表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/27

十九話

 なよ竹がこの寮に来てから、半月が経つ。世間では、すっかり秋も深まっていた。

 このころになると、完全に床払いはできぬものの、ときおり庭を散歩する程度まで回復した。

 見上げる空は高く、頭の先から吸い込まれてしまいそうな心持ちになる。

 生まれてこのかた、四角く切り取られた廓の空しか見たことがない。空がこんなに青く高いものだと、なよ竹ははじめて知った。

 そんなある夜、来客があった。

 折りしもその日は住み込みで世話をしてくれている老婆が、親戚筋の葬儀だかで一晩空けており、なよ竹はただひとり寮にいた。

 そろそろと玄関へ応対に出ると、三和土に立っていたのは誰であろう龍次だった。




 なよ竹と龍次は縁側に出た。

 出てはじめて、なよ竹は今日が仲秋だと気づいた。月はまるくぽっかりと夜空を切り取り、辺りに真昼のごとき光を照らしている。

 秋の夜は冴え冴えと冷え、龍次はなよ竹の身体を気遣ったが、こんな月のきれいな晩に奥に引っ込んでいるのはもったいない。

 ふたりは茶を入れた盆をはさんで並んで座った。

「もう起きて平気なのか?」

 しばらく庭を見ていた龍次が、たずねてきた。

 なよ竹の、寝間着に下げ髪という病床姿を見て心配になったらしい。

「うん。もう傷もふさがったし、とりあえずは大丈夫。あんたこそ菊さまはどうしたのよ」

「置いてきた」

 短く言うと、龍次はそれきり黙った。

 あたりは、鈴虫の音で満たされる。

 なよ竹は、ずっと心に残していた言葉を口にした。

「……助けてくれて、ありがとうね。あのときあんたが来てくれなきゃ、あたしはきっと死んでた」

 今から思うと、彼が助けに来てくれたのは奇跡のようだ。

 そのことだけを胸に、なよ竹はこの半月を過ごしていた。

 会いに来てくれるなんて、思ってもみなかった。

「いいさ。最後に一目会ってあいさつでもと思ってたんだが、とんだお別れになっちまったな」

 小さく笑う龍次に、なよ竹は息が詰まる。

「来月早々、新酒番船が到着する。その船に乗って帰ることになったんだ」

 彼は、本当にお別れを言いに来たんだ。

 京に、帰ってしまうんだ。

 隣に座る龍次の横顔を盗み見る。

 精悍な顔立ちは月光のせいでやや蒼白く、眉下によりくっきりと影が浮き出ていた。

 ああ、あたしはこの男を愛しく思っている。

 この男を、離したくない。

 たとえ嫌われても、疎まれても。

 なにもしないでみすみす離れるよりは、いっそ──。

 なよ竹は意を決し、呼びかけた。

「ねえ、龍次……」

「うん?」

「あたしを……」

 一息おく。

 なんどか呼吸を整えてから、ふたたび唇を開いた。

「あたしを、連れて行って」

 我ながら驚くほど、しっかりした声だった。一度嚥下し、今度は一気にまくし立てる。

 今までのことを、洗いざらい全て話してしまいたかった。

 自分は札差の養女であること、朔太郎はもとは許婚であったこと、彼とその家の奸計に陥りあやうく殺されかけたこと、楼主夫妻と御坊の一計で遊女なよ竹は死んだことになり、今はただの商家の娘であること……。

 全て話し終えるころには、すでに宵五ツの鐘が鳴り響いていた。

 久々に長話をしたなよ竹はすこし疲れたが、最後にどうしても言いたいことがあった。

 これまでずっと、おのれの矜持がじゃまをして口に出来なかったこと。

「あたしは、もう遊女じゃない。身請け金もいらないし、誰にも咎められやしない。身ひとつであんたについていきたいのよ」

 それまでずっと黙って話を聞いていた龍次は、視線を庭石に落としたまま言った。

「それは……できない。そうしたいのはやまやまだが、俺はおまえを連れて行けないんだ」

「どうして……」

 京に言い交わした娘を残してきたのか。

 お店の内儀には、廓上がりがふさわしくないのか。

 あたしを、厭うのか。

 だが龍次の答えは、どれも違うと首を横に振るばかり。

 では、なぜなのだ。

 なよ竹の問いに、長いこと無言だった龍次は、独り言のようにつぶやいた。

「……おまえには、伏せたままで去りたかった」

 龍次はいったん目を閉じた。

 次にまぶたを開いたとき、彼の目には今まで見たことがないような光が宿っていた。

「俺の今の名前は、龍次じゃねえ。今は……龍成王ってんだ」

 なにを言われるのかと身構えていたなよ竹は、少々拍子抜けした。まさかここで名前を訂正されるとは思わなかったからだ。

「たつしげ……おう?」

 やけに仰々しい名前であるが、それよりも最後についた『王』の意味がわかりかねた。

 眉を寄せるなよ竹に、龍次は苦笑する。

「まあ、ピンとこなくても仕方ねえよな。……昔話、聞いてくれるか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ