二十話
京は伏見に、ある酒問屋があった。
寛永年間の創業で、伏見でも指折りの老舗であるその店は、九重屋という屋号だった。
今から二十数年前、九重屋の娘──現在の当主の妹に当たるそうだ──が、今出川にあるお屋敷に女房として出仕した。
そのお屋敷というのが瑞穂宮と呼ばれる、室町末期創設の非常に古い宮家であった。
江戸であればもっぱら武家屋敷への女中奉公となるが、京では宮家や公家屋敷への奉公も多かったという。おもに裕福な商家の娘などが、結婚のための箔付けとして礼儀作法を習いに上がった。九重屋の娘も、そのひとりである。
数年後、娘は暇を出されて実家に戻った。
その腹には、宮家当主・篤成親王の胤を宿していた。
折りしも宮家では跡目争いの真っ只中であり、これ以上揉めごとを増やすのはよろしくない、巻き込まれないうちにと、娘は篤成親王に持たされた書状ひとつをさげ、逃げるように宿下がりしたである。
帰されてきた娘に、父親──当時の当主である文左衛門だ──と、まだ若旦那であった兄は仰天したが、それでもひそかに子を産ませた。生まれたのは男児であり、娘ひとりを残し妻に先立たれた若旦那は、妹の子を龍次と名づけ自分の息子として育てることにした。
それからさらに数年が経ち、龍次はすこやかに成長した。
当主・文左衛門の主義にのっとり、龍次は跡取りであっても乳母日傘で甘やかされず、丁稚として一から商いを叩き込まれることになり、大番頭の末息子で同い年の菊之介と一緒に、汗水たらして働いていた。
母である九重屋の娘は子を産んでまもなく全てを口閉ざして亡くなっていたため、なにも知らず伏見の街を走り回っていたころが、彼の人生でもっとも幸せな時期であっただろう。
龍次が十二になったころ、とつぜん京都所司代よりお召しがかかった。
なにごとかと文左衛門は龍次を連れおそるおそる参上したが、そこで聞いた内容はまさに青天の霹靂であった。
所司代曰く、篤成親王はたちの悪い病を召され、余命いくばくもないという。
あれほど大騒ぎした後継者はあっさりと鬼籍に入ってしまっており、ここにきてまたもや後継者問題に直面した。
そんな中、死を目前にして弱気になられたのか、篤成親王は顔をご覧になることすらかなわなかった、今となっては唯一の血を分けた息子である龍次にお会いになり、そして跡目を譲りたいと仰られたのである。
当初、所司代も瑞穂宮家の諸太夫(武家の家老に相当)たちも本気にしなかったが、親王御自らの手による落胤に関する書状が発見され、それをたどって行くと九重屋の娘が生んだ男児であるとわかった。
そこで所司代と一部の宮家諸大夫は、親王の意思を尊重しこの男児を跡継ぎとして迎え入れることになった。
にわかには信じがたい話ではあるが、今から百五十年ほど前の承応のころに前例があるという。
むろん、龍次はこれを拒んだ。
そのころには丁稚として店にもなじみ、ぼつぼつ手代衆の下働きも手伝わせてもらえるようになっていた。
龍次にとっての父とは九重屋の主であり、そんな雲の上のお人が父などといきなり言われても理解を超えていた。なにより龍次自身がようやく商いの面白さに気づきはじめたのだ。
今さらなんだというのだ。
十二といえども大人に混じって仕事をしていれば、それくらいの反発はもっともであろう。
しかし、所司代の権限は絶大であった。
そもそも幕府内では老中に次ぐほどの重職であり、朝廷や公家の監察を中心に、京をはじめとする西国の総監督者でもある。宮家の中でも特に歴史の古い瑞穂宮を絶やさぬことは、所司代の最重要課題でもあったのだ。
所司代に目をつけられでもしたら、九重屋は伏見はおろか上方一帯では暖簾を掲げることすらできなくなる。
龍次は家のことを思い、やむなくひとり瑞穂宮へと入った。
そこで、初めて実の父と対面した。
親王はいまやご寝所から離れることもかなわず、伏せたままであられた。
龍次が御簾を上げおそば近くへ寄ると、やつれて骨が浮かんだ手を伸ばされ、溺れる間際の人のように必死につかまれた。くぼんだ眼窩には涙がたまっておられた。
──わたしの勝手で、おまえとおまえの母の人生を変えてしまい、本当にすまないと思う。無理を言ってこの家に来てもらい、おまえの顔を見れただけでも、わたしは満足だ。誰にも言えなかったが、生涯で愛したのはおまえの母ただひとり。そのおまえには、本当は自分の好きな道を歩んで欲しかった。この家の後継などは、気にしなくてよい。おまえはおまえの信じた人生を歩んで欲しい──。
長い時間をかけそう仰ると、親王は大きく息を吐かれ、満足げに眠りに入られた。
そしてまもなく、親王は薨去した。
複雑な心境だった。
本当に好きな道を歩んで欲しかったというが、ならばなぜ呼び寄せたのだ。
母のように口をつぐんだまま逝けば、自分は九重屋の息子のままだったのに。
気まぐれで追い出したり召し上げたりされるのは、迷惑でしかない。
龍次は葬儀の準備でひっくり返る屋敷内で、頼る者もなくひとり膝を抱えるしかなかった。
やがて滞りなく葬儀は終わり、当主の欠いた瑞穂宮では、一時的に篤成親王の弟宮が跡を継いだ。すぐに龍次を立てなかったのは、市井の出でいまだ宮廷社会に馴染んでいないゆえ、まずは一から叩きなおすべきであるということらしい。いずれ当主にふさわしいと判断できれば、正式に相続させる次第であった。
そうして、宮家の跡取りとしての教育がはじまった。
名を龍成と改められ、さまざまなしきたりや礼儀作法、各種学問を朝から晩まで叩き込まれ、とくに書はひときわ厳しく仕込まれた。瑞穂宮家は代々能書家を輩出し、歴代の皇族の書道指南役を務める家柄だったからだ。
ついこないだまで、店の使い走りやそろばんの練習をして、商いを通じて人と人とのつながりを学んできた龍次は、ここにきて正反対の伝統と学問を強要されることとなった。
市井の出、しかもやんちゃ盛りの子どもは宮家の人間にとって粗野に映るらしく、あからさまに白眼視された。一挙手一投足を監視され、あれが下々の出よと指差される。まさしく、針のむしろという状況であったという。
そんな彼の唯一の慰めが、次の年に自主的に出仕を願い出た、幼なじみの菊之介の存在だった。
彼は子どもながら、なかなか処世術に長けており、直情的で衝突しやすい龍次と宮家との間に立って、うまく操縦してくれた。
彼がいなければ、とっくに鴨川に飛び込んでいただろう、と龍次は言った。
やがて時は経ち、遅い元服をすませた龍次は、いよいよ正式に親王宣下を受けることとなった。
親王宣下とは、天皇から親王であるという宣言をいただき、新たな名を賜ることである。
宮家に生まれただけでは皇族とは認められず、相続権もない。名も「王」とつくのみだ。親王宣下を受けてはじめて、皇族の仲間入りとなり、跡目を継ぐことができた。
そうなれば、もはや猶予はない。
この八年、筆を取っていても和歌を詠んでも蹴鞠に興じていても、九重屋と商いのことは片時も忘れはしなかった。
自分はここで、何をしてきたのか。
ただ絵巻物の世界を忠実になぞるだけの日々。
商いのように、自らの手で何かを生み、育ててきた実感はまるでなかった。
何かを残したい。
自分にしか残せない、何かがあるはずなのだ。
焦燥感に焼かれ、あるとき暫定当主である叔父宮に、それとなく「このまま叔父ぎみが当主ではいけないか」と伺ってみた。
しかし、「たしかに問題はないが、それは血縁が途絶えたときのみ。庶子とはいえ正式な跡取りであるきみがいる以上、相続するのが世のならいであろう」という、にべもない返事が投げ返された。
この家は、自分でなくても問題はないのだ。
自分の居場所は、ここでなくてもいいはずなのだ。
なのに──。
しかし、そうこうしている内に無情にも時だけは経ってゆく。
参内の日取りも、内々にだが決定してしまった。
もう、あとはない。
いったん流れが決まってしまっては、どうすることもできないのだ。
龍次は、腹をくくった。
そんな折、家督を息子にゆずって隠居していた文左衛門から、ある密書が届いた。
文左衛門もまた、将来を楽しみにしていた孫を奪われ、失意の日々を過ごしていたのだ。
いよいよ跡目を継ぐという噂を菊之介経由で聞いたご隠居は、伏見と御所しか知らぬ不憫な孫に、せめてわずかなりとも自由な時間を与えるべく、ある大それた計画を立てた。
龍次は最初驚いたが、しかしたしかに今しかないのだ。
いったん当主の座におさまれば、あとは屋敷と御所を往復するだけの一生となる。
それならば──。
そうして、策を弄した。
まず、龍次とお供の菊之介は、ともに疱瘡を患い寝ついたことにする。
疱瘡はきわめて伝染力が強いため、屋敷はそれこそ上を下への大騒ぎとなった。
そこで文左衛門が「このままお屋敷におられれば、ほかにも広がってしまいかねません。つきましては病が落ち着くまで、九重屋にて養生させ給いたい」と願い出た。
宮家の人間はふたりのことを、口には出さねど内心では厄介者と見下げていたから、これ幸いにと九重屋に押し付けた。もちろん、疱瘡は嘘である。
こうして一時的に伏見に帰った龍次に、文左衛門は望む地へと旅に出るよう勧めたところ、彼は一度でいいから江戸へ行ってみたいと答えた。
そこで文左衛門は自身の所有する船を仕立て、偽装として酒を積み、あたかも商用と見せかけ江戸へ向かわせた。
正々堂々と東海道や中仙道を行くよりも、正体がばれる恐れが少ないと踏んだのである。
しかし半年近くが経過した今、九重屋はそろそろ所司代や諸太夫から病状についてうるさく言われているらしく、もはや隠し通すことは難しくなってきた。
しかたなく彼と菊之介は新酒を運んできた空の船にまた乗り込み、京へと帰らねばならなくなったのである。




