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六話

 布団の端っこで悶々としていると、廊下から大引け(午前二時)を知らせる拍子木が聞こえた。二刻ものあいだ緊張しっぱなしだと、さすがに肩の辺りが凝ってくる。

 菊之介を起こさぬようにそうっと床を抜け出し、廊下へと出た。

 寝静まった廊下はところどころに台の物の残骸があるだけで、人っ子ひとり、物音ひとつしない。今夜は満月で、足許も明るい。

 手水ちょうずへ立とうと廊下を歩いていくと、出格子のところに誰か座っていた。

 近づいて見てみると、それは菊之介の従者だ。たしか、龍次とか呼ばれていたっけ。

  なよ竹はぎくりとしたが、彼は片膝を立てて舟をこいでいる。もう片方の膝の上には、読みかけの書物が載っていた。

 なよ竹は寝入っているのを幸いに、龍次の顔立ちを穴の空くほど見つめた。

 年のころや背格好は菊之介と同じくらいだろう。しかし顔立ちは彫りが深く精悍で似ても似つかない。美しいというよりは、端整というほうがしっくりくる。

 体つきもなかなかがっしりしており、京の男はみな優男ばかりだと思っていたなよ竹は少々意外に思った。花魁であるなよ竹の客筋は金満家が多く、うらなりの坊々か中年を過ぎた親父がほとんどで、この手の屈強な若者は廓で働く男くらいしか目にしなかった。

 しかし、彼はなにかが違う。

 うまくは言えないが、身にまとう雰囲気が違うのだ。

 それは花魁として多数の人間と接してきたなよ竹が、まだ会ったことのない類いのものである。

 なよ竹が思案していると、ひときわ大きく龍次が身体を揺らした。手にした書物が膝から落ちかけ、すんでのところで受け止める。

 何気なく表紙を見る。『商人生業鑑あきんどすぎわいかがみ』という書名だ。

 中を開くとずいぶん年季の入った本でところどころ折り目が合ったり破れたりで、くりかえし読み返したとひと目で分かった。こう見えて、なかなか勉強熱心な奉公人なのだろうか。

  なよ竹は初印象の腹立ちが和らいだ。

 ぱらぱらとめくっていくと、一番最後の頁に歌が二首書いてある。

 明らかに本文とは違う、若々しくはつらつとした達筆だ。


 ──木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの 端に我が身は なりぬべらなり

 ──今はとて 天の羽衣着るをりぞ 君をあはれと 思ひいでける


 先の歌はなよ竹も知っている。たしか、古今和歌集にあった歌だ。寄るべない中途半端なおのれの身の上を嘆く歌だったはず。

 もうひとつの歌はどこかで読んだ気がするのだが、思い出せない。だが内容からみたところ、恋歌のようだ。

 それにしても、となよ竹は改めて居眠る龍次の顔をながめた。

 この男が書いたのだろうか。

 だとしたらかなりの教養を持つことになる。

 書き留めた歌もさることながら、手蹟は若いながらもきちんとした教育を受けてのものだ。

 手代をはじめとする奉公人は、総じて商売に役立つ程度の読み書き算盤は習うが、これはそういった実用的なものではなく、どちらかというと芸術に近い。この本をいただきものと見るならば奉公主による筆となるが、そうなると今度は若すぎるし、本の内容とも合わない。

 純粋に書風のみを見るならば、若く勢いのあるこの字は、やはり彼のものと考えられる。書にはその人の年齢や性格、素養などがおのずとにじみ出てしまうものなのだ。

 古今名高い名蹟を学んだなよ竹は、それを鋭く読み取った。

 いったい、この男は何者なのだ。

 すると、龍次が小さく身じろぎした。

 なよ竹がとっさに本を彼の膝に置きなおすと同時に目を覚ます。二、三度目をこすっていたが、目の前に立つなよ竹をみとめ驚いた声を上げた。

「なんでえ、若旦那はどうした」

「よくおやすみだから、抜けてきんした。おまえこそこんなとこで居眠っていずとも、供部屋がありんしょう」

 龍次はふん、と鼻を鳴らし、両手を挙げて伸びをしてから、なよ竹の頭からつま先まで視線を走らせた。

「おめえ、どんな客にも帯を解かないと聞いたが、うちの若旦那にもそうなんか」

 ほとんど寝乱れていないなよ竹のようすから、そう思ったらしい。

 まるで裸を透かし見られたような気分になり、とたんになよ竹は気恥ずかしくなった。

 わざとつっけんどんに、

「菊さまは立派なお方。したが三回会ったくらいでは、ほんに見込みのある方かどうかはわかりんせん。それまでは菊さまといえどもおいそれと肌は許しィせんわいな」

と、言ってやった。

 すると龍次はなにを思ったのか、にやりと笑った。いたずらを企む悪たれの顔だ。

「そうは言うけど、うちの若旦那はそこらの狒々ひひじじいと違って男前だし、おめえだって悪い気はしねえだろう?」

「ああそうだね。たしかに菊さまァお優しくって色男で、どっかの誰かさんみたいに気がきかねえ野暮天とは大違いだ。だけどそれはまた別の話さ」

 頭に血が上り、すっかり廓言葉を忘れてしまっているのだが、なよ竹は気づかない。

 対する龍次は余裕しゃくしゃくで、手にした本をぱたぱた扇いでみせたりする。その態度がよけい気に食わない。

「それじゃあ聞くが、いってぇどんな男ならいいんだ」

「どんな、って……」

 思ってもみない切り替えしに、なよ竹は口ごもる。

 理想の男、とはいうものの、具体的にどうとは決めていない。決めていないというより、そもそも断る口実にしているに過ぎないのだから、そんなものはいないに等しい。

  だがここで言い負かされるのはしゃくである。

 手近なところで戯作の主人公あたりの特徴でも述べようかと考えていると、とつぜん手首をつかまれ引っ張られた。

「その、気がきかねえ野暮天なんかどうだ?」

「……は?」

 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。

 下からじっと見上げてくる目は笑っているものの、しんの光はまっすぐだ。

 五つばかりまばたたきをして、ようやく意味が飲み込めた。

「な、だ、誰が……!」

 みっともなくどもった時、どこからか上草履の音が聞こえた。

 だれか朋輩女郎が起きてきたのだ。その音で、枷が外れるように龍次の手がゆるむ。

 なよ竹は必死に振り払い、

「誰があんたなんか!」

と、捨て台詞を残してきびすを返した。

 寝間着を通すほどの熱い視線が背中に突き刺さるが、わき目もふらずに自室へ駆けもどる。座敷に転げ込み後ろ手でふすまをぴったりと閉めた。

 まだ心の臓が跳ねている。

 走ったせいだろうか。いや、そうに違いない。

 なよ竹はなんども深く息を吸い、はやる心を落ち着けた。

 初夏の宵はさほど暑くもないのに、その額には汗が吹き出していた。




 それから二月のあいだ、菊之介は龍次を供につけてときおり登楼してきた。

 だが相変わらず、床に引けると指一本触れることなく、さっさと寝てしまう。はじめは緊張していたなよ竹だったが、彼はほかの客のように寝間でもしつこく酒を飲むこともないし、すこぶる寝付きもよいみたいなので、いつしかすっかり安心するようになった。

 そして寝静まった廊下に出ると、きまって出格子のところに龍次が座っているのだ。

 最初は菊之介の護衛か、はたまた供部屋が気に入らぬのか、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

 居眠っていたのは三会目の夜だけで、あとはずっと起きていてなよ竹が廊下に出てくると、おう、とかなんとか言って手を振ってくる。なよ竹も手を振られたからには、無視しつづけるのも大人げないので、そばへ寄って二言三言交わす。

 毎回続くので、もしかしたら彼は自分が廊下に出るのを待っているのではないか、と思えてくるほどだ。

 そうしてなよ竹は菊之介が来るたびに、彼が寝付くのを見届けてから廊下に出て、龍次とたわいない話をするようになった。

 それは本当にたわいない話ばかりで、京のどこそこの桜はみごとだとか、鴨川の水は冷たくて気持ちがいいとか、祇園祭の華やぎとか、ありきたりな京の風物詩ばかりだったが、物心ついたときから廓の外を知らないなよ竹にはとても新鮮で、まるで物見に行ったかのような気分を味わえるのだった。菊之介は宴の最中も床の中でも口数は少ないので、京の話をしてくれるのは龍次だけだった。

 いつしか、なよ竹は菊之介に会うよりも、龍次の話を心待ちにしている自分に気がついた。

 菊之介はもちろん上客であるし、相手をするのもいやではない。

 しかしそれ以上に、寝静まった廊下で龍次と会う方が、もっともっと楽しいのだ。

 それはきっと、彼が気さくに話をしてくれるからだ。なよ竹はそう思った。

 お職の花魁の自分はいつでも殿様扱いで、客ですら自分の顔色をうかがいちやほやする。菊之介はそれほどでもないが、羽毛で撫でるような態度であることには違いない。

 それが当たり前だと思っていたところに、対等に話をしかけてくる龍次が現れた。

 彼の前でだけは、なよ竹はさと言葉を忘れた。

 市井の娘のように、笑ったり軽口を叩いてみたり、すねてみたりできた。

 きっと、そのせいだ。

 なよ竹は思った。否、思うようにした。 

 そう思わねば、躍る心はどうしようもないのだから。

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