本当の出自を語った。
それでも、札差葛城屋の養女になり許婚がいることは伏せておいた。
言いたくなかった。
「商家の子女から一転、遊女──」
龍次はわずかに目を伏せ、腕組みをした。なよ竹もまたうつむく。同情するのか、憐れんでみせるのか。
「そうか。俺と同じだ。……いや、むしろ逆かな」
だが彼の口からこぼれた台詞は、予想に反していた。
意外なことばに、なよ竹は面を上げる。
銀白色の光のなか、龍次の表情はさみしげだった。
大店の番頭の息子であるはずの彼が、どうしてそんな顔をするのだ。
ふと、なよ竹はあることを思い出し、口ずさんだ。
「木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの 端に我が身は なりぬべらなり──」
はっと龍次は顔を上げる。真摯な目が、なよ竹を見下ろしていた。
「ごめん、見るつもりじゃなかったんだけど、本が落ちたときに開いちゃって。すごく達筆だったから目についたのよ。ねえ、あれってあんたが書いたものなの? 誰に習ったの? もうひとつの句はなんなの?」
立て続けに訊くと、龍次が苦笑するのがわかった。ちょっと視線を横へ流してから答える。
「たしかに、ありゃ俺が書いたもんだ。習ったのは……そう、ご隠居だ」
「ふうん。もうひとつの句は?」
「あれは、竹取物語だ」
竹取物語か。だから見覚えがあったのだ。
なよ竹は自室の文机に並べてある書物のうちの一冊を思い出した。句を思い出そうとしていると、龍次がつぶやいた。
「あの本は俺の宝物でな、十二のころからいつも肌身離さず持ってる。俺の唯一の拠り所で、いつもこうなりたいって願ってるんだ」
「勉強熱心なのね、見直したわ」
「そんなんじゃねえ。やりたくもねえ書なんか上手くたって自慢にもならねえ。俺はただ、商いがしたいだけさ」
自虐とも取れる皮肉な笑みを浮かべ、龍次はそっぽを向いた。
ご隠居に手ほどきを受けたという書がいやなのだろうか。これほどの名跡だというのに。
月光が翳る。
雲が月にかぶさったのだ。
「──さっきの、な。あれは建前だ」
ぼそっと、龍次がつぶやいた。
「え?」
また急に話が変わった。なよ竹は思わず聞き返す。
龍次はそっぽを向いたまま、なんだか怒っているようなつっけんどんな調子で続けた。
「本当は俺がもういっぺん、おまえに会いたかっただけなんだ」
さあっ、と。
月があらわれた。
あたりに真昼のごとき光が満ちる。
「それって……どういう……」
鼓動が早くなる。
うるさい、なよ竹は叫びたかった。
静かにしてよ、聞こえないじゃない。
「俺の懐じゃあ、とてもじゃないが花魁のお前を買うことなんてできやしねえ。だから若旦那をたきつけて、おまえを買ってもらったんだ。そんで主人をダシに使ったあげく、夜ごとに逢引たあ、不忠者もいいところだな」
逢引。
ああ、彼もそんなふうに、あの出格子の夜を思っていたのだ。
なよ竹の身体から、甘美な想いが湧き出した。
「いや、逢引って言い方は外聞が悪イな。おめえは若旦那が──」
草履のかかとで意味もなく地を蹴る龍次に近づき、なよ竹はそっと手を伸ばし彼の袂をつかんだ。ぎゅっと引っ張ると、彼は組んでいた腕をほどいてこちらに向き直った。
闇夜に浮かんだ顔は、怒っているようでもあり照れているようでもある。
見上げると、視線がからんだ。
きりりとした眉の下の目に、自分が映っている。
見たことのない、熱に浮かされた女の顔が。
「もし……」
龍次は、ためらいがちにつぶやいた。
「もし俺が、若旦那だったら……」
その先はなかった。
彼とても、菊之介への忠誠心がある。
それ以上言ってはならないのだ。
なよ竹は龍次の葛藤を思い、袂をつかむ手に力をこめた。
「……あたしだって……」
言ってはならない。
なよ竹もまた、これ以上言ってはならないのだ。
龍次の顔は、月明かりを背にしているので暗かった。否、暗いのは闇のせいだけではないだろう。
湧き出した甘美な想いが、なよ竹の指先から髪の一筋まで、すみずみにゆきわたる。
全身が、目の前の男への思慕で満たされた。
袂をつかんでいないほうの手が肩に触れ、そのまま引き寄せられる。
なよ竹はごく自然に目を閉じた。
ふっ、と風がなでるように、唇にやわらかいものが触れる。
いったん離れたかと思うと、今度は袂をつかんでいた手が振り払われ、なよ竹の背に回った。肩に置かれていた手も回り、骨がきしむほど強く抱きすくめられる。
息苦しさに顔を上げると、身体ごと抱きかかえられるように口付けられた。
熱くて、苦しくて、泣きたくなった。
ほんの数秒のはずなのに、永遠のように思える。
頭がくらくらしはじめたころ、ふいに突き放された。
龍次はそっけなく衣紋を整えて、
「戻るぞ。もう遅い」
と言い捨て、先に立って歩き出した。
なんどか息をととのえ、なよ竹もその背を追いかける。
広い背中は、さっきまでと別人に見える。全身で拒絶しているみたいだ。
月光でできた彼の影を踏みつつ、なよ竹はとろけそうな甘美さと、たいへんな後ろめたさを感じていた。
触れられた唇が、熱かった。