十九話
なよ竹がこの寮に来てから、半月が経つ。世間では、すっかり秋も深まっていた。
このころになると、完全に床払いはできぬものの、ときおり庭を散歩する程度まで回復した。
見上げる空は高く、頭の先から吸い込まれてしまいそうな心持ちになる。
生まれてこのかた、四角く切り取られた廓の空しか見たことがない。空がこんなに青く高いものだと、なよ竹ははじめて知った。
そんなある夜、来客があった。
折りしもその日は住み込みで世話をしてくれている老婆が、親戚筋の葬儀だかで一晩空けており、なよ竹はただひとり寮にいた。
そろそろと玄関へ応対に出ると、三和土に立っていたのは誰であろう龍次だった。
なよ竹と龍次は縁側に出た。
出てはじめて、なよ竹は今日が仲秋だと気づいた。月はまるくぽっかりと夜空を切り取り、辺りに真昼のごとき光を照らしている。
秋の夜は冴え冴えと冷え、龍次はなよ竹の身体を気遣ったが、こんな月のきれいな晩に奥に引っ込んでいるのはもったいない。
ふたりは茶を入れた盆をはさんで並んで座った。
「もう起きて平気なのか?」
しばらく庭を見ていた龍次が、たずねてきた。
なよ竹の、寝間着に下げ髪という病床姿を見て心配になったらしい。
「うん。もう傷もふさがったし、とりあえずは大丈夫。あんたこそ菊さまはどうしたのよ」
「置いてきた」
短く言うと、龍次はそれきり黙った。
あたりは、鈴虫の音で満たされる。
なよ竹は、ずっと心に残していた言葉を口にした。
「……助けてくれて、ありがとうね。あのときあんたが来てくれなきゃ、あたしはきっと死んでた」
今から思うと、彼が助けに来てくれたのは奇跡のようだ。
そのことだけを胸に、なよ竹はこの半月を過ごしていた。
会いに来てくれるなんて、思ってもみなかった。
「いいさ。最後に一目会ってあいさつでもと思ってたんだが、とんだお別れになっちまったな」
小さく笑う龍次に、なよ竹は息が詰まる。
「来月早々、新酒番船が到着する。その船に乗って帰ることになったんだ」
彼は、本当にお別れを言いに来たんだ。
京に、帰ってしまうんだ。
隣に座る龍次の横顔を盗み見る。
精悍な顔立ちは月光のせいでやや蒼白く、眉下によりくっきりと影が浮き出ていた。
ああ、あたしはこの男を愛しく思っている。
この男を、離したくない。
たとえ嫌われても、疎まれても。
なにもしないでみすみす離れるよりは、いっそ──。
なよ竹は意を決し、呼びかけた。
「ねえ、龍次……」
「うん?」
「あたしを……」
一息おく。
なんどか呼吸を整えてから、ふたたび唇を開いた。
「あたしを、連れて行って」
我ながら驚くほど、しっかりした声だった。一度嚥下し、今度は一気にまくし立てる。
今までのことを、洗いざらい全て話してしまいたかった。
自分は札差の養女であること、朔太郎はもとは許婚であったこと、彼とその家の奸計に陥りあやうく殺されかけたこと、楼主夫妻と御坊の一計で遊女なよ竹は死んだことになり、今はただの商家の娘であること……。
全て話し終えるころには、すでに宵五ツの鐘が鳴り響いていた。
久々に長話をしたなよ竹はすこし疲れたが、最後にどうしても言いたいことがあった。
これまでずっと、おのれの矜持がじゃまをして口に出来なかったこと。
「あたしは、もう遊女じゃない。身請け金もいらないし、誰にも咎められやしない。身ひとつであんたについていきたいのよ」
それまでずっと黙って話を聞いていた龍次は、視線を庭石に落としたまま言った。
「それは……できない。そうしたいのはやまやまだが、俺はおまえを連れて行けないんだ」
「どうして……」
京に言い交わした娘を残してきたのか。
お店の内儀には、廓上がりがふさわしくないのか。
あたしを、厭うのか。
だが龍次の答えは、どれも違うと首を横に振るばかり。
では、なぜなのだ。
なよ竹の問いに、長いこと無言だった龍次は、独り言のようにつぶやいた。
「……おまえには、伏せたままで去りたかった」
龍次はいったん目を閉じた。
次にまぶたを開いたとき、彼の目には今まで見たことがないような光が宿っていた。
「俺の今の名前は、龍次じゃねえ。今は……龍成王ってんだ」
なにを言われるのかと身構えていたなよ竹は、少々拍子抜けした。まさかここで名前を訂正されるとは思わなかったからだ。
「たつしげ……おう?」
やけに仰々しい名前であるが、それよりも最後についた『王』の意味がわかりかねた。
眉を寄せるなよ竹に、龍次は苦笑する。
「まあ、ピンとこなくても仕方ねえよな。……昔話、聞いてくれるか?」




