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四話

 それから二日後、夜見世前の暮六ツ(午後六時)過ぎに、駿河屋の若い者がやってきた。

「おいらん、今日は初会のお客さまですよ。九重ここのえ屋の若旦那だとかで、なんでも京から物見にいらしてるとか」

 新川の九重屋は、江戸でも一、二を争う大店の酒問屋で、なよ竹も名前くらいは知っている。京から来ているということは、本店の坊か。吉原には多種多様な客が訪れるが、京からの物見客というのはわりと珍しいほうである。

  どうせ放蕩三昧のろくな男じゃないだろう。

 ここしばらく、あの九郎助稲荷の男のことを思い出して笑いにふけっていたところだったので、新規の客は気が重かった。

  しかし、これも客商売の悲しさだ。行かねばなるまい。

  支度が整ったばかりの一行を引き連れ、なよ竹は道中に繰り出した。




 灯りのともったばかりの廓は今まさに夜見世の始まりを告げるすががきの音があふれ、そこここに遊客が押し合いへし合いしていた。

  あちこちから、

「おいらん!」

「讃岐屋なよ竹!」

という歓声が沸く。

  その波を八文字でかき分けるように、道中はゆっくりと進む。 江戸一の木戸をくぐり、目指す駿河屋へと駒下駄を滑らせた。

 茶屋の縁台に腰掛けると、ぱたぱたと茶屋の女房が駆け寄ってきた。

「まあまあおいらん、いらせられませ。お客さまがお待ちかねでございます」

 促されるまま座敷へ通されると、そこには都合六人もの大一座と大振りな台の物が待ち構えていた。ひとりは駿河屋の主人、顔見知りの芸者が男女ふたりずつ、あとの三人がどうやら客人らしい。

  なよ竹は衣擦れの音をさせながら、上座へと座った。花魁が席に着いたのを見届けた女房が、満面の笑みで客人を紹介する。

「おいらん、こちらが九重屋の京(だな)の若旦那さまで、菊之介きくのすけさまとおっしゃいます。江戸へは物見にいらしてて、ぜひとも吉原一のなよ竹おいらんを呼んでみたいとのことでしてね」

 促され、ようやくなよ竹は客人の顔を見た。

 そこに座っていたのは、年のころなら二十歳前後の、すっきりとした青年だった。

 長身を黒羽二重でいやみなく包んだ若者は、今まで見たことのないような美形で、まさに水もしたたるといった按配である。

 はっきりとした二皮目ふたかわめが、なよ竹の姿を捉える。 その黒い瞳に、自分が映っているのが見えるようだ。

 青年はなよ竹と目が合うと、しごく上品に微笑してあいさつした。

「ぬしがなよ竹か。よろしゅうな」

 ふつう、一級の花魁ともなれば、初会から酌をするどころか、そばへ寄ることすらしないのが常である。いわんや、床入りをや。

 それなのになよ竹としたことが、客人の美しさにうっかり見惚れてしまっていた。

 それに気づいた茶屋の主人が、えへんおほんとこれ見よがしな咳払いをしてくれ、ようやく目を逸らすことができた。

 茶屋の女房が続けて若旦那の背後に座る男を、九重屋の江戸店の番頭だと紹介する。

 年のころなら四十半ばの、いかにも実直そうな商人風だ。本店の若旦那のお守りをおおせつかって、振り回されているのだろう、しきりに汗をぬぐっている。

  もうひとりいるようだが、女房が紹介しないところを見ると、お付きの者かなにからしい。番頭の陰にかくれてよく見えない。

 全員の紹介が終わったところで、一座は讃岐屋へと向かった。

 菊之介とかいう若旦那は、こういう場には慣れぬのか、両腕を禿ふたりに引っ張られるようにして案内されている。そのうぶなようすがおかしくて、なよ竹は口許をほころばせた。




 讃岐屋二階の引付座敷ひきつけざしきで改めて酒宴の席が設けられたが、しきたりにのっとってなよ竹はよそよそしい態度を貫いた。本音では菊之介の真っ直ぐな視線を感じ、胸弾む思いなのであるが、そこをぐっとこらえてあくまでも知らんふりを決め込む。

 やがて宴たけなわとなったころ、なんの前触れもなく芸者衆の三味線をさえぎるような低い声が響いた。

「あいさつぐれぇしたらどうだ。え、おいらんよ」

 とたんに一座は、水を打ったように静まった。

  芸者衆は撥を持ったまま固まり、番新はよそい箸を取り落とし、卯花と禿ふたりは口許を袂で押さえた。菊之介と番頭が、ねじりん棒のように背後をかえりみる。

「入ってきてからこっち、ずっと知らん顔かよ。こっちゃアにらめっくらしに来たんじゃねえんだぞ」

 威勢はいいが上方なまりの残る言い方は、ひどくなよ竹の癇を逆なでる。

 視線をめぐらせると、今のいままでだんまりで座っていた菊之介の従者が腕組みをしていた。

 番頭があわてて膝を崩して叱る。

「これ、おまえはなんて口の聞き方だ。これは傾城買いのしきたりで……」

「番頭さん、俺ァしきたりなんざどうでもいいんでさあ。若旦那のほうがあいさつなされたんだから、そっちも会釈のひとつもするのが道理だろうが。さっきからだるまみてえに座りっきりで、どういう了見だい」

 なよ竹はここではじめて、従者の顔をまともに見た。

 男はさっぱりとした縞の裾をまくってあぐらをかき、眼光するどくにらみをきかせてくる。まだ若いが、柔和な顔つきの若旦那とは正反対のきつい顔だ。

 驚いたことに、男は黒髪を無造作に束ねて髷を結っただけの、いわゆる総髪そうはつだった。医者でも浪人でもない、お店者たなものがする髪型ではない。

 さしものなよ竹も一瞬ひるんだが、こちらもお職の意地がある。負けじとねめつけ、真っ向から受けて立った。

 初夏のさなかというに、いまや一座は呼気すら凍りつきそうな静けさをたたえていた。

 まさに一触即発。

 そんな緊張を解いたのはほかでもない、

龍次りゅうじ、いいかげんにしないか。失礼な口を聞くもんじゃない」

若旦那の一声だった。

 あくまでおっとりと、叱るというよりはたしなめるというふうで、供の男の膝をかるく打つ。とたん、男は居住まいを正した。

「これは手代の龍次と申す者で、京店の大番頭の息子です。幼なじみであり、兄とも友とも思っている者。わたし同様廓は慣れぬゆえ、大目に見てください」

 若旦那にこう言われては、一同顔を見合わせるばかり。

 しかしなよ竹は違った。

 若旦那がなんと言おうと、侮辱されたのには代わりがない。

「エゝ、ばからしい!」

 なよ竹はそう言い捨て、すっくと立ち上がり座敷を後にした。

 上草履の音高く廊下を抜け、自分の部屋へ戻る。ふすまが外れるくらい荒々しく閉め、腹立ち紛れに転がっていた文箱を思いきり蹴飛ばすが、収まりようもない。

 あの男はなんだ。

 たかだか奉公人の分際で、主人を差し置いて言いがかりを付けるとは、いったいどういうつもりなのだ。吉原のしきたりを知らぬのか、ならば了見違いは向こうのほうではないか。 

 やがて後を追ってきた番新と、騒ぎを聞きつけた遣手やりてがふすまのすき間から顔をのぞかせた。

「おいらん、お腹立ちはごもっともですが、ちっとお静まりくだされ。せっかくのお客人でござります」

 言いたいことはわかっている。

 大事な客だから、短気を起こすなということだ。

 だが頭では分かっていても、許せなかった。

「わっちゃァ、手代ふぜいになぶられるなんて、いっそ好かねえ。ホンニいまいましい!」

「ええ、ええ。なにとぞ、お気を鎮めて」

「九重屋さんは、もうお帰りになられました。おいらんにじゅうじゅう頼むとおっしゃられ……」

 番新の報告をみなまで聞かず、なよ竹は全員廊下へ追い出した。

 熊みたく部屋中ぐるぐると回っているうちに、ようよう昂ぶりが鎮まってきた。歩を止めて出格子(出窓)に腰かけ、往来を見下ろす。

 ちょうど九重屋の一行が見世を出たところだ。一刻もせぬうちに帰ってきては、駿河屋ではなにごとかとひっくり返るだろう。

 格子に顔を押し付けるようにして一行を見ていると、ふいに先頭を歩いていた若旦那が振り返った。見つかるわけはないのだが、なよ竹は反射的に窓の下に隠れてしまった。そのまま、畳に座って膝を抱く。

 それにしても、となよ竹は思う。

 あの菊之介とかいう若旦那は優しげで上品で、ちょっと珍しいほどの色男だ。

『色男 金と力は なかりけり』とは言うが、世の中にはああいう全てをかね揃えた男もいるにはいるものである。なよ竹はおのれの頬を両手で押さえた。

 うっかり短気を起こしてしまったが、嫌われてしまっただろうか。

 鼻持ちならぬ女郎よと、あきれられただろうか。

「菊之介……さま」

 そうつぶやくと、さきほど見たお顔が脳裏にうかぶ。

 しかしすぐに、あの憎らしい手代の顔がかぶさり、甘美な思いを台無しにした。

 なよ竹はあわてて手を外し、ふう、と大きくため息をついた。

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