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終章

「お小夜ちゃん、もう二、三合燗つけてくれ」

「おう、こっちも頼まァ」

 がやがやと騒がしい店内に、酒が入り陽気になった男たちの叫びが飛び交う。

 なよ竹も負けじと大声を張り上げた。

「はあい! ちょっとお待ちィ」

 女将手作りの肴が盛られた小鉢をお客のもとへ置いてから、なよ竹は火鉢にかけておいたちろりの取っ手をつかんだ。

 ちょうどこの時間帯は勤め帰りの職人や棒手振ぼてふりなどが大挙して押し寄せるため、狭い店内はたちまち満席になる。休む間もなく注文をこなさねばならない。

「お待たせ。小平次さん、いつも贔屓にしてくれてありがとね」

 にっこり笑って()()()を差し出すと、卓を囲んだ男たちの頬がたちまち緩んだ。

 酔いのせいで軽くなった口で、なよ竹に話しかけてくる。

「相変わらず、お小夜ちゃんは器量よしだねえ。深川小町ってなァもっぱらの評判だぜ」

「ウチの若ェ衆もよ、寄ると触るとお小夜ちゃんの話題で持ち切りさね。そろそろどうだい、世話するぜ」

 隣に座った大工の棟梁が、杯片手に身を乗り出してきた。

 だがなよ竹は手早く空いた皿を片付けながら、さっぱりと笑った。

「いやだ。こんな中年増、小町だなんて言ったら笑われますよ。あたしはね、今のままこうして働いていたいんです」

 寄るとさわるとなよ竹に婿を世話したがる親父たちが、いっせいに唇を尖らせる。

「またそれだ。お小夜ちゃんぐれぇの器量よしがなあ、もってェねえったらありゃしねェ」

「誰ぞ言い交わした男でもいるのかい?」

 質問には答えず笑顔でかわすと、なよ竹は食器を載せた盆を持って奥へと向かった。

 昔取った杵柄とやらで、酔客をさばくのはお手の物である。

「おおい、こっちゃァまだかい。いいかげん木戸が閉まっちまわァ」

 また別の客から催促の声が飛ぶ。

「はぁい、ただいまァ」

 なよ竹はあわててそちらに駆けていった。




 閉店後の店内で、なよ竹は客用の長床机ながしょうぎに腰掛けていた。

「お小夜、もういいから上がんな」

 前掛けで手を拭いながら、この煮売り酒屋『葛城屋』の女将が声をかけてきた。

「うん、お養母さんも先上がってて。あたしはひと息ついたら戻るから」

「そうかい、じゃあ先に上がるよ。戸締りはちゃんとしとくんだよ」

 女将は前掛けをはずして床机に置くと、奥へと引っ込む。

 ひとり残され、ふう、と大きく息をついた。

 今日もあわただしい一日だった。だが、忙しいのは嫌いではない。

 こうして目が回るような忙しさの中で立ち働いていると、自分がいまたしかに生きている、という実感が沸くのだ。

 いろんな人に出会え、さまざまな言葉を交わし、毎日が新しい発見の連続である。

 楽しかった。

 廓にいたころには、こんな生き方があるなんて思いもよらなかった。

 なよ竹は頭に巻いた手拭いをはずし、目を閉じた。

『讃岐屋の花魁・なよ竹』が凶刃に倒れ若い命を散らしたという報は、江戸中をまたたく間に駆け抜けた。当代一の名妓の死は耳目を驚かせ、瓦版が飛ぶように売れたという。

 当のなよ竹はしばらく九重屋の世話になって身を潜め、事件が沈静化したころを見計らい、かつての養親である葛城屋をたずねた。

 しかし葛城屋は、なよ竹が月野屋に取り上げられて間もなく左前になり、すでに店を畳んでいたので、容易には見つからなかった。九重屋の番頭の助力もあってようやく探し当てたときには、夫婦して深川の長屋で細々と内職をして暮らしていた。ふたりとも、なさぬ仲とはいえ一時は親子の縁を結んだなよ竹の死に、非常な責任を感じていたのだ。

 生きて戻ったことを驚きつつも、あたたかく迎えてくれた養親のために、なよ竹は一念発起をし、いちから煮売り酒屋をはじめた。

 煮売り酒屋は、その名のとおり飯も食わせれば酒も飲ませる大衆居酒屋である。

 幸いにも養母が料理上手だったため、味のほうはなかなかの評判を取ったが、それ以上に好評を博したのは破格の値段で提供される酒だった。

 酒は伏見の銘酒『筒井筒』。

 九重屋の看板商品である。

 番頭曰く、なよ竹あてに京より大樽で定期的に届くのだそうだ。別れる間際にしたたわいない約束を、律儀にも守ってくれているらしい。

 京店の意向で、本来ならばこの酒はすべて無料でもらえるのだが、そこをあえて固辞し買い取りさせて欲しいと願い出た。けっきょく真ん中を取って通常の卸値の半額という安値で仕入れさせてもらっている。仕入れた酒は店の主力商品として、店頭に出していた。

  この『筒井筒』を、少しでもたくさんのひとに手軽な値段で楽しんでもらいたい。

  その一心で、なよ竹は商いに精を出した。

 昨今流行りの灘の辛口酒と違いまろやかな伏見酒は、珍し物好きの江戸っ子たちにたちまち受け、煮売り屋は繁盛、取扱い問屋である九重屋も噂を聞いた料理屋からの問い合わせが激増したという。

 まったくもって、双方にとってよい風向きになったと言えよう。

 そうしてしゃにむに働きつづけて早六年。

 なよ竹は、花の盛りも過ぎた二十二歳になっていた。

 看板娘となり店頭に立ちはじめてすぐに、笠森お仙の再来と噂になり、縁談も降るように舞い込んできた。

 しかし、どれほど良縁であっても、誰になんと言われようとも、なよ竹は角が立たぬよう断りつづけた。

 ふと気付けば立派な嫁き遅れとなってしまったが、後悔はなかった。

 ──あたしが男と認めたのは、後にも先にもひとりだけ

 なよ竹は目を開けた。

 あれから六年経った。

 彼は、どうなったのだろう。

 九重屋の番頭もなにも言ってこないし、文ひとつ届かない。首尾よくいったのだろうか。

 待っていてくれ、とは言われていないのだ。

 なよ竹もまた、待っているつもりではなかった。

 だが──。

 そのとき、まだ下げていなかった縄のれんの向こうに、人影が見えた。

「あの、もうきょうはおしまいで……」

「わたしだよ、お小夜さん」

 よっこらせと入ってきたのは、九重屋の番頭だった。

 すっかり初老の域に入り、薄くなった髷も半分は白くなっている。

 番頭自らがこの店に来るのは、めったにない。たいがいは若い手代が品物を届けてくれるのだ。

 久々に迎える客人に、なよ竹は面食らいながらも立ち上がった。

「ごぶさたしてます、番頭さん。こんな夜更けにどうなすったんですか?」

 にこにことごきげんな様子で、番頭はそこらの床机に腰を降ろした。

 なよ竹が手早く淹れた茶をひと口すすると、

「いやなに、お小夜さんにお引き合わせしたい方がいらっしたんでさ。遅くにすまないね」

と、言った。

「はあ……」

 話が見えず目をしばたかせるなよ竹は、縄のれんの向こうにもうひとりの影があるのを見つけた。

 夜闇に溶けてしまいそうな黒羽織。男性のようだ。

 ずいぶん背の高いひとらしく、胸から上はのれんで隠れてしまっている。

 これほどの体格のひとは、そうそういない。

 過去にあったことのある中なら──。 

 そこまで考えたなよ竹の胸は、どきん、と昂ぶった。

 心の臓の音が聞こえたのか、番頭は続けた。

「先日、京店の旦那さまが隠居なされてね。若旦那があたらしく店を切り盛りされることになったんだよ。で、江戸にもう一軒『笹屋』って名前の分家を出すってんで、そこを視察がてら江戸へいらしたんだ」

 もはや、番頭の言葉の残り半分は右から左だった。

 京店の若旦那が、あたらしく店を継がれた。

 その、若旦那、って──。

 縄のれんの間から、するりと手が出てきた。

 大きくてしっかりした、男の手。

 なよ竹の胸が、うるさいくらいに高鳴る。

 まさか、まさか──。

 男は鴨居に頭をぶつけないよう、身をかがめてのれんを分け入ってくる。

 うつむいているから、顔は見えない。

 のれんをくぐった男は、背筋を伸ばした。

 目測でも六尺に近い長身。

 黒い羽織の肩に乗った、その顔は──。

「──おひさしぶり、小夜さん」

「……菊、さま……?」

 なよ竹は呆然とつぶやいた。

 菊之介だ。

 かつて吉原で馴染んだ、あのひと。

 柔和でまだ少年の面影が残っていた六年前と違い、やや肉が削げ眉目が凛々しくなった。もうすっかり大人の男である。

 立ちすくむなよ竹に、菊之介はゆったりと言った。

「驚かせたようだね。じつは三年前に本家のお嬢さんのもとへ婿養子に入って、僭越ながらもわたしが跡継ぎになったんだよ。このたび義父上ちちうえが隠居なされたんで、店をまかされることになったというわけなんだ」

 菊さまが、九重屋の若旦那。

 ──否、もう旦那さん。

 じゃあ、彼は──。

「……そう、ですか。それはおめでとうございます」 

「ありがとう。商いに関してはてんで素人なもので先行き心配なんだが、なんとかがんばってみるよ」

 整った面立ちをほころばせる菊之介に笑いかけつつも、なよ竹は身体の中身がぜんぶ抜けてしまったような空虚感に襲われていた。

 やはり無理だったのだ。

 連綿と続いた宮廷のしきたりは、一個人の都合でどうこうできるような生易しいものではなかったのだ。

 待っているつもりはない。

 つもりはないが、しかし心のどこかで期待していたのだろう。

 彼が、迎えに来てくれることを。

 ──何年経っても、あたしはまだまだ世間知らずの小娘だ

 なよ竹は笑い出したい心持ちになった。

 一気に力が抜け、先ほどまで腰掛けていた床机にもう一度へたり込む。

 そんななよ竹のようすには目もくれず、菊之介は番頭に話しかけていた。

「それにしても、すっかり江戸も変わってしまいましたね」

「あちこちで小火ぼやが起きてますんで、しょっちゅう建て替わるんです。六年も経てばそっくり新しい町になっててもおかしくありませんよ」

 そんなたわいない会話の合間に、菊之介はなよ竹のほうを向いた。

「こんど、うちの系列で新しい升酒屋ますざかやを出すことになったんで、小夜さんにもそこの旦那さんを紹介しておこうと思って来たんだ」

「升酒屋、ですか……」

 升酒屋とは、いわゆる町中の小売酒屋を指し、長屋に住む一般庶民が自宅で呑む酒などは、ここから買う。

 したがって、すでに問屋である九重屋と取引のある葛城屋とはなんの関係もない。

 いったい紹介とは、どういうことなのだろう。

 気の抜けた返事をしたなよ竹に、菊之介と番頭はそろって苦笑した。

「やれやれ。心ここにあらず、といった風情だねえ」

「番頭さん、そろそろ頃合じゃあありませんか。あんまりかわいそうで見てられませんよ」

 ふたりの言う意味がわからず首をかしげると、開け放した木戸の向こうからまた別の声がした。

「もうお終いかよ、つまんねえな」

 ぼんやりしていたなよ竹は、横っ面を張られたような衝撃を覚えた。

 聞き覚えのある、声。

 忘れられない。

 忘れたくない、声。

 からくりみたくぎちぎちと首を巡らせ、声のしたほうを向いた。

 さっきと同じように、縄のれんの向こうに誰かが立っている。こんどは羽織ではなく、こざっぱりした縞の着物だ。

 体格は、菊之介とほぼ同じくらい。

「せっかくだから焦らしてやろうと思ったのによ」

「だからどうしてそんな意地悪ばかりするんですか、あなたは。いつまでたっても子どもみたいですね」

 菊之介が肩をすくめてそう言うと、縄のれんの向こうの影は腕組みをといた。

 武骨な片腕が伸び、のれんをかき分ける。

 なよ竹は思わず立ち上がった。

 いったん収まった鼓動が、またもや早鐘を打つ。

 胸が破れてしまいそうだ。

「遅くなっちまったな──なよ竹」

 そう言った男のもう片方の手には、金平糖の包みが載っていた。



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