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二十二話

 長月(現在の十月頃)に入ると、ひんやりとして肌寒いくらいである。

 つい一月ほど前までは、まだうだるような暑さが残っていたのに、気候のよい時期はまったく駆け足で去っていく。それでなくてもここは海風が吹きつけるから、よけい寒く感じる。

 龍次は羽織の襟を立てた。

 羽織は最高級の黒羽二重で、ほかにも帯から草履から、果ては煙管入れまで祖父がこの旅のためにわざわざあつらえさせた逸品である。

 しかし龍次にしてみれば衣装負けしているようで、どうも落ち着かない。

 寒いのをがまんして羽織だけでも脱いでやろうかと思っていると、気配を察したのか、横合いから菊之介が釘を刺してきた。

「若、最後くらいはきちんとした格好をなさって下さい。ほかの者にも示しがつきませんから」

「……俺、こういういかにも坊々って服、似合わねえからよ。おまえが着たほうがよっぽどサマになってたじゃねえか。な、交換しようぜ」

「とんでもない! もう替え玉は御免こうむります。生きた心地がしませんよ」

 菊之介はあわてて半歩後ろに下がる。彼のほうは逆に、髷を身分相応に結いなおし、こちらへ来てから龍次が着ていた縞木綿をつけている。

 おまえこそ手代姿が似合ってねえぞ、と心の中でぼやきつつ、龍次は久々に結ったもとどりに手をやった。半年後には京へ戻って烏帽子えぼしを被らねばならない身のため、月代を剃れなかったのだ。

 ひときわ大きな波音が耳に届き、龍次は沖へ視線をやった。

 風をはらんだ廻船が、次から次へと港へ入ってくる。

 威勢のよい船頭の声が、岸壁に立つ龍次のもとまで聞こえてきた。

 伏見や灘・伊丹など上方で造られた酒は、いったん西宮へ集められてから江戸積みの船に乗せられ、品川港へと運ばれる。その年最初に江戸へ運び込む船の到着順を競う例年行事を「新酒番船」といい、今まさに続々と船がこの品川港へ入ってきていた。船乗りや酒問屋の者以外にも、見物客で港はお祭り騒ぎであった。

 龍次は幼いころ、祖父に連れられて西宮へ行ったことがある。

 出港のときの大歓声や送り出す鉦や太鼓の音に、わくわくしたことを今でも覚えていた。

 こうして江戸でふたたび入港を見られるとは、夢にも思わなかった。

 もう、とっくに諦めていたからだ。

「俺のわがままに付き合せちまって、いろいろ悪かったな。番頭さん」

「はい、あ、いやいや……そのような……」

 龍次が頭を下げて見せると、番頭は手ぬぐいで額をしきりにこすりつつ、口の中でなにやらごにょごにょと呟いた。

 無理もない、若旦那と従者が実は入れ替わっていたのだ。

 打ち明けたとき、からかうのもいいかげんにしろ、と怒鳴られたくらいである。菊之介が仲裁に入り、ようやく信用してもらえたのだが、そのせいかどうかは知らぬが、最初に会ったときよりも五つは老け込んだように見える。

 やがて、新町に酒樽を納品してきた船乗りたちが、ぞろぞろと戻ってきた。

 一番札は灘の船に取られてしまったが、船乗りたちは一様にしゃっきりしている。遠州灘の荒波をぶじ乗り越えてきた男たちの、自信と達成感に満ちた顔がまぶしい。

 男たちのうちもっとも屈強な者が、どうやら船頭らしい。

 大きな身体を折り曲げ、番頭に耳打ちする。

「そろそろ準備が……」

「おお、できたか」

 早くも出港の準備ができたようだ。

 今日着いたところだというのに何ともあわただしい限りだが、彼らは九重屋の旦那から一刻も早く上方へとんぼ返りするよう命じられていた。酒樽をすべて下ろし空になった船に、だいじなお預かりものを乗せて。

「みな長旅ご苦労だったが、もうひと働きしてもらうぞ。くれぐれも頼む」

 番頭の言葉に、船乗りたちは、おう、と頼もしい声で応えた。

 冷えた海風を受けていながら、龍次は腹の底が火照るのを感じた。

 ここにいるみなは、自分を京へ運ぶために尽力してくれている。

 船乗りも、番頭も、そして菊之介も。

 それだけではない。

 京にいる祖父や義父も、下手をすると後ろに手が回るような危ない橋を渡り、持てる力の全てを使い自分をこうして旅に出させてくれた。

 みな、自分のために。

 もう九重屋から離れて久しい、自分のために。

「なあ、菊……」

「はい?」

 傍らに立つ菊之介に、声をかける。

 いつだってこの幼なじみは、側にいてくれた。

 子どものときは丁稚仲間として、宮家に上がってからも何度となく支えになってくれた。

 そして今は──。

「……俺は、仕合せ者だな」

 それ以上、多くは語らなかった。

 だが菊之介には、なんとなく彼が言いたいことが分かったらしい。無言でうなずいた。

 俺は仕合せ者だ。

 帰りたい家もあるし、家族も心配してくれる。

 ──やっぱり俺は、九重屋の男だ

 この想いを支えに、どこででもやっていける。そんな気がした。

 龍次は空を仰ぎ、潮の香まじりの江戸の空気を胸いっぱい吸い込んだ。




 今日はなかなかの船出日和のようで、風も味方についてくれる。張られた帆ははちきれんばかりだ。菊之介はまとめた荷物を船頭に渡し、船に積んでもらっていた。

 そろそろ船に乗らねばなるまい。

 だが、後ろ髪引かれる思いは、なんど追い払っても羽虫のように心中に沸いた。

 きっちりとけじめはつけてきた。

 もう、思い残すことはなにもない。

 そう無理やり自分に言い聞かせ、龍次は船へと歩みだした。

 その時。

「──待って!」

 ひときわ高い声が、見物客の中からこぼれた。

 振り返ると、娘がひとり駆け寄ってきた。

 なんども前のめりに転びそうになりながら、あっけに取られる番頭の脇を抜け、脛もあらわに走ってくる。

 その声に、その姿に、龍次は見覚えがあった。

 否、見覚えどころかまぶたに焼きつけたほどだ。

「なよた……」

 名を呼ぼうとするが、追いついたなよ竹が速度を緩めず全身でぶつかってきたため、勢い余って後ろへ転んでしまった。彼女もまた、きゃあ、などと叫び、胸の上へのしかかってくる。

「なんだ、おめえ……」

「しっ!」

 立てた人差し指を唇に当て、なよ竹は龍次を制した。

 こんな人の多いところで呼ばないで、小夜って呼んでよ、と怖い顔でささやかれ、ようやく『なよ竹』は死んでいることになっていたのを思い出した。生きているとばれれば、やっかいである。

 うなずくと、彼女は納得したように立ち上がった。龍次も埃をはたきながら立ち上がる。

 まじまじとなよ竹の全身に視線を走らせた。

 地味な子持ち縞に玉簪一本きりの鹿の子島田という、どこにでもいる町娘のかっこう。

 絢爛な仕掛や華やかな横兵庫という花魁の装いもよいが、いまのほうがなよ竹を年相応に見せ、少女らしい美しさをいっそう引き立てている。

 あの望月の夜に見せた、隠しどころのない姿と同じように。

 龍次は急に気恥ずかしくなり、照れ隠しに軽口を叩いた。

「へえ……。意外と見れるな。いつもの厚化粧よりはいいんじゃねえか」

「あんたこそなによ、その若旦那でございってかっこうは。全然似合ってないわよ」

「…………」

 あっさり返り討ちにあい、口をつぐむ。

 一方のなよ竹は、してやったりという顔である。

「おまえさん、まさかあの時の花魁……!」

 番頭が大声を上げかけるが、それもまたふたりがかりで制した。

 前もって話していたおかげか、番頭はすぐに察したようで、両手で口をふさいで何度もうなずく。

「もう行くのね」

「おう。おまえにも世話んなったな」

「まったくよ。あんたのおかげでさんざんだったわ。向こうに着いたらなにか美味しいものでも送ってよね」

「美味いもんか……。酒なら多少目利きができるんだがな。いるか? うちの看板『筒井筒(つついづつ)』。甘口だからおまえにも飲めるぜ」

「お酒かあ……うーん」

「あの、もう出ますので……」

 ようやく気づいて駆けつけた菊之介が、遠慮がちにさえぎった。

 なよ竹はその菊之介のほうへ顔を向けた。うってかわって笑顔を浮かべ、

「菊さま、ほんとうにお世話様でした。あちらへお帰りになっても、どうかご息災でいらして」

「ありがとうございます。こちらこそご迷惑をおかけして……」

 菊之介は頭を下げた。

 下げる寸前、彼がまぶしそうに目を細めたのを、龍次は横目でとらえた。

 ふっ、となよ竹がまたこちらを向いた。

 ぼそっとつぶやくように言う。

「あんたも……息災で、ね」

「ああ」

 菊之介に対するそれと比べると、なよ竹の口調も態度もそっけないが、龍次にはそれがむしろ痛かった。

 まだ、わんわん泣かれるほうがましだとさえ思った。

 根は純なくせに、意地っ張りなため弱気を見せたくないのだろう。

 なんどもまたたきを繰り返す大きな目が潤み、目じりが紅く色づいている。形のよい唇は、ぎゅっと引き締められていた。

 無意識のうちに細い肩へと手を伸ばしかけたが、脇から菊之介に肘で小突かれ、あわててこぶしを作り懐へ入れる。

 離れがたいのは、お互いさまだ。

 だが、もう行かねばなるまい。

「それじゃ、もう行くわ。おまえも元気でな」

 わざとあっさり言うと、龍次は笑顔を作った。

 うまく笑えているか、自信はないが。

 なよ竹も、口の端を持ち上げる。

 お互い、不自然きわまりない笑顔にちがいない。

 すべての想いを振り切り、龍次は娘に背を向けた。鉛球でもくくりつけられたかのように足が重く、最初の一歩を踏み出すのにずいぶん時間がかかったように思えた。

 歩を進めるごとに、江戸が、なよ竹が遠くなる。

 数歩行ったとき、龍次は己の懐のふくらみに気がついた。

 ここへ来る途中見かけ、懐かしさについ財布の紐を緩めさせた“それ”が、半年前の約束の品だったことを、今さらながら思い出した。

 普段なら買わない“それ”が懐かしく思えたのはなぜか。

 知らせだったのだろう。なよ竹が見送りに来る、という。

 龍次はふり向き、なよ竹のもとへ戻った。懐から取り出した袋を差し出す。

 なよ竹の指が袋を開くと、中から色とりどりの星がのぞいた。

「これ……」

「覚えてるか、これ持って揚げに行くって約束しただろ。すっかり遅くなっちまったけど、受け取ってくれ」

 半年前、まだろくにお互いを知らなかったころの、たんなる口約束。

 あのころには、こんなふうに想い合い、また別れを迎えるなど考えもしなかった。

 たった半年の間で、すべてが変わってしまった。

 両手の平で金平糖の入った袋を包み、なよ竹は面を伏せた。

 表情は、見なくても分かっていた。

 もう、言葉をかけるべきではない。

 かければかけるほど、彼女の中で自分の存在が大きくなる。

 それはすなわち、彼女の仕合せが同じだけ遠ざかってしまうということ。

 仕合せになってほしい。

 なよ竹は、もう籠を出られたのだ。

 うつむいたなよ竹をそのままに、龍次は今度こそ船に乗り込むべくきびすを返した。

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