二話
なよ竹は、物思いにふけっていた。
座敷の馬鹿騒ぎも、芸者の三味線の音も、幇間のお追従も、右から左へと通り抜けるだけで、なにも記憶に留めなかった。思い返すのは、今日の道中のことだった。
視線を浴びるのはいつものこと。だが今日はひときわ粘りつくような、検分するような強い視線を感じたのだ。あれはいったい……。
と、そこで、今夜の客がしきりにようすをうかがってきた。
「どうした、ぼんやりして。気分でも悪いのか? あまり食が進んでいないようだな、鮨でも取ろうか?」
下からのぞき込むようにしてくるこの男は、月野屋という蔵前の札差の総領息子である朔太郎だ。色白の顔に小刀で切れ目を入れたような目がふたつ、それがきょときょととせわしなく動いていた。
なよ竹は、
「別に。どうもしんせん」
とそっけなく顔を背け、番頭新造の薫に目配せをした。
百戦錬磨の薫は、花魁が遊興にいいかげん飽き飽きしているのを敏感に察知し、陽気な声で宴の締めを促した。台の物が片付けられる合間に、引手茶屋の駿河屋の女房がそばへ寄り、
「おいらんもたいへんでござりますね。振られっぱなしなのに、まあめげないこと」
と、侮蔑を添えた笑い声を耳元へ吹き込んでくるのを、なよ竹はあいまいに返事をしつつ、皆を追い出していった。本当は、このまま朝まで遊興が続いて欲しかったのだが、そんなわけにはいかない。
やがて誰もいなくなった座敷に取り残されたなよ竹は、小さくため息をついた。
そのため息にかぶさるように、本間から甲高い音が聞こえた。
呼ばれている。なよ竹は意を決して本間へのふすまを開けた。
そこにはすでに豪奢な三つ重ねの布団が敷かれ、その端に朔太郎が腰を下ろして煙管の雁首で煙草盆を叩いていた。
「せっかく来てやったのに、ごあいさつだな」
新しい煙草を詰めながら、朔太郎は笑った。
息を漏らすような独特の笑い方、本人は気づいていないだろうが、すでに癖になっている。さっきまでのおどおどしたようすはどこへやら、なんとも尊大な口ぶりだ。
なよ竹が畳に座するのを待ち、彼は口を開いた。
「やれやれ、馬鹿息子を演じるのはたいがいだ。俺だって辛いんだぜ、なあおいらんよ。ところで、うまい話はあるんだろうな?」
「……石上亭に、最近出入りしているお大名が……」
なよ竹は視線を落とし畳のへりを指で何度もなぞりながら、ぼそぼそと報告した。
いつも彼の座敷で取るような毅然とした態度ではなく、その声は首根っこをつかまれた仔猫のように弱々しく、哀れだった。
すべて言い終わるか終わらないかのうちに、とつぜん手をつかまれ、驚くまもなく布団の上に引きずり上げられる。やわらかな緋縮緬に身体が沈み、ばたついているとその上から朔太郎がのしかかってきた。
朔太郎の顔を間近に見るのは、これが初めてではない。
だが、いつ見ても背筋に薄ら寒いものが走る。顔立ちそのものは決して悪くなく、むしろ当世風の洒脱な身なりと相まって、それなりに見られる容姿ではあるのだ。こんなふうに寒気を覚えるのは、彼の身の内から湧き出る悪辣な性格ゆえなのだろうか。
酒くさい息とともに、耳許にささやきかけられる。
「この調子でこれからも上手くやっていけよ。そうすれば、身請けって形でお前を娶ってここから出してやる。いいな? なよ竹……いや、お小夜」
「……はい、若旦那」
目が合わせられない。肩をすくめて身をかたくしていると、小袖の合わせを強引に開かれた。
「どうせ、末は夫婦になるんだ。ちょっとくらいいいだろうが」
「やめて……おやめ下さい! どうか、無体なことは……」
「なにが無体だ、おめえは俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ!」
どうにか身体をねじって腕の下からすり抜け、布団から転げ降りた。
乱れた合わせを直しつつ、なよ竹はきっぱりと言い放った。
「今は確かに遊女の身。しかし、名実ともに朔太郎さまの伴侶となるまでは、小夜は清い身体でいねばなりませぬ」
毅然とした言いように、朔太郎は顔をゆがめて舌打ちした。
興が殺がれたのか、のっそりと起き上がる。
「なら名代を立てるしかねえな。おい、呼んでこいよ」
「……しかし、あの妓は……」
「姉女郎が相手しねえんだろ、じゃあ新造に名代立てさせんのが道理じゃねえか。とっとと呼べってんだ!」
だんだんと声高になる朔太郎の叫びを聞きつけたのか、それとも毎度のことなのであらかじめ控えておいたのか、下がらせたはずの振袖新造の卯花がふすまの外から声をかけてきた。
「姐さん、わっちは平気でおぜえす」
「でも……」
卯花は同い年の十六歳で、なよ竹が花魁になると同時に新造になったので、付いて半年ほどになる。 もとは朋輩だったのだがなよ竹の方が抜きん出て、先に一本ちしたのである。
いわゆる幼なじみというやつで、楼主と内儀以外で唯一、なよ竹の正体を知っている人間だった。
卯花は歳よりも幼く見えるまるい目をしばたかせ、すこし笑って廓言葉を崩した。
「大丈夫だから、お内儀さんのとこへ行っといでよ。ここはあたしにまかせて、ほら」
「お咲ちゃん、ごめんね……」
卯花の本名をつぶやくと、そっと座敷を抜けた。
ふすまを閉めるときに肩越しにちらりと、朔太郎が夜具の上で帯を解いている姿が目に入る。これから卯花が合う目を思い、なよ竹はぐっと唇をかんだ。
引け過ぎの廊下には、ほとんど人はいなかった。
あちこちの部屋から笑い声や嬌声が漏れ聞こえるだけだ。階段を降り、階下の内所へと向かう。
内所ではこの讃岐屋の内儀が、火鉢に肘をついて煙管片手にぼんやりとしている。考えごとをしているようだった。 なよ竹の姿を認めると、内儀は煙管を置き、そばにいた禿に茶を入れさせた。
「また卯花が名代かい。あの方にもほんとうに困ったものだ。様子見の名目でしょっちゅういらしては、ただで飲み食いしていかれるんだものねえ。おまけに、名代の新造にまでお手をつけなさる」
禿を遠ざけ、大げさなため息とともに、内儀は熱い茶をすする。
振袖新造は見習い遊女なので、本来なら客は取らない。姉女郎に客が重なった時などに名代として話し相手はするが、同衾することはない。それが吉原のしきたりなのだが、朔太郎は横紙破りで廓の者を悩ませた。そのくせ、世間体では花魁には甘く気のいい若旦那を演じているのだから、始末に置けない。
「しかし、いやとは言えないわな……。お前もつらかろうて、なよ竹」
「わっちはかまいんせん。これも勤めでありんしょう。ただ、卯花に面目が立ちんせんのが、いっち気がかりでおす」
しゃっきりと背筋をのばすなよ竹に、内儀はふと口元を緩めた。
「昨今おまえくらい芯の通った遊女はいないよ。気に入らない客と寝ないのを身上とするなら、それもまたいいだろう。お客さま方ァおまえの意気と張りを買いに来なさるんだから、誰になんと言われても筋は通すんだよ」
「おありがとうござんす、お内儀さん」
手のひらでくるんだ湯呑みの熱のように、その言葉は胸にしみこんだ。
お茶を半分ばかしいただいた後、なよ竹はおもむろに立ち上がり、
「ちょいと行ってまいりんす」
と、内所を出ようとした。
この言葉の意味するところを知る内儀は、もう遅いのだから重々気をつけて、とだけ声をかけてきた。
最初は反対されたが、このごろではもう慣れっこになってしまったらしい。なよ竹が一度言いだしたらてこでも動かない気質なのを、よく知っているからでもあるだろう。軽くうなずき、なよ竹は布団部屋へと急いだ。
この中の長持に、ひそかに古着を入れているのだ。たまにこうして夜が更けたころ、地味ななりに着替えてこっそりと抜け出すのが、なよ竹は好きだった。
手早く着替え、満艦飾に飾っている櫛と簪の数を減らし、裏口からそうっと出た。
昼間は暑いくらいでも、夜ともなればまだまだ冷える。
なよ竹は手をこすりこすり、人気の少ない通りを駆けていった。