十八話
どこからか、鳥のさえずりが聞こえる。優しく、清涼な響き。
なよ竹はゆっくりと目を開けた。何度かまばたきをすると、ようやく視界がはっきりしだした。
まず飛び込んできたのは、見慣れない天井。
どこだろう、ここは。
「おおなよ竹、気がついたかい」
傍らから声が聞こえ、なよ竹はそちらへ顔を向けた。
とたん、肩に激痛が走り顔をゆがめた。
「無理をしなくていいよ。おまえは大怪我をしているんだから」
額に手を置かれ、讃岐屋の楼主とお内儀の頭がのぞきこんできた。
「ここは……」
「箕輪の寮だよ。安心おし、ここにはおまえを害するものなんぞいないからね」
内儀の声は、涙を含んでいる。見ると、袂で目頭を押さえていた。
寮とは、全盛の遊女が病気をしたり妊娠したときに療養するための別荘である。吉原よりやや北へ上がった、田んぼのど真ん中の箕輪にあり、ここへ来たのは初めてだった。
「こんなことになるなんて……。ほんとうにおまえには可哀想なことをした」
楼主もぐしぐしと鼻をすすっている。
なよ竹は唇を開き、一句一句押し出すように問いかけた。
「わっちは、どうやってここへ来んした?」
「おまえは、朔太郎さまに危うく殺されそうになったんだよ。それを、九重屋の若旦那さんがたが助けて下すった。あの従者のなりをしてらっしたのが、本当の若旦那さんだそうだね。あたしらはそれ聞いて平伏したもんだ、知らぬとは言えなんのおもてなしもしなかったからさあ」
とうとうばれたらしい。なよ竹は微笑んだあと、たずねた。
「みなは……朔太郎さまや卯花は、どうしなんしたか?」
ふたりは顔を見合わせ、言おうかどうしようか迷っているようすである。促すと、内儀が話してくれた。
「朔太郎さまにね、最近縁談が舞い込んだそうなんだよ。それがまたどえらい金持ちのお嬢さんらしくてね、月野屋の身代はあと三代くらい保障されるってくらいの良縁だったんだって。そうなると今度は、とくに持参金もないおまえとの婚約は障りとなる。そこで月野屋の旦那さまは目の上のたんこぶになっちまったおまえを、どうにかして始末しようと考えたんだ。けど一方的に婚約破棄してしまうと、今まで間者をさせていたことを言いふらされでもしたらやっかいだし、おまえに間夫ができたことも、なにか吹き込んでやしないかと気がかりだったらしくてね、旦那さまと朔太郎さまは頭を悩ませたそうだ」
皐月から文月にかけて、しばらく朔太郎が登楼しなかったのは、この問題を父親と話し合っていたからだったらしい。
内儀はそこまで話すと、いったん茶を飲んで一息ついてから、続けた。
「そこで心中に見せかけ、おまえを亡き者にしようとするとんでもない策に出たのさ。おまえに間夫がいることも周知の事実だから、それを利用して自分がおまえを身請けするという噂を流しておけば、身請けいやさ間夫恋しさの心中に見せかけられ、もしかしたらなにか聞かされていたかもしれない間夫も口封じできて、ついでに自分は花魁に死なれた被害者のふりが出来るって寸法だ。そうすれば誰も朔太郎さまを疑う者はいないだろう? 吉原雀が格好の証人だ」
なよ竹は傷に障らぬよう、小さく息をはいた。
身請けの話が出ていたことは、吉原中の誰もが耳にしていたが讃岐屋では誰も知らなかった。讃岐屋に流れる前に、巧妙に堰き止められていたのだ。唯一、噂話を耳にした雲路だけが知っていたことになる。雲路自身はやっかみで龍次を焚きつけたのだが、それが結果的になよ竹の命を救うきっかけとなった。
雲路にはいちおう感謝しないといけないだろう。たとえ本人がそんなつもりじゃなかったとしても、だ。
「それにしても、いったい人をなんだと思ってるんだろうな、あの親子は」
楼主がいまいましげな口調で言った。
「さんざんなよ竹を利用して甘い汁を吸ったあげく、もっといい金づるが見つかったらぼろ雑巾みたく捨てるってか。性根がとことん腐ってるよ。亡八と呼ばれるあたしのがまだ情があるってなもんだ」
亡八とは遊女屋の亭主のことで、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を忘れなければ、女を売り買いする職業が勤まらないという意味だ。
なよ竹は目を閉じた。
あたしは、いつか月野屋に帰るつもりでいた。迎えに来てもらうために、辛い苦界勤めを果たしてきた。
だけど突き詰めて言えば、あたしも月野屋を逃げ道にしていたんだ。
自分は清い身のままだから、ほかの女郎と違って泥水を飲んでいないから、由緒正しい商家の娘なんだから。
そんな態度がおのずと出て、卯花に不快な思いをさせていたのかも知れない。
そこまで考えてふと、卯花のことを思い出したずねると、楼主は苦々しい顔をして答えた。
「あの妓はね……。名代を受けるあいだに朔太郎と通じてたのさ。朔太郎は縁談のことを伏せた上、じゃまなおまえを首尾よく始末すれば身請けしてやると卯花をそそのかし、片棒を担がせなすった。すっかり舞い上がったあの妓は、まんまと乗せられたのさ」
「そんな……。じゃあ、お咲ちゃんは……」
「羅生門河岸に鞍替えだよ。殺人の手助けをしようとしたんだし、ほかの見世や女郎への示しもある。お上のお達しだけどね、まだましな方さ、本来なら首をはねられたっておかしくないんだから」
あの妓にも可哀想なことをした、と楼主はため息をついた。
卯花もまた、男の身勝手に翻弄されたひとりなのだ。
本気で惚れたが負け。
まことを信じたが負け。
吉原とは、なんと非情なところなのだろう。
なよ竹は唇を噛んだ。
けっきょく、月野屋の当主は下手人(斬首)、息子は遠島、身上は没収となり、郎党すべて離散という沙汰が出たという。讃岐屋の楼主は監督不行届きということで、お叱りを受けたのみだった。
「斬首に遠島ですか……。あたしは生きてるのに、罪が重すぎやしませんか」
なよ竹はたずねた。
別に同情しているわけではなく、純粋に疑問に思ったのだ。殺人教唆は下手人、指示を受けて実際に殺人を犯した者は遠島と定められているが、未遂となるとまた違ってくる。
するとふたりは顔を見合わせた。内儀が臥せたなよ竹の髪を撫でる。
「実はね、月野屋のふたりはおまえが葛城屋の養女で許婚だってことはひとっつも吐かなかった。ただ馴染みの遊女だとしか言わなかったさ。朔太郎さまは一転して『性悪な女郎に、金をよこさねば縁談先に吉原狂いをばらしてやると強請られてて、思い余って父親と謀って殺そうとした』とお上に陳情したんだ」
「なぜそんなことを……」
「まあお聞き。そりゃあ、正式な証文もなく商家の娘を無理やり女郎奉公させて、あげく間者まがいのことをさせていたなんて知れたら、よけい立場が悪くなるだろう。下手すりゃ拐わかしの罪に問われるかもしれない。だから当人のおまえが臥せっていて反論できないのをいいことに悪人に仕立て、自分たちに有利な嘘をでっち上げて情状酌量を狙ったんだろうよ。だけど……」
内儀はふんと鼻息をはき、続けた。
「あたしたちは月野屋の言い分を認めて、おまえはみなしごの遊女ってことにした。その代わり、傷ついたおまえを担ぎ込んだ浄閑寺の御坊と相談して、介抱むなしく息を引き取ったと訴え出たのさ」
「えっ!?」
なよ竹は驚いて、身を起こしかけた。とたんに痛みが走り、やむなくもう一度横になる。
そんななよ竹をふたりは優しく見下ろし、噛んで含めるように言った。
「御坊もおまえにいたく同情して下さって、口裏を合わせてくれてね。だから月野屋のふたりは人殺しの咎になり、けっきょくはより重い刑になったってわけだ。実際、おまえは息も絶え絶えで生死の境をさまよってたから、誰もおまえの死を疑う者なぞいない。『遊女なよ竹』は死んだんだ」
死んだ。
吉原の申し子・なよ竹花魁が死んだ。
じゃあ、今ここにいるあたしは?
あたしは──。
「おまえは、もう遊女じゃない。ここにいるのは、ただの娘だ。おまえは、自由の身なんだよ」
内儀の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。




