三話
時刻はすでに夜四ツ半(午後十一時)を過ぎていた。
上弦の月には手が届かず、外は暗かった。
見世にはお茶を挽いた遊女がちらほらいるばかりで辺りには遊客もほとんどおらず、職人風の素見が何人か、未練がましく歩いているだけだった。彼らは歳若い下級遊女に扮したなよ竹の姿を認めると、なにやら野次を飛ばしてきたが、かまわず江戸町一丁目の木戸まで駆けていき、右に曲がった。
夕刻にはあれほど人ごみだった仲の町も、おおかたの引手茶屋は店じまいしており、人気もまばら。そのまま早足で突き当りまで急ぐ。
だが途中、揚屋町の門にさしかかった時、なよ竹は不意に右折して寄り道した。
そこには今まさに店じまいせんとする菓子屋があった。店の親父に声をかけ、閉めるのを待ってもらう。菓子を選んでいる間、親父はしげしげとなよ竹を見つめてきた。
「姐さん、どこの妓だい」
「えーと、最近来たばかりなんだけど……」
とっさに嘘をつくと、店の親父は禿げ頭をつるりと撫でた。
「おお、そうかい。頑張りなよ。姐さんくらい器量よしなら、いま吉原一って評判のなよ竹も超えるだろうて。あっしも道中をちらっと見たがね、ありゃあ天神様みてえだったなあ。んだが姐さんの方がずっと器量よしだぜ、いや負けてねえ」
などと、うんうんうなずいている。
親父とて、よもや目の前の地味な格好の安女郎が、その天神様だとは夢にも思っていないだろう。 なよ竹はなんだかいたたまれないような、吹き出したいような心持ちをかろうじて抑え、金平糖を一袋買った。
店の親父の頑張るんだよ、という励ましを背に、なよ竹はふたたび仲の町へと駆け出した。
なよ竹こと小夜は、もとはとある商家の娘である。
とはいってもそれほど大きな店ではなかったが、五つのころに店を焼いた火事で家と両親を失い天涯孤独となった。のちに遠縁に引き取られたが、その先が月野屋と同じく札差を営んでいる分家筋の葛城屋だった。
安永のころほどの繁栄ぶりはなかったものの、札差はいまだ豪商のたぐいであり、ゆくゆくは総領の朔太郎の許婚となるべく引き取られた小夜の将来は、安泰のはずであった。
しかし強欲な月野屋当主・玄兵衛がさらなる利益を求め、裏から手を回して吉原に妓楼を造った。
それが讃岐屋であり、玄兵衛に優れた容色を見込まれた小夜は、行儀見習いという名目で葛城屋の養親のもとから引き離され、禿として吉原へ放り込まれた。そこで遊女としての教育を叩き込まれ、やがて看板として見世へ出ることになった。
しかしそれはあくまでも客寄せにすぎず、表向きは未来のお内儀である小夜に、実際には客を取らないよう楼主は言い含められている。むろん年季奉公の証文もなく、その身は商家葛城屋の娘のままであった。
やがて玄兵衛は武家や商売敵の裏話を集めて本業に利用することを思いつき、お大尽と接触の多い高級遊女である小夜にその役目を背負わせ、息子の朔太郎に逐一報告させるようにしたのである。
水道尻を左に曲がり京町二丁目の筋を行くと、さらに右に曲がったすぐ突き当たりに目指す九郎助稲荷がある。
廓内には四隅にそれぞれ稲荷神社があったが、この九郎助稲荷が縁結びに効果ありともっとも人気があった。とは言えなよ竹がここを選んだのは、たんに讃岐屋のある江戸町一丁目とほぼ対角線上にあり、知る人もほとんどいないという理由からだが。
行灯の頼りない光のなか、稲荷はうらさびしげに立っていた。
祭りがあるときはたいそうにぎやかだが、この時刻になると恋に悩む遊女の祈る姿があるばかりだ。この日は折りよく誰もいなかった。
背後には羅生門河岸と呼ばれる、吉原でも最下層の女郎屋が立ち並ぶ。大通りでは人気がなかったものの、ここではまだ遊客と女郎との交渉が続いている。もっとも、ここの女郎は交渉などという手ぬるいことはせず、有無を言わさず力ずくで客を引きずり込むのだが。
しばらく手を合わせ祈るうち、なよ竹はにわかに胸に迫り来るものを感じた。
この羅生門河岸の局女郎と自分とは、どれだけ変わるというのだろう。
花魁の姿をしていなければ、誰もそうとは気づかない自分よりも、ここで身体を張っている局女郎の方が、まだ立派だというものだ。自分でなくてもいい、そんな自分などいらない存在なのではないだろうか。
湧き上がる涙を押さえきれず、しゃがみこんでぬぐっていると、とつぜん丸めた背中に衝撃を感じた。
前のめりにつんのめった拍子に手と膝を地につけ、あげく懐に浅く入れておいた金平糖までもがばらばらと落ちてしまった。真っ黒なよどんだ土に、紅や白の星が散り、いくつかが転がってどぶに沈む。
なよ竹は泣いていたことも忘れ、背後を振り返った。
大柄な男が悪ィ悪ィと、本当に悪いと思っているのかはかれない声で、手を差し伸べてきた。折りしも月明かりはおぼつかず、手ぬぐいで頬かむりしているせいもあり、男の顔立ちははっきりしない。 服装からして、どこかのお店の奉公人あたりか。
なよ竹は差し出された手を無視し、土を払いながら立ち上がって男をきっと見上げた。
「どこ見て歩ってんだい、このトンチキが!」
ちょうど感情が昂ぶっていたこともあり、なよ竹はこの見知らぬ男に八つ当たりじみた言葉を投げかけた。
しかし当のぶつかって来た男は、トンチキと呼ばれたことも気にせぬのか、差し出していた手を引っ込めて笑った。
「こりゃ手厳しい。こんなとこにうずくまってるなんて、見えなかったもんでな。悪い悪い」
なんともつかみどころのない男だ。
なよ竹はあらためて男の顔を見ようとした。
しかし、えらく背の高い男で、頭ひとつぶんは差があるだろう。見上げるには骨が折れた。
「おめえ、どこの妓だ」
さっきの菓子屋の親父と同じことを聞かれる。しかし今度は、嘘をつかなかった。
この飄々とした鼻柱を折ってやりたかった。
「あたしは江戸町一丁目讃岐屋のなよ竹ってんだ。名前くらいは知ってんだろ」
さあ、どうだ。どんなツラを見せるのか。
だが男はあごを撫で回しているようで、驚くそぶりも見せやしない。
ほおそうか、讃岐屋のなよ竹ねえ、などと感心しきりである。
今度はなよ竹があっけに取られる番だった。
贔屓目なしでも吉原一の花魁を、名のある絵師がこぞって美人画に取り入れるこのなよ竹を、知らないとはどういう了見だ。まさか河岸見世に来る男は、自分を知らないのだろうか。
やがて男は足許に視線を落としたようで、
「おう、金平糖が台無しだな。詫びにこれ持って揚げに行くから、待っててくれや」
と、わずかになまりが残るせりふを残し、ひらり手を振ると、足早に大通りへと向かっていった。
残されたなよ竹は、狐につままれた心持ちだった。
しばらく突っ立っていたが、やがて腹の底から笑いがこみ上げてきた。
──あの男、揚げに行くからだって?
河岸見世に来るような金しか持たないくせに、ただの奉公人、よくてせいぜい手代のくせに、松の位の自分を買いに行くという。
きっと明日にでも、細見で確認するだろう。
そうして一両一分の呼出であることに気づいて、腰を抜かすだろう。
聞くところによると、大店の手代でも給金は三、四両ほどだという。一晩買うだけで、一年の稼ぎの半分が飛ぶのだ。
そうやって魂消るさまを思い描くと、おかしくて仕方がなかった。
ひとしきり笑ったあと、なよ竹はすっきりした気分になった。あれほどこみ上げる涙をすすっていたのが、嘘のようだ。
ひとつ深呼吸をした時、あちこちで拍子木を打つ音が聞こえた。もう中引け(午前零時)だ。
なよ竹は地に落ちた金平糖を一瞥すると、小走りに江戸一へと駆けていった。
まぶたの奥で、金平糖のさまざまな色がまたたいているようだった。