二十一話
「……まあ、ざっとこんなところだ」
龍次が後ろ手に縁側に手をつき、半身を反らせて夜空を仰いだ。
月はもう中空をわずかに過ぎている。
なよ竹は大きくため息をついた。
あまりにも話が突飛すぎ、また馴染みのない世界なので、いまだ頭の中を整理しきれていない。武家社会の江戸においては、宮廷とは源氏物語などの絵巻物にしか存在しない、御伽噺の舞台である。
しかし、彼がいつか口にした「そうか。俺と同じだ。……いや、むしろ逆かな」という意味は、ようやく飲み込めた。
商家の娘から遊女へ転落した自分と、町人から宮家へと上った彼。
一見すると正反対だが、己の望むところではないという点では同じ境遇であった。
「あたしたちは、もとから住む世界が違ったのね」
「ああ、会えたこと自体が奇跡みたいなもんだ」
そう、本来なら決して交わることのない世界。
京と江戸という距離だけの問題なら、どうとでもなる。
身分の差も、境遇こそ違えどお互いもとは商家の出であるし、まったくの不可能ではない。
だが、今のふたりでは、乗り越えることすらかなわない。
自分たちだけの問題ではない。
周りを取り巻く、あまたの人々の思惑や生活があるのだ。
龍次がぽつりと言った。
「……江戸に来てよかった。もう、おまえみたいな女は見つからない。きっと、一生忘れられねえだろうな」
それきり黙ってしまい多くは語らなかったが、なよ竹には彼がなにを言いたいのか分かった。
宮廷の作法はなよ竹の知るところではないが、彼が正式な跡取りとなった暁には、皇族や公家の姫を妃に迎えることになるのだろう。
自分が朔太郎と縁組されたのと同様に、いやそれ以上にしきたりにのっとった形で。
なよ竹は肩先が冷えるのがわかった。
羽織を肩がけにしてはいるが、この冷気は秋の夜のものではなく、身の内から起こるものだ。
「俺は、本当は商人になりたかった。大店じゃなくてもいい、自分で小さい店を持って、女房や子どもとやりくりしたかった。それも、もうかなわぬ夢だけど……な」
最後のほうは、聞き取れなかった。
なよ竹は、唇を噛んだ。みるみるうちに目頭が熱くなり、涙があふれた。
なぜ泣くのだ。
自分の先の見えない明日か、彼の境遇か。
それとも、結ばれることのないこの想いか。
頬を伝うしずくをぬぐっていると、傍らで龍次が苦笑した。
「なんだおまえ、また泣いてんのか。意外に泣き虫だな」
「なにさ、泣き虫で悪かったわね」
むくれて言い返すが、しゃくり上げてうまく言えない。
「わかったわかった、もう泣くな。身体に毒だぞ」
龍次は盆をどけて膝を進め、なよ竹の傷ついていないほうの肩に手をかけた。あたたかく大きな手に包まれた肩から、じんわりと熱が染み入り、やがて全身にまわる。
あごに手をかけられ、なよ竹は涙に濡れた顔を上げた。
眼前に、龍次の顔がある。
満月の光のなか、それは例えようもなく凛々しく、美しく、いとおしかった。
頬に走る涙の跡をぬぐっていた龍次の手のひらが、耳をかすめうなじに回った。
「──俺が、本当に若旦那だったらよかったのにな」
決して乱暴ではない所作で引き寄せられ、なよ竹は彼の胸に顔をうずめた。
縞木綿の襟元が一瞬、絹の装束のような肌触りに思えたのは、きっと気のせいだろう。
本当に、九重屋の若旦那だったらよかったのに。
膝を崩し、しがみつく。
背に回された腕は力強いが、いつかの稲荷の夜ほどきつくはない。
だがあのとき以上に、愛しさにあふれていた。
なよ竹は面を上げ、膝立ちになった。
そして、真っ向から龍次の目をとらえて言った。
「あたしの……。あたしの真を、受け取って」
龍次は意味をはかりかねたらしく、一瞬眉を寄せた。
「真って……」
「あたしは今まで、自分が認めた男が現れるまでは、誰にも帯を解かないって誓ってきた。だけどいま、やっと見つけた」
龍次の目がわずかに開かれる。
なよ竹が言わんとすることを理解したのだろう。
しかし彼は抑えた声音で退けた。
「……だめだ。そんな無責任なこと、俺にはできない」
「責任とかそんなの、どうだっていい! あたしが欲しいのはそんなんじゃない!」
なよ竹は彼の胸ぐらをつかみ、二、三度揺さぶった。
「一緒になることはできない、それは分かってる。だけど、せめて真の心だけはもらって欲しいのよ。あたしも、あんたも、お互いのただひとりになりたいの」
これは、ただのわがままだ。
自分の想いを一方的に押し付けているだけというのも、分かっていた。
だが、これはけじめなのだ。
遊女なよ竹として惚れた相手への、最後のけじめ。
なよ竹はまだ死んでいない。
死ねやしない。
「あんたは金も力もない、ただの手代。そして……このなよ竹おいらんの、ただひとりの間夫。その心意気ひとつであたしを惚れさせた、たったひとりの男なんだから……」
なよ竹は身を離し、きっぱりと言った。
その真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、龍次は長いこと動かなかった。
やがて、ふっと笑った。
「それでこそ、俺が見込んだ花魁だ。惚れなおしちまう」
おどけた口調に、なよ竹もまた唇をほころばせる。
その唇に、指が這わされた。
中指に筆胼胝ができている、武骨で少しかさついた指。
なよ竹は目を閉じた。
もう一度抱き寄せられ、唇を重ねられる。
いつかと違い、背信はなかった。
繰り返し唇を交わしていると、いつの間にか龍次の手が胸もとをくつろげていた。むき出しになった左肩をぐるぐる巻きにしている布を目にし、とまどっているようだ。
なよ竹は龍次の額におのれのそれを合わせ、小さく首を振った。
いいのよ、と思いを込めて。
その思いを受け取ったのか、龍次の手は腰紐にかかった。
かすかな音とともに前が開かれ、衣が背をすべり落ちる。
身体の稜線に沿って這わされる指。
肌の感触を味わうように押し付けられる唇。
伏せたまつげ、高い鼻梁。生き生きとした豊かな黒髪。
うれしかった。
この男のすべては、あたしのもの。
そしてあたしは、この男のもの。
なよ竹は目を閉じ、全身で龍次を感じようとした。
男の手に触れられるのを、ふしぎと怖いとは思わない。
ただ、いとしい想いだけ。
甘いあまい蜜を固めたろうそくに火が点り、とろけるような悦びに、なよ竹は身をゆだねた。