五話
番頭は、頭を痛めていた。
文机に肘をついて支えておかねば、この重い頭はたちまち畳を突き破ってしまうだろう。
お預かりした若旦那は、供を連れて今夜も吉原へと繰り出していた。聞けば、三会目だという。思わずぼやき声も大きくなる。
「ああ、なんでわしばっかりこのような……」
京店のご隠居直々に頼まれて内心いやいやながらもお引き受けした番頭は、初めて若旦那に会うたとき、なんとまあ変わったお方だと驚いた。
だいたいにして大店の若旦那などは、総じておっとりかまえた世間知らずで、右のものを左にするのも己でせぬものだと相場は決まっているのだが、この若旦那は気質も明るくたいへんに気がまわり、迎えに出た番頭に頭を下げさえしたのだ。
こちらに着いてからは浅草だの不忍池だのと連日遊びまわっているようだが、それはそれ、血気盛んな若者であるからして、手に負えない不始末さえしでかさねばそれでよい。
だがしかし──。
お付きとやらのあの若造、これがまたなんともやっかいだった。
幼なじみで身分を越えて仲がよいとのことだが、それも限度があるだろう。不遜といってもよいほどである。
先日の吉原でもそうだ。
花魁を呼び出したまではよかったが、あろうことか難癖をつけ、ついには怒らせてしまった。
番頭は堅物で、廓もほとんど行ったことがないのだが、それでもお職の花魁は気位が高くて初会では口も聞かない、ということくらいは知っていた。のちに上方から来た同僚に聞いたところ、島原では太夫でも初会より枕を交わすということなので、彼はこのしきたりについて知らなかっただけなのかもしれない。
それでも主を差し置いて口を出すなど、奉公人としてはあるまじき越権行為である。
そもそも、あの髪型が非常識だ。
九重屋をはじめとする商家では、奉公人の身だしなみを厳しく指導する。丁稚には丁稚に、手代には手代にふさわしい形に、月代を剃り髷を結うのが常である。奉公人はお店の顔なのだから、当然だ。
それがなんだ、あの総髪は。いくら京店の大番頭の息子とはいえ、こんな非常識はとうてい許されるものではない。
自分の管轄下であれば、それこそ無一文で叩き出してやるところなのだが、若旦那がいいというならば、こちらもなにも言えまい。
「まったく、京ではどんな教育をしているんだか……」
ため息を付きつつ、さらに思いを巡らせる。
吉原での騒動ののち早々に引き上げたのだが、帰る道すがら若造は、
「若旦那、敵娼は気に入りましたかい」
などと、平然と聞いたのだ。
あわてて咎めようとしたが、当の若旦那は平然と返した。
「ああ。芯の強いよい女性だ。おまえもそう思うだろう?」
「どうでしょう。ありゃあかなりのじゃじゃ馬ですぜ。若旦那のお手をわずらわしゃしねえですかい」
若者ふたりの会話に、あいた口がふさがらなかった。
しかしながら、番頭はあの若造を心底憎らしいとは、思いきれなかった。
彼はこちらに着いてからはただ遊んでいるのも面目ないと言い、率先して店の手伝いを買って出た。
手代ともなれば経営の中枢に携わるもので、本来なら売り掛けでも帳簿付けでもするのだが、彼は屋号を同じくするとはいえ勝手の違うこともあるだろうから、ここは使い走りにでもと言い張り、その通りに若旦那のお供のないときは地図を片手にくるくると立ち働いている。
たまに手代とは思えないような初歩的な間違いをしでかすが、これは単に環境の違う店に慣れていないからであろうと思う。
江戸店の手代衆に商いの話を熱心に聞いたりもしているようで、働くのがいかにも楽しい、というようすは、けっして見ていていやなものではなかった。
若旦那への忠誠心も、ないがしろというわけでもなさそうで、いちおう立てるところは立てている。盲信的でない、というだけだ。
「まあ、わしがあれこれ言う筋合いでもないんだがなあ……。しかし……」
これが京店の、ひいては若旦那のやり方であるならば、番頭とはいえ一奉公人の自分が否を申し立てるのもよろしくない。
京は京で勝手にやればいいのだ。
「わしゃ知らんぞ、もう」
仕入帳に突っ伏して、番頭は頭痛の種を追い払おうとした。
そのころ吉原は讃岐屋では、引け四ツ(午後十時)を過ぎてそろそろ酒宴が終わろうとしていた。
台の物が手際よく片付けられ、あっという間に床がしつらえられる。いったん化粧を直しに座敷を出たなよ竹は、戻ってきてもなかなかふすまが開けられず、廊下でもじもじしていた。
そのようすを見た卯花が、
「おいらん、菊さまがお待ちかねでありんすよ」
にっこりとささやき、そっと中へ押しやった。
ちょうど本間から出てきた遣手も、「お繁りなさいまし」と声をかけ、そそくさと出て行く。
この期に及んで、なよ竹は逡巡していた。
初会から一週間もしないうちに、菊之介は供を連れて再び登楼してきた。
あの供の顔を見るのもいやだったが、菊之介のにこやかな顔を見ると、あまりにつんけんするのも子どもじみて思えた。なによりも、彼が自分を気に入ったと言ってくれたのだ。
嫌われたわけではないとわかり、なよ竹は内心胸をなでおろした。
供の者を終始無視することで、その日をなにごともなく終わらせた。
そして、今日。
いよいよ三会目である。俗に言う『馴染み』だ。
通常ならば、どんな遊女でもこの晩必ず帯を解いた。馴染みとなって初めて契りを交わすのだ。
しかしなよ竹はありとあらゆる客を、この三会目でも突っぱねてきた。
わっちはまだ主さんのことをよく知りんせん、などと適当に口実をもうけ、しこたま酔わせて先に眠らせ、最後の一線だけは守ってきた。
──でも今夜は、菊さまだ
菊之介は讃岐屋にとって特別な客だ。
それは彼も、下にも置かない歓待ぶりからうすうす察しているだろう。
ならば、彼が自分を欲したとしても不思議ではない。むしろ当然の要求なのだ。
──菊さまも、あんなふうになさるのかしら
先輩遊女からからかい半分に見せられた枕絵の、あられもない嬌態が脳裏をかけぬけ、男を知らぬ生娘の身体の芯はじんとうずいた。
しかし、いつまでもこうして座敷に突っ立っているわけにもいかない。
意を決してふすまを開けると、屏風で囲った真ん中に敷かれた天鵞絨の三枚重ねの布団が、目に飛び込んできた。しかし、そこには菊之介の姿はない。
首をめぐらせると、部屋の隅でたんすにもたれて煙管をもてあそんでいる。
すでに寝間着姿で、普段は衣服に隠れていて意識しない腕やすねが、優しいなりのわりには存外骨太で、なよ竹はいやでも男を感じた。
目が合うと、菊之介は邪気のない笑顔で言った。
「遅かったね、なよ竹。疲れたろう、もうおやすみ」
「菊さま、わっちは……」
「いいよ、わかってる」
言いかけるが、制される。
「いいから気にせずに、もう寝なさい。ひとつ床につくのがいやなら、わたしはここで眠るとしよう」
そう言うと彼は、腕組みをして目を閉じた。
さすがに客を布団から追い出すまねはできないので、なよ竹は手早く寝間着一枚になると、夜着をめくってその中に腹ばいにもぐり込んだ。布団のすき間から目だけ出して小声で呼ぶと、彼はよっこらせと立ち上がり、なよ竹の隣へ入ってきた。布団が沈むその感触に、なよ竹は思わず枕を抱きしめる。心の臓の音が、聞こえてしまいそうだ。
だが菊之介は夜着の上からなよ竹をかるく叩いたあと、背を向けてしまった。
なよ竹は拍子抜けした。こんなやすやすと引っ込んでしまう客人は初めてだ。
菊之介はうわさを承知で買いに来たたのだろうが、それにしてはあっさりしすぎている。
いや、別に期待したわけでは決してないのだが。
そんなふうにぐるぐると考えことをしているうちに、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
一方、なよ竹は眠れそうにない。