七話
残暑厳しい文月(現在の八月)も終わりに近づき、そろそろ玉菊灯籠も片付けようかという、ある昼見世前。
なよ竹は自室でぼんやりうちわをもてあそんでいた。
内儀や遣手はすわ暑気あたりかと心配したが、別に体調が悪いわけではない。たんにやる気が起こらないだけである。扇ぐわけでもなくうちわを転がしているなよ竹のようすを、卯花が茶化した。
「このごろおいらんは、菊さまのことを考えてばかり。ついにかわいい間夫ができなんしたね」
「そ……そんなんじゃありんせん!」
あわてて否定して、覚えておきなんし、と憎まれ口を叩いてみせるが、実際には菊之介ではなく、その従者の顔が浮かんでしかたがない。卯花はなよ竹の狼狽ぶりを図星を指されての照れと取ったのか、相変わらずくすくす笑うばかり。
ひとしきり笑ったあと、卯花はついと近寄り、耳打ちした。
「あたしはね、嬉しいんだよ。だっていつもお小夜ちゃんはつらそうだったから、本心から好いた人ができて、本当に嬉しいんだ」
「お咲ちゃん……」
「大事にしなね。うまくいけば、身請けして京へ連れてってもらえるかもしんないよ。朔太郎さまなんてほっときゃいいんだ。あんなボンクラ、そのうち罰があたるサ」
ぽんと肩を叩かれ、なよ竹はあいまいに微笑んだ。
本当はその従者が気になるなんて、口が耳まで裂けても言えやしない。
座敷のすみっこで雑巾をかけていた新米禿のさららが、ふたりの会話を聞きつけ、
「間夫ってなんざんすか?」
と、卯花に聞いた。
「間夫ってのは、女郎の情人のことサ。金も力もない色男ってのが相場だが、菊さまに限っちゃああてはまるまいサ。まっことおいらんは仕合せ者でありんすねェ」
卯花の説明を受けて、さららは素直に感心している。ほかの女郎たちもやってきて、一座はよってたかってなよ竹をからかう風向きになった。折りよくもうひとりの禿であるはつねが湯を告げに来たので、なよ竹は風呂を口実に逃げた。
「エエ、ばからしい。いいかげんにしなんせ」
廊下に出たなよ竹を追いかけてきた卯花は、小声でささやいた。
「おいらん、風呂の間にわっちがほかの馴染みに文を書いておきんしょう」
「ああ……そうだね。そうしておくれ」
このごろすっかり馴染みへの文もごぶさたしていた。そろそろ書いておかねば、客足が途絶えてしまう。
だがどうも気が進まなくて今日までほったらかしていたのでずいぶん溜まっていたところだったので、卯花の申し出はありがたかった。
卯花は書をよくするなよ竹の手蹟を手本としており、なよ竹のふりをして代筆するなど朝飯前で、実際なんどか気乗りしない客にはそうして代筆を頼んだことがあった。卯花自身も、将来客を取ったときの練習だから、とこころよく引き受けてくれた。むろんこんなずるい手は、遣手に見つかったらただではすまない。本当にこの幼なじみには、感謝してもしきれなかった。
文の処理は卯花にまかせ、なよ竹は風呂場へ急いだ。
沸いたばかりなのか、まだ誰もいない。衣服を手早く脱ぎ捨て、かかり湯をしてから湯殿へつかる。足先からじいんと熱が伝わり、やがて身体全体を包んだ。
鼓動が早くなる。
はじめて菊之介と会ったときにも、こんなふうに心の臓が早まった。
しかし今は、違う。
──あたし、どうしたんだろう
気がつくと、いつもあいつのことを考えている。
あんなに立派な旦那がついてるっていうのに。
やらなければいけないことがあるっていうのに。
許婚が、いるっていうのに。
湯にひたした手ぬぐいで、ぐいと顔をこする。さきほどの卯花の台詞がよみがえった。
『間夫ってのは、女郎の情人のことサ。金も力もない色男ってのが相場だが、菊さまに限っちゃああてはまるまいサ』
そう、菊さまにはあてはまらない。
あてはまるのは──。
全身が熱い。熱くて、とろけそうだ。
なよ竹は手ぬぐいを顔にかぶせ、目を閉じた。
いつもより長い風呂から上がり、ひとり部屋で手紙を書いていた卯花の文章を添削した。いつもながらみごとにそっくりだ。
遊女の手管の見本のような甘ったるい文を一部ずつ封筒に入れていると、ふすまがからりと開いた。
「オヤ、今日もまた文の山だね。お若いのにいつもてェした人気で」
この甲高い声は、まぎれもない。なよ竹は目だけ横を向けた。
「これは雲路姐さん、おはようおざんす。何かご用でありんすか?」
雲路はなよ竹より七つ年かさで、位は同じ新造付き呼出である。
ほんの一年前までは、讃岐屋の松の位といわれる一番人気だったのだが、今ではなよ竹が追い越してしまった。顎のとがった細面と切れ上がった目許はすごいほどの色香があり、すらりとした肢体とあいまって女狐を連想させる。
なよ竹はこの雲路が苦手だった。
全身で女を主張しているなりもだが、それ以上に彼女からの風当たりが異様にきついのだ。目立った嫌がらせはないものの、ことあるごとに突っかかれて辟易していた。さっきも入ってくるなり嫌味である。
「巻紙をね、ちっと分けてもらおうかと思ってね。なよ竹さんと違って、わっちはあちこち手紙を出すんでサ」
なよ竹も手紙を書いているところを見ているだろうに、この言い方。内心うんざりした。
お職を取られて面白くないのはわかるが、なんとも大人げない。
しかし女同士のやりあいは泥沼化するので、なよ竹はいつも柳に風と受け流すようにしている。だまって巻紙を渡し、ついでに心配そうにする卯花を文使いへと出す。
「アイ、おかたじけよ」
礼は言ったものの、雲路は敷居から動こうとしない。
まだなにか用があるのか問おうとしたが、やめた。なよ竹は雲路を無視して昼見世の準備をしはじめた。化粧道具をそろえ、髪飾りを並べる。今日はお気に入りの蒔絵の櫛にしようと思い、引き出しをさぐった。
しかし、あるべき場所に櫛はなかった。
どこか別の場所に置いたのか、あちこち探してみるがどこにも見当たらない。
「オヤ、探し物かえ。櫛か、それとも笄か」
まだいた雲路が、含み笑いをしながら声をかけてきた。
なんで櫛をなくしたと知っているのだ。なよ竹は手を止めて振り返った。
「姐さん、わっちの櫛をご存知か?」
「いいえ、ちいとも。新造でもなし、なんでわっちがなよ竹さんの櫛を知りんすか」
「ならいいんす」
相手にせずに再び探し出したなよ竹は、信じられない言葉を聞いた。
「そんなに大事な櫛でありんすか。あの色男の若旦那からもらったものかえ、それとも……まさか従者の方じゃないかいねエ」
なよ竹は固まった。
風呂上りの上気した肌が、一気に冷めていく。
鼓膜を突き破らんばかりに心音が頭に響いた。
「……悪い冗談はやめなんし」
「冗談じゃアありんせん。引け過ぎの逢瀬とは、いっそうらやましいねエ」
見られていたのか。背後に立つ雲路を振り返る。
髪結い前でほつれた鬢をかき上げつつ、雲路はうすい唇を引き上げた。挑発的な笑いに、常ならば冷静にやりすごすであろうなよ竹は、思わず畳を叩いて強く否定してしまった。
「そんなんじゃありんせん、ばからっしい!」
「おお怖い。せっかくの器量よしが台無しでおすよ。せいぜいお探しなんし、おじゃまさま」
雲路は貫禄を見せつけ、高笑いしながら出て行った。
残されたなよ竹は、もう片方の手も畳についた。
考えてみれば、いくら真夜中だとて無人ではないのだ。いつ誰に、雲路以外にも見られてもおかしくはない。
吉原の噂は早い。
いったん口から出たらすぐに羽が生え、あっという間に五丁町を席巻する。
『なよ竹おいらんは、馴染み客のお供といい仲だ』と──。
そんなのではない、と否定したい。
そもそも龍次がどういうつもりなのかも、本当のところはわからないのだ。
ただたんに長い夜を持て余していて、都合のいい話し相手だと思っているだけなのかもしれない。三会目のことだって、からかわれただけなのかもしれない。
心乱れているのは、自分だけなのかもしれない。
こんな噂を立てられたら、迷惑に思うだろう。あんなに若旦那大事な男なのだから。
「本当、どうしちゃったんだろ。あたし……」
なよ竹は誰に言うこともなく、つぶやいた。