表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/27

二十一話

「……まあ、ざっとこんなところだ」

 龍次が後ろ手に縁側に手をつき、半身を反らせて夜空を仰いだ。

 月はもう中空をわずかに過ぎている。

 なよ竹は大きくため息をついた。

 あまりにも話が突飛すぎ、また馴染みのない世界なので、いまだ頭の中を整理しきれていない。武家社会の江戸においては、宮廷とは源氏物語などの絵巻物にしか存在しない、御伽噺の舞台である。

 しかし、彼がいつか口にした「そうか。俺と同じだ。……いや、むしろ逆かな」という意味は、ようやく飲み込めた。

 商家の娘から遊女へ転落した自分と、町人から宮家へと上った彼。

 一見すると正反対だが、己の望むところではないという点では同じ境遇であった。

「あたしたちは、もとから住む世界が違ったのね」

「ああ、会えたこと自体が奇跡みたいなもんだ」

 そう、本来なら決して交わることのない世界。

 京と江戸という距離だけの問題なら、どうとでもなる。

 身分の差も、境遇こそ違えどお互いもとは商家の出であるし、まったくの不可能ではない。

 だが、今のふたりでは、乗り越えることすらかなわない。

 自分たちだけの問題ではない。

 周りを取り巻く、あまたの人々の思惑や生活があるのだ。

 龍次がぽつりと言った。

「……江戸に来てよかった。もう、おまえみたいな女は見つからない。きっと、一生忘れられねえだろうな」

 それきり黙ってしまい多くは語らなかったが、なよ竹には彼がなにを言いたいのか分かった。

 宮廷の作法はなよ竹の知るところではないが、彼が正式な跡取りとなった暁には、皇族や公家の姫を妃に迎えることになるのだろう。

 自分が朔太郎と縁組されたのと同様に、いやそれ以上にしきたりにのっとった形で。

 なよ竹は肩先が冷えるのがわかった。

 羽織を肩がけにしてはいるが、この冷気は秋の夜のものではなく、身の内から起こるものだ。

「俺は、本当は商人になりたかった。大店じゃなくてもいい、自分で小さい店を持って、女房や子どもとやりくりしたかった。それも、もうかなわぬ夢だけど……な」

 最後のほうは、聞き取れなかった。

 なよ竹は、唇を噛んだ。みるみるうちに目頭が熱くなり、涙があふれた。

 なぜ泣くのだ。

 自分の先の見えない明日か、彼の境遇か。

 それとも、結ばれることのないこの想いか。

 頬を伝うしずくをぬぐっていると、傍らで龍次が苦笑した。

「なんだおまえ、また泣いてんのか。意外に泣き虫だな」

「なにさ、泣き虫で悪かったわね」

 むくれて言い返すが、しゃくり上げてうまく言えない。

「わかったわかった、もう泣くな。身体に毒だぞ」

 龍次は盆をどけて膝を進め、なよ竹の傷ついていないほうの肩に手をかけた。あたたかく大きな手に包まれた肩から、じんわりと熱が染み入り、やがて全身にまわる。

 あごに手をかけられ、なよ竹は涙に濡れた顔を上げた。

 眼前に、龍次の顔がある。

 満月の光のなか、それは例えようもなく凛々しく、美しく、いとおしかった。

 頬に走る涙の跡をぬぐっていた龍次の手のひらが、耳をかすめうなじに回った。

「──俺が、本当に若旦那だったらよかったのにな」

 決して乱暴ではない所作で引き寄せられ、なよ竹は彼の胸に顔をうずめた。

 縞木綿の襟元が一瞬、絹の装束のような肌触りに思えたのは、きっと気のせいだろう。

 本当に、九重屋の若旦那だったらよかったのに。

 膝を崩し、しがみつく。

 背に回された腕は力強いが、いつかの稲荷の夜ほどきつくはない。

 だがあのとき以上に、愛しさにあふれていた。

 なよ竹は面を上げ、膝立ちになった。

 そして、真っ向から龍次の目をとらえて言った。

「あたしの……。あたしの真を、受け取って」

 龍次は意味をはかりかねたらしく、一瞬眉を寄せた。

「真って……」

「あたしは今まで、自分が認めた男が現れるまでは、誰にも帯を解かないって誓ってきた。だけどいま、やっと見つけた」

 龍次の目がわずかに開かれる。

 なよ竹が言わんとすることを理解したのだろう。

 しかし彼は抑えた声音で退けた。

「……だめだ。そんな無責任なこと、俺にはできない」

「責任とかそんなの、どうだっていい! あたしが欲しいのはそんなんじゃない!」

 なよ竹は彼の胸ぐらをつかみ、二、三度揺さぶった。

「一緒になることはできない、それは分かってる。だけど、せめて真の心だけはもらって欲しいのよ。あたしも、あんたも、お互いのただひとりになりたいの」

 これは、ただのわがままだ。

 自分の想いを一方的に押し付けているだけというのも、分かっていた。

 だが、これはけじめなのだ。

 遊女なよ竹として惚れた相手への、最後のけじめ。

 なよ竹はまだ死んでいない。

 死ねやしない。

「あんたは金も力もない、ただの手代。そして……このなよ竹おいらんの、ただひとりの間夫。その心意気ひとつであたしを惚れさせた、たったひとりの男なんだから……」

 なよ竹は身を離し、きっぱりと言った。

 その真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、龍次は長いこと動かなかった。

 やがて、ふっと笑った。

「それでこそ、俺が見込んだ花魁だ。惚れなおしちまう」

 おどけた口調に、なよ竹もまた唇をほころばせる。

 その唇に、指が這わされた。

 中指に筆胼胝ができている、武骨で少しかさついた指。

 なよ竹は目を閉じた。

 もう一度抱き寄せられ、唇を重ねられる。

 いつかと違い、背信はなかった。

 繰り返し唇を交わしていると、いつの間にか龍次の手が胸もとをくつろげていた。むき出しになった左肩をぐるぐる巻きにしている布を目にし、とまどっているようだ。

 なよ竹は龍次の額におのれのそれを合わせ、小さく首を振った。

 いいのよ、と思いを込めて。

 その思いを受け取ったのか、龍次の手は腰紐にかかった。

 かすかな音とともに前が開かれ、衣が背をすべり落ちる。

 身体の稜線に沿って這わされる指。

 肌の感触を味わうように押し付けられる唇。

 伏せたまつげ、高い鼻梁。生き生きとした豊かな黒髪。

 うれしかった。

 この男のすべては、あたしのもの。

 そしてあたしは、この男のもの。

 なよ竹は目を閉じ、全身で龍次を感じようとした。

 男の手に触れられるのを、ふしぎと怖いとは思わない。

 ただ、いとしい想いだけ。

 甘いあまい蜜を固めたろうそくに火が点り、とろけるような悦びに、なよ竹は身をゆだねた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ