第二話 ある日の日常
遡ること約8時間前。
現在時刻、午前10時半。
僕は遅めの朝食を取った後、自邸の庭先で食後の紅茶を楽しみながら読書に勤しんでいた。
麗らかな春の日差しに包まれ、新緑の木々が運ぶ爽やかな風を感じていると実に清々しい気分になれる。
それに良く手入れの行き届いた庭園には色とりどり花が瑞々しい花弁を広げながら揺れており、その甘い香りに誘われた煌びやかな蝶たちと楽しそうに戯れていた。その賑やかな様子を眺めているだけでも、自然と心が浮き立ってくる。やはり春の陽気とゆうのはこちらの気分も高揚させてくれるようだ。
「ヒャッハアアー!! 昆虫祭りだぜええー!!」
「………………。」
高揚しすぎて頭が湧いてしまった男が、虫取り網を片手に僕の前を通り過ぎていった。せっかく良い感じで自分の世界に浸っていたのに、あいつのせいで全てが台無しだ。
日に焼けることなど全く気にしていない虫取り少年は、タンクトップに短パンとゆういかにもな恰好で、楽しそうにちょうちょを追い掛け回している。それはもう無邪気な笑顔を浮かべて。
やつの名前は九条 唯月。
知らない人が見れば身長が高めの小学生にしか見えないが、つい最近中学を卒業したばかりの立派な15歳。正直自分でも認めたくはないけど、あれは僕の双子の兄だ。
見ての通り頭の方はあんまり芳しくないが、身体能力はズバ抜けていて、同年代の中でも異様なほどに突出していた。しかも武道を嗜んでいてやたらと腕が立つので余計にタチが悪い。
まさに『馬鹿に刃物』状態とゆうやつだ、まあ理不尽な暴力を振るうことは滅多にないのだが。
「よっし!! 全部まとめて狩り尽くしてやる!! てめえら覚悟しやがれ!!」
唯月は昆虫相手に理不尽な宣言をしながら、多種多様な花々が咲き誇る花壇の中へ飛び込んでいく。
あいつ…ちょうちょに気を取られてあそこが花壇だってことに気づいてないな…。
今は花壇の縁際にいるから辛うじて助かっているが、あれではいつ被害が出てもおかしくない。見ているこっちが冷や冷やしてくるような現状だ。
「ぼ、坊ちゃま!! 気をつけてくださいよ!!」
僕と同様に花のことを心配した庭師の源三さん(63歳、独身)が、戦々恐々とした様子で唯月に注意を促している。
「心配すんな!! 俺はこんな脆弱な昆虫にやられたりしねえ!!」
それに対して唯月は訳のわからない返事をしていた。
ちなみに彼が言ったのは『花を踏まないように気をつけろ』って意味で、決して『昆虫に倒されないように気をつけろ』ってことではない。
あのバカはそのことすら理解していないようだ。
「てゆうか昆虫に圧倒される人類ってのを逆に見てみたいよ…。」
はぁ…と一つため息を吐くと、僕は呼んでいた本を脇において立ち上がった。
唯月をこのまま野放しにするわけにはいかないだろう。
まあ別に放って置いてもいいんだけど、それだと源三さん(庭師暦三十年のベテラン)があまりにも不憫だ。
それに僕としても花壇を踏み荒らされるのは見たくないし…。
青々とした芝生を踏みしめながら、花壇の周りで縦横無尽に飛び回る唯月の方へと歩み寄る。
「唯月、その辺でやめ――」
一言注意してやろうと口を開いたその瞬間…
「あっ!?」
油断しきっていた唯月が花壇の縁石に足を取られ、つんのめるように体勢を崩した。
「とっ、おっ、のわあっ!!」
唯月はどうにかバランスを取ってその場に踏み止まろうとする。だが重力には逆らいきれなかったらしく無常にも唯月の体はぐらりと傾いた。
顔面から前のめりに花壇へと突っ込んでいく我が兄。このままいけば盛大に花壇を転がることになるだろう。
だけど相手は運動神経の塊のような男、ただですっ転ぶはずがない。
「…うおらああぁ!!」
気合の入った掛け声と共に、唯月は思いっきり地面を蹴る。明らかに無理な体勢なのに、それを感じさせぬ勢いで高々と飛び上がっていく。
空中で体勢を立て直し、そのまま二回転半回った後、十分な余力を残した状態で見事に着地して見せた。
「…ふっ、軽いぜ。」
髪を掻き揚げた唯月は、なぜかカッコつけながら僕のほうを振り返る。それはもう自信満々の表情で。
確かに今のは凄かった、強靭な脚力と並外れたバランス感覚がなければ絶対になし得ない芸当だ。そこは素直に関心するし、この場で称賛してあげたいぐらいだ。
…唯月の着地したその場所が、花壇のど真ん中でなければの話だけど。
「あ…あっ…ああっ…ワシが丹精こめて育て上げた花が…。」
無常にもグチャグチャに踏み潰された花を見て、庭師の源三さん(彼女いない暦=年齢)が膝から崩れ落ちた。
ガックリとうな垂れた背中からは、隠し切れない悔しさが滲み出ている。
結婚もせず仕事一筋に生きてきた彼にとっては、花たちが自分の子供のようなものだったのだろう。
それだけの思い入れがある物を、無残に踏みにじられたのだ…憤りを覚えないはずがない…。
「うぅ…くそぉ…あの子達は大事に育ててくれた恩返しをするために、ある日突然具現化してワシの前に現れるはずだったんじゃぁ…。」
あまりに激しい怒りのせいか、源三さん(素人童貞)はものすごいことを口走った。
「…クリクリおめめのショタっ子になって。」
しかもだいぶ特殊な性癖を持っているようだ。
どうやら彼は童貞を盛大にこじらせてしまったせいで、とんでもない変態ジジイになってしまったらしい。
軽く身の危険を感じたので、少しだけ距離を開けておくことにした。
「お~い!! 今の見てたか~!! 俺様すげえだろ~!!」
摺り足で源三さんから距離を取っていると、唯月が思いっきり花壇を踏み荒らしながら僕らのほうに駆け寄ってきた。
無邪気な笑顔とは対象的に、その足はわざとなんじゃないかと思えるほど的確に花を踏み潰していく。
「あっ、ああっ!! わしのアガシュたんがっ!! ペチュニアたんがああぁ!!」
唯月が一歩踏み出すたびに、源三さんは奇声を発しながら身を捩る。
「あっ、網置きっぱなしで来ちまった。」
そんな源三さんを知ってか知らずか、唯月は豪快なスライディングで方向転換をかまし、新たな犠牲を増やしながら花壇中央へ戻っていった。
「んああああぁああぁぁぁーーーー!!」
致命傷を受けた源三さんはこの世の物とは思えない奇声を発しながらその場に倒れ込んだ。
仰向けの状態で地面に倒れ伏した彼は小刻みに震える手で天を仰ぎ、照り付ける陽光に目を細める。
「うっ…くっ…人間五十年…下天のうちに比ぶれば…夢幻の…むげ……ガッハア!!」
最後の力を振り絞り時世の句を残そうしていたが、途中で失敗していた。とゆうかただ単にそこから先が思い出せなかっただけか。
「南無…。」
とりあえずこのまま祟られてもなんなので、軽く手だけは合わせておいた。
「おう、お待たせ…ってどうしたんだこれ。」
虫取り網片手に戻ってきた唯月が、すでに物言わぬ骸と化した源三さんを指差しながら不思議そうな表情を浮かべる。
「ああ、うん、なんか陽に当たり過ぎたみたい。」
「ふーん、そうか。」
僕が適当に言葉を濁すと唯月は、興味なさげに頭を掻きながらそう言った。
本当のことを教えてもよかったのだが、源三さんの名誉のためにも黙っておいた方がいいだろう。
それにしても…
「どうすんのこれ…。」
最早見る影をないほどグチャグチャになってしまった花壇を見ながらため息を吐く。花は無残に踏み倒され、その上に跳ね上がった土が点々続いている。素人の僕が見てもすぐに元には戻らないだろうことは一目でわかるほど酷い有様だ。
「はぁ?お前なに言って…」
僕の視線を追って花壇を見た唯月の動きがピタリと止まった。
「………………。」
自分の背後にある花壇と目の前にいる僕の顔を交互に見た後、唯月は自分の足元を見る。
そこにあるのは返り血ならぬ返り土でべっとりと汚れた自分の足。
「もしかして俺のせい?」
「もしかしなくても唯月のせいだよ。」
ポカンとした顔でそう尋ねてきた唯月に、僕は半ば呆れながらそう答えた。
僕が頷いたのを見た唯月の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。それはもう極寒の地に突然放り込まれたかのような青ざめ方だ。
「ヤベェ…やっちまった…。」
カタカタと小刻みに震えながら、唯月は萎れてしまった花を必死で元に戻そうと試みる。だが一度手折られてしまった花が簡単に元通りになるはずがなく、すぐに力なく倒れてしまう。それでも唯月は諦めることなく、何度も何度も同じことを繰り返していた。
それは自分が摘み取ってしまった命を目の当たりにし、罪の意識に苛まれての行動…とゆう訳ではない。
普段の唯月であれば、花壇を踏み荒らした程度でうろたえるようなことはないし、寧ろ毛ほども気に掛けたりはしないだろう。双子の弟である僕だから断言できる、唯月はそんな繊細な心を持ち合わせた男ではない。
『じゃあなぜこうも必死になって花壇を元に戻そうとしているのか。』
それはある人物にこの事が発覚することを恐れているからだ。唯月が自ら【この世で最強にして最大の天敵】と称するある人物に。