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二十三話

 すこし先で待ち構えていた菊之介に促され、桟橋を渡る。

 離れたところに本船が波に揺られており、足許には行き来用の伝馬船てんませんが待っていた。すでにほかの船員たちは本船に移っており、伝馬船には船頭が待ち構えていた。

 足を上げかけたとき、背中に番頭の引きつった声がかぶさった。

「あ、これ! 行ってはいかん!」

 高らかな下駄音が聞こえたかと思うと、袂がぐいと引っ張られる。

 追いかけてきたなよ竹が、息を弾ませつつ言った。

「──まだ、決まってないんでしょう?」

「あ?」

 質問の意図がつかめず、龍次は聞き返した。

 見上げてくる強い瞳と、まともに向き合う。

「まだ正式に相続したわけじゃないんでしょ? こないだ言ってたじゃない。今は叔父さんが当主になってるって、そのままでも問題ないって」

「ああ、言うには言ったが……」

 望月の夜に告白した内容のことらしい。

 たしかに、叔父が当主であっても血筋としては問題はない。

 ほかの宮家では断絶の危機に瀕して、まったく血の遠い親王を後継者に迎えた事例すらあるのだ。

「ただ血がつながってるってだけで、あんたは本当はふさわしくないと思われてるって言ってたじゃない。だったら──」

 いったん言葉を区切り、なよ竹は続けた。

「やめちゃえば、そんなの。叔父さんにそのまま継いでもらいなよ」

 さらりと言われ、龍次はあっけにとられた。

 かたわらの菊之介も同様らしくしばし固まっていたが、ようやく苦しげではあるが返した。

「小夜どの、簡単に言われますがこの問題はそんな……」

「なにが簡単よ。招かれざる客ってんなら、こっちから出てってやれば。ほかに誰もいないんならともかく、いるんでしょ。だったら厄介者あつかいされてまで相続するより、ふさわしいお方に継いでもらえばいいじゃないの」

 なかなか痛烈な嫌味だが、けっきょくは内情を知らない人間の言うことである。

 なよ竹に罪はないとはいえ、さすがに安直すぎる考えだ。

 菊之介もそう思ったのだろう、険しい顔つきで答えた。

「できるものならばとっくにそうしてますよ。しかし、普通のお家存続とはわけが違うのです。放棄するには、臣籍降下として姓を賜って朝廷に仕えるか、さもなくば仏門に入るかしか、方法はないんです」

 叱咤に近い菊之介の言葉に、なよ竹はむうと唇を尖らせ押し黙る。

「悪い、これは本当にどうにもならないんだ。おまえがそう言ってくれるのはうれしいけどな」

 見かねた龍次がなだめるが、なよ竹は負けじと続けた。

「もともとは九重屋の跡取りとして育ったんでしょ。じゃあ、養子に行けないの?」

「え──?」

 なよ竹の言葉に、龍次と菊之介は同時に問い返した。

 ──養子って、俺が九重屋に?

 それは、あまりにも意外な言葉だった。

 龍次とてこの数年、宮仕えを逃れる術はないだろうかと考えたことがないわけではない。

 ただ、実際残された手段はさきほど菊之介が言ったとおりだし、下手をすれば九重屋に累が及ぶとあっては、あまり無茶な真似もできない。

 畢竟、甘んじて受けるしか道はなかった。

 それが──。

「皇族が商家の養子になどと、そんな例は聞いたことがありません!」

 あわてて声をひそめる菊之介には目もくれず、なよ竹はまっすぐに見据えてきた。

 視線がからむ。

 ああ、この目だ。

 この強く揺るぎない目に、俺は惚れたんだ。

「は──」

 龍次は、大きく息をついた。ついてすぐ、頬がゆるんだ。

「ははっ。小夜、おまえ──」

 腹の底から笑いがこみ上げる。

 いったんこぼれると、あとはたがが外れたようにあふれ出た。

 ひとしきり笑ったのち、目じりに浮かぶ涙の粒をはらいながら言った。

「すげえな、どこからそんなの思いつくんだ。ちらりとも考えなかったぜ」

「ちょっと、あたしは真面目に……」

 むくれるなよ竹の言を、龍次はさえぎった。

「おもしろい。確かに前例はないが、さいわい俺はまだ親王宣下を受けてないし、万に一つの望みはあるかもな。俺の出自をそっくりそのままひっくり返すってか」

「そうよ、前例がなければ作ればいいの。ただ流されて利用されるだけなんて、ばからしいじゃない」

 なよ竹はきっぱりと言った。

 つまらない迷いや懸念を吹き飛ばす、力強い声だった。

 なりは変わっても、この娘は吉原一の花魁だ。

 帯を解かない遊女として、誰にもおもねることをしなかった。

 けっしておのれを曲げることのない、意気と張り。

 ともすれば世間知らずな小娘の空言とも呼べるが、いまはその意気と張りに、なによりも勇気づけられた。

「やってみるよ。うまくいくかどうか分からねえけど」

 にっ、と笑ってみせると、彼女もまた笑みを浮かべた。

 船の上から、船頭が声を張り上げた。早く乗ってくだせえ、とかなんとか怒鳴っている。桟橋の向こうに立っている番頭も、せわしなく手ぬぐいをもみしだいていた。

「若、もう……」

 焦る菊之介を先に下ろし、龍次は言った。 

「もし、うまくいったら──」

 だが、出港を告げるやかましい銅鑼の音にかき消され、その声は届かなかったようだ。

 なよ竹は口を「なに?」の形に開けている。

 龍次は、繰り返さなかった。

 約束はできない。

 うまくいく保証もない。

 だから、それ以上は口にしなかった。

 差し伸べられた菊之介の手をつかんで桟橋から飛び降り、龍次は船に乗った。

 と同時に、伝馬船はゆっくりと動き出した。

 吹きすさぶ海風にあおられながら、龍次はそれきり後ろを振り向かなかった。




「ああ、富士ですよ。今日は晴れてるからきれいに望めますね」

 欄干に手をかけ、菊之介がのんびりと景色を眺めている。

 ふだんは荒波の難所と音に聞こえる遠州灘だが、今日はめずらしく落ち着いていた。

 来たときはこのあたりで臓腑がひっくり返るかと思うほど揺られたのが嘘みたいである。

 龍次もまた横に立って富士を望んだ。

 薄めた縹色はなだいろの空が眼前いっぱいに広がり、そのほぼ中央に名高い霊峰が威を背負っている。白雪を冠した姿はたとえようもなく美しく、ふたりはしばしの間絶景に目を奪われていた。

 やがて、菊之介が視線はそのままでつぶやいた。

「……本気ですか?」

 なにが、とは言わない。

「ああ。だめもとで所司代の石頭どもに申し出てみるさ。まあ突っぱねられるのは覚悟の上だ。何年かかるか分かんねえけど」

「何年かかっても、聞き入れられないかも知れませんよ」

「じゃあ、何十年もかけりゃいい話さ」

 しれっと答えてやると、菊之介はこちらを向いてきた。

 苦笑を浮かべつつ、

「ったく、どうせ止めたって無駄だろ。おまえは昔っからそうだ、俺の言うことぜんぜん聞かねえんだからな」

と、伝法な口調で言った。

 菊之介がこんな口を聞くのは、宮家に上がってから初めてだ。

 龍次はすこしだけ目をまるくしたが、すぐににやりと笑った。

 幼なじみの肩に手をかけ、軽く揺さぶる。

「悪ィな、もうちっとだけ付き合ってくれ」

「いいさ。毒を食らわば皿までってやつだ」

 菊之介もまた、歯を見せて笑った。

 まるで、遊び仲間だった昔に戻ったようだった。

 主従としてではなく、いちばんの友達として。




 ──もし、うまくいったら……

 その先は、言わなかった。

 何年かかるか、そもそも受け入れられるかすら分からない。

 こんな賭けごとみたいなまねに、なよ竹を付き合わせるわけにはいかない。

 待っていてくれなくてもいい。

 ただ、仕合せになってくれさえすれば、それで。

 これは、俺のけじめだ。

 なよ竹が遊女としてけじめをつけたように、俺もまた宮家の嗣子として、けじめをつけなければならないのだ。

 潮風を全身に受けつつ、龍次は大きく深呼吸した。

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