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一話

 世界の男、貴なるも賤しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、をとに聞きめでゝ、惑ふ。

──『竹取物語』



 時は江戸も半ばをだいぶ過ぎ、天下は太平、吉原が庶民にも手の届く存在になってきたころ。

 数少ない大見世(みせ)の看板遊女が、今まさに茶屋に向かうところであった。

 普段なら高嶺の花であるその人を、一目拝もうとする群集で、仲の町は押すな押すなの大騒ぎだ。

「お……、見ろよ。讃岐屋のなよ竹だ」

「あれが噂の傾城かね、まだほんの小娘じゃアないか」

「しかしあの流し目に、並いるお大尽が落ちたって話だ」

 江戸町一丁目・讃岐屋善蔵抱えの新造付き呼出よびだし・なよ竹は、花も恥じらう当年取っての十六歳。今もっとも吉原雀を騒がせる、五丁きっての花魁だ。男たちの好奇の視線を毛ほども感じぬのか、なよ竹はあくまでゆったりと八文字を描く。

 横兵庫も艶やかな黒髪にはおびただしい数の櫛簪が後光のように飾られ、うっすらと紅をさした涼しげな目許、富士の万年雪よりもしろい肌は大胆に衣紋が抜かれ、うなじが匂い立つよう。寒椿の唇はわずかに笑みをたたえている。金糸で鶯を刺繍した仕掛しかけは、目もくらむような絢爛さ。

 今をときめく絵師たちが、こぞって絵筆を取りたがるというのも詮なきこと。

  まったく、一目見て忘れられぬほどの美貌を持っていた。

 加えてなよ竹は、茶道や舞などの芸事や、和歌や書など教養の高さでも群を抜いていた。初期では格式の高かった高級遊女も、江戸末期近くなるとずいぶんと敷居が低くなってしまっていた。

 そんな中、武家の妻女にも劣らぬ才気ぶりと器量を誇るなよ竹は、いまや往年の名妓と名高い高尾太夫を凌ぐまでの評判を取り、文字通り吉原の頂点たる花魁の座に君臨していた。

 しかし、彼女にはもうひとつ、人の噂になることがあった。




 そのなよ竹にぞっこん惚れて、通い詰める男が五人。

 いずれも自らを色男だと信じて止まぬ。

 豪商や諸国大名相手の高級食器を扱う、石作屋のあるじ。

 蓬莱という名の妙薬で一躍有名になった薬問屋・車持堂の総領息子。

 老舗の呉服屋・阿倍屋の次男坊。

 五百石の旗本・大伴納右衛門。

 海鮮料理を誇る超高級料亭・石上亭の道楽息子。

 いずれ劣らぬ江戸での評判の金持ちぞろい、伊達男ぞろい。彼らは、我こそはなよ竹の心をつかまんと息巻いて、せっせと通い、金を落とした。

 当のなよ竹はにっこり笑うて「主さんだけでありんすよ」と酌はしてくれる。

  しかし……。

 その先は、ないのだ。

 なよ竹は、これまでどんな客にも肌を許したことはなかった。




 一度、五人衆が馴染みになる前──まだ遊女になりたてで、さほどの名声もなかった頃だ──に、彼女を買うたお侍がいた。

 いかにも田舎侍然とした野暮天らしく無粋に迫るも、なかなか身をまかせぬなよ竹にとうとう怒髪天をつき、大声で怒鳴り散らした。

 襖をびりびりいわす怒号を前に、なよ竹は終始無言であったが、

「俺は金を出して手前を買うてやったのだ。黙って言うことを聞けばよいものを、たかが女郎がいっぱしの口を叩くなど、笑止千万!」

という暴言に、いきなりすっくと立ち上がり、痛烈な啖呵を浴びせた。

「わっちゃア、男の中の男と見込んだ方だけに、帯を解きとうおす。ぬしみたいに金と力に物を言わせるような浅黄裏あさぎうらにゃあ、とうていこの身ィまかせはできんすわいな。さァさァ帰ってくんなんし!!」

 あまりの威勢のよさに、侍は逃げるように妓楼を後にしたという。

 まだ十五そこそこの新米遊女が、お武家さまを突っぱねたという話題は、たちまち江戸中を駆け抜け、その時よりなよ竹は押しも押されぬ人気女郎となったのだ。

 もともと気風のよさで鳴らした江戸っ子たちには、昨今珍しくなった意気と張りを持ったなよ竹に、強い憧れと共感を抱いたのだ。

 こうして生娘にも関わらず、江戸中の実力者たちがこぞって登楼するようになった。

 だが、未だ彼女とねんごろになった男はおらぬ。どれほど通うても、どれほど口説いても、なよ竹は酒の相手以上にはならなかった。しかしむしろ、そのつれなさがいっそう高嶺の花然としており、男たちの独占欲をくすぐるのだ。

 それは、金を持った男だけではない。

  その日暮らしの職人やら奉公人にすら、甘い想像を抱かせる。

 あのなよ竹を陥落させるのは、どんな男だろう。お武家さまか、豪商か、はたまた将軍さまか。まさか天子さまではあるまいに。

 いやいや、金の力ではない。機会さえあれば、自分だって……。

 そうやって、かなわぬとは知りながら、なよ竹と寝る幻のような夢を見るのだ。




 皐月(現在の六月頃)に入りたてともなると、むし暑さに辟易する。

 そろそろ一雨欲しいと思う、そんなある日。

「なあなよ竹よ。俺がそんなに嫌いか?」

 のっぺりとした顔の男が、情けない声を出した。ところどころにきびのある色白の顔は、豆大福のようだ。豆大福は石上亭のどら息子・燕之助である。

「そのようなこと、ありんせん」

 鈴を転がすような美声でころころと笑い、手にした銚子を傾けて男の手にある猪口へと酒を注いだ。伏見から取り寄せた最高級品で、これだけで目をむくような金額になるだろう。

「わっちは、燕さまへの真心に報いとうおす。ただ……」

「ただ、何だ」

 ちらりと、なよ竹が上目を遣った。男の喉仏が上下するのを認めてから、続ける。

「燕さまが出し抜いたとあらば、他の方々があらぬ行いに出やしないかと、心配で……」

 その言葉を最後まで聞かぬうちに、燕之助は細い目をさらに細めてやに下がった。

「俺の身を心配してくれるのか。かわゆいのう」

「それでなくても、最近いろいろ物騒と聞き及びんすし」

「そうだのう。俺のまわりでも、妙な話を聞くでなあ」

 なよ竹は膳から、ひらめの造りをちょいと取り、燕之助の口許へと持っていった。

「妙な話とは、どのようなことでおざんすか?」

 別に聞かなくてもいいけど、一応聞いてみただけといった、色のない声でなよ竹は訊ねた。だがその目には、媚態とはまた別の光が宿っている。

  燕之助は、なよ竹の興味を引いたことに自信をつけ、いっそう舌の回転を速めた。

「うちにも出入りのある酒問屋なのだがね、この季節外れに上方から船がついたそうでな。よその店を出し抜こうって算段かねえ。江戸きっての大店だってのに、いやらしい真似をするもんだ」

 通常、上方から江戸へ送られる新酒は秋口に到着するものであり、それが一種の風物詩ともなっている。春も過ぎたこの時期に到着とは、たしかに変わっている。

 しかしなよ竹はそれにはさほど反応せず、持ち上げつつも話題を変えてみた。

「まっこと、燕さまは商いの道理が分かってらっしゃるわいな。さぞかしお店は繁盛なさっていなんすかえ?」 

「いやはや、最近はとあるお大名さまに贔屓にしていただいてな。俺も鼻が高いってなもんだ」

 己の手柄でもないのにふんぞり返る道楽息子に、なよ竹は艶をふくんだ流し目をくれた。

「燕さまは、ほんに将来が楽しみでおすねェ。燕さまのお内儀さんになられる方はホンニお仕合しあわせ。わっちゃあうらやましゅうて……」

「おうおう、俺はまだ嫁なんぞもらわんから安心しろ。親父はいろいろうるさいが、おまえだけだからな」

 男は今や、豆大福どころか、溶けかけた氷柱のごときだらしなさだ。

 そうして、なよ竹にせがまれるまま『とあるお大名さま』の実名を明かし、遊興のさまやら密談の内容までもをべらべらとしゃべりたて、やがて酒が回ったころ三段重ねの夜具へともぐり込み、雷鳴のごときいびきをかきはじめた。

 そのざまを、なよ竹は冷ややかな目で見下ろしていた。

「……よく言うよ、このごくつぶしが」

 この男も、そろそろ潮時だ。

 先日も内密の使者が、滞った支払いの相談に来たところである。いかに石上亭が金満であろうとも、若旦那の道楽で、稼いだ金を廓につぎ込まれてはたまらないだろう。親父殿が勘当ものだと激怒しているという。

 近いうち、妓楼から登楼禁止を言い渡されるのは間違いない。

 廓にしてみれば、彼はもう中身のない財布のようなものなのだ。来てもらったところでありがたくもなんともない。

 なよ竹は布団の脇を回りこみ、窓際の欄干に肘をかけてひとつため息をついた。

 彼はたしかにお仕合せだ。

 帰る家もあるし、家族も心配してくれる。

 なよ竹は窓の外を見上げた。

 今宵は新月、ほとんど月は見えない。

 もう一度、今度は深く嘆息し、なよ竹はつぶやいた。

「……帰りたい……」

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