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八話

 なにごともなく昼見世は終わり、いよいよ吉原本番の夜見世が始まった。

 一番乗りは、実に二ヶ月ぶりの登楼である朔太郎だった。

 朔太郎を連れての道中のさなか、群集からはさざなみのような嘲笑が起こる。菊之介という『間夫』の存在は、なよ竹の意思にはおかまいなく、今や吉原中が周知の上だ。朔太郎はこれまで以上にふられ役を演じることになったわけである。

 当の本人は知ってか知らずか、いつものようにご機嫌だ。このご機嫌が、じつはいちばん怖いことは、なよ竹がもっともよく知っていた。

 座敷で酒宴がはじまるが、なよ竹はほとんど料理に手をつけなかった。いまこの心境で朔太郎に会うのは、苦痛以外のなにものでもない。

 すると朔太郎が都合をつけて禿と番新を下がらせ、座敷は卯花を入れた三人きりになった。

「しばらくぶりで来てみれば、なんとも面白ェことになってるじゃねえか」

 偽りの仮面を脱いだ朔太郎は、にやにや笑いながら台の物をつついている。

 残暑厳しい宵のうちというのに、なよ竹の背筋に氷塊が落ちた。

「吉原雀がさかんに噂してるぜ。身持ちの堅いなよ竹おいらんにも、ようやく間夫ができたってな。聞くと役者顔負けの色男だって? さぞかしあっちの方もいいんだろうな」

「わたくしは、肌を許してはおりません。あの方も数ある馴染み客のひとりです」

「へッ、どうだか。俺が家の用事で来れない間、おめえは色男を引き込んで仲良くやってたんだろうが。生娘が聞いてあきれらァ」

 ねちねちと言い募る朔太郎に、なよ竹はだんだん腹が立ってきた。

 誰がこんなふうに春を売るまねをさせているのだ。

 上客をつかまえてたらしこみ、あんたたちの懐に金を落とさせるためだろう。どうしてこんな言われ方をしなくてはならないのか。銚子を取る手に力がこもる。

 と、にわかに廊下が騒がしくなった。

「もし、なよ竹さん」

 ふすまの向こうから、若い者の呼ぶ声が聞こえる。応対する卯花の顔色がさっと変わり、おそるおそるこちらをうかがった。

 言わずとも知れた。

 菊之介が登楼したのだろう。

 なんと間の悪い。なよ竹の頬も冷たくなった。

 それを見逃さなかった朔太郎の顔は、若い者のてまえ『物分りのいい通人』へと変わり、猫なで声をつくった。

「いいよ、行っておいで。わたしはここで飲んでるから」

 そして手招きする。なよ竹がそばへ寄ると、聞き取れないほどの小声で、

「ただし、一刻の間だけだ」

と、恫喝まがいに耳打ちした。

 なよ竹は無言で会釈すると、名代に卯花を残して菊之介の座敷に向かった。

 とちゅう、廊下で内儀とぶつかった。ようすを見に来たらしい。心配させまいとつとめて笑顔で、なよ竹はすれ違う。




 菊之介の通された座敷は、いつものなよ竹の部屋とは違う。おそらく今回が初めてだろう。

 廓には客の優先順位があり、より上客ほど優遇された。菊之介はなよ竹にとって大本命の客なので、たとえ先客があった場合でも必ずなよ竹専用の部屋に通される。

 そのため、いままでなよ竹の部屋を占領していた客は、不本意でも菊之介に座敷を譲らねばならなかった。それが廓の掟であり、異議を申し立てるのは野暮とされた。

 しかし、今回は違う。なよ竹の座敷にいるのは、表沙汰にはならないとはいえこの妓楼の出資者だ。

 いくら菊之介でも、こればかりはどうしようもない。

 事情を知らないほかの廓者は、なぜ朔太郎ばかりをひいきするのかいぶかしがったが、楼主と内儀の直々の仰せであるので、疑問は飲み込み従っている次第である。

 なよ竹が顔を出すと、見慣れぬ座敷でとまどっているようすだった菊之介は、きれいな顔をぱっとほころばせた。その場に居合わせた女芸者がうっとりと見とれる。

「すまないね、先客だったかい?」

「いいえ、あいにくと座敷が汚れて使えんせんから、掃除をしていんす。ご不自由かけてお許しなんし」

 苦しまぎれの言い訳だったが、吉原慣れしていない菊之介は、すっかり信じ込んだようだ。気にしないよ、などと言いつつ相好を崩す。

 その背後では、影武者のように龍次が控えていた。

 この従者のことも、讃岐屋の女郎衆の間ではしばしば話題になる。

 曰く、お大尽の従者はたいてい主人が花魁買いをしている間、自分も別の見世で安女郎を買うものなのに、この男ときたらずっと付き従っている。主人に遠慮しているのか、護衛のつもりか、はたまた単なる女嫌いなのか、などなど。

 なよ竹も、不思議に思う。しかし、無粋を承知で主人のそばを離れないのは、なにか別の意図があるような気がしないでもない。

 まさか自分に会うため──とは、あまりにうぬぼれ過ぎだろうが。

 座敷にはべっている時の龍次は、借りてきた猫のようにおとなしい。新造の酌を受け、黙々と料理を平らげる。今日はいつもより酒量が多いように見えた。

 最初のうちは初会のように問題を起こされては困るとあれこれかまっていた廓の人間も、このごろではほうっておいても大丈夫と判断したようで、あまりうるさく干渉しなくなった。だから彼は座敷では、いつもひとりで端に座っている。

 廓に来るのがいやなのか、それにしては夜中自分と話をするときは楽しそうに見えた。

 なよ竹は、いまだ龍次の本心をつかめないでいた。




 そうこうしているうちに、あっという間に一刻が過ぎた。

 どうやって抜け出そうか、遣手あたりが理由をつけて呼び出さないかとそわそわしているなよ竹に、菊之介がたずねてきた。

「なよ竹、具合でも悪いのか? 顔色が悪いぞ」

「……ええ、ちっとめまいがしんす。夏風邪かも知れねエ」

 これ幸いにと大げさにこめかみに手を当てて見せると、はたして菊之介は承知し、これで宴はお開きにして今夜は帰る、と言い出してくれた。

 当座の危機は去った。あとは菊之介たちには悪いが、早めにお帰り願うだけだ。

 先に廓者が座敷を出て廊下で待ち、ついで龍次が立ち上がるが、珍しく酔ったのかたたらを踏んだ。危ない、と言いかけるが、なよ竹の口は『あ』の形で止まった。

 よろけた龍次を、とっさに菊之介が腕を伸ばして支えたのだ。

 その動作はごく自然な流れで、まるでそうするのが当たり前、という感じだった。

 ふたりは一瞬顔を見合わせるが、すぐに離れた。

「あいすみません、若旦那」

「いやいや。奉公人に怪我でもさせたら、立派な商人にはなれないと親父殿に叱られてしまうからな。大番頭にも面目がたたないだろう」

 ふたりのやりとりに、なよ竹は違和感を覚えた。

 なんだか取ってつけたような文句というか、白々しいというか。とにかく不自然だ。

 しかしふたりはそのまま座敷を出てしまった。なよ竹もあとに続いた。




 菊之介に部屋へ戻るか、と聞かれるが、今は朔太郎がいる。なんとか理由をつけて見送ると言い張り廊下に出ると、待ちかまえていた遣手や番新が脇を固めた。

 すこし行くと階段へ向かう途中に男が立っており、なよ竹は危うく声を出すところだった。

 部屋にいたはずの朔太郎だ。すでに出来上がっているようで、足許がおぼつかない。衣紋も乱れてなんともみっともない姿である。

 廊下を渡る菊之介に、ぶしつけな視線を走らせる。

 さしもの菊之介も、いぶかしがって足を止めた。龍次もふたりの間に割って入り、半身で主人をかばうような体勢をとる。

「なにかご用か」

 菊之介の問いには答えず、朔太郎は笑ってじろじろ見ているだけだ。

 なよ竹は生きた心地がしなかった。

 もし朔太郎が、よけいな因縁をふっかけたら、どうすればいいのか。今日何度目かの冷や汗をかく。

 そんななよ竹の懸念は、悪い意味で的中した。朔太郎が薄ら笑いを浮かべたまま、

「これはこれは、菊五郎きくごろうもかくやとばかりの色男だ。天下のなよ竹おいらんが骨抜きになるのも無理はねえな」

と、軽口を叩いたのだ。

 名乗りもせぬ男の非礼に、菊之介と龍次はともに眉をひそめる。そのようすがおかしいのか、さらに朔太郎が続けた。

「おっと、こりゃ失礼。京からのお客人なら吉三郎きちさぶろうに例えるのが筋ってもんだな」

「突然なんなんだ、礼儀しらずな野郎め」

 龍次がいきり立つのを、菊之介は片手で制した。

 険悪な雰囲気を読み取った遣手が、

「コレサ、廊下鳶をしなすんな」

と、朔太郎を追いはらった。

 暖簾をくぐり往来に出ると、菊之介はなよ竹に声をかけた。

「気分が悪いのだろう、部屋で休んでいなさい。また近いうち来るから」

「おありがとうござんす、菊さま」

 なよ竹はせいいっぱいの笑顔を見せる。

 なにも悪くないのに追い返すようなまねをしてしまって、もうしわけなかった。

 せっかく、来てくれたのに──。

 ちらりと横目で龍次を見る。

 彼は酔いもさめたのか、いつになく険しい顔だ。そばにいた新造をつかまえ、問うた。

「さっきの男、ありゃなんだ?」

 歳若い新造は、返答に困っている。

 なよ竹もまごついていると、すかさず遣手が助け舟を出した。

「いえね、若旦那の耳に入れるのもなんですがね。あれはとある札差の放蕩息子で、おいらんに振られつづけのくせにご執心のとんだ半可通はんかつうですよ。今日も若旦那がいらっしゃるので待たせておいたら、ああやってふらふら出てきて。おいらんと若旦那の仲睦まじさに傍焼おかやきしたんでしょうが、まったく困ったものでござります」

 さすがに遣手の言い訳は抜かりがない。

 菊之介と龍次は得心がいったようないかないような微妙な顔で、しかしそれ以上は追求できかねるようだ。やむなくふたりは茶屋へと帰っていった。

 遠くなる後ろ姿を見ていたなよ竹は、苦い思いを噛みしめていた。

「やれやれ、月野屋の坊のおかげでこっちゃ肝を冷やしたよ」

 遣手が憎々しげに言う。

 たしかに、客同士を引き合わせてしまうのはご法度である。客だって遊女が自分以外相手にしないなどとは思っていないだろうが、実際に面と向かわせてしまうのはやはりまずい。

 なよ竹はため息をついた。

 とうとう、知られてしまった。

 菊之介にも、そして龍次にも知られたくなかったのに。

 ふたりが見えなくなってもなお立っていると、いつの間にか隣に内儀がいた。すまなさそうな声で言う。

「堪忍しておくれ。あの方には逆らえないんだよ」

 内儀の立場もつらいのだ。それは重々わかっている。

 なよ竹は無理に笑顔をつくり、朔太郎の待つ部屋へと戻っていった。

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