第十三話 小さな違和感
「どうやら完全に怒らせてしまったようですね。」
和葉さんの背中を見送りながら可憐さんがいつもと変わらない調子でそう口にした。やれやれといった様子でゆっくりと立ち上がり、僕の方を見る。
「一応のフォローはしておきますが、あとでもう一度謝りに行った方がいいと思いますよ。 今回のことは全面的に紗月様のミスによるものですし。」
「う、うん…そうだね…」
「まあ、言いたいことは和葉様が全て言っていたので私からは特にありませんが…強いて言うなら着替えるときは部屋の鍵をかけるよう心掛けてください。」
「わかった…今度から気をつける…。」
僕の返事に満足したのか、可憐さんは少しだけ笑顔を向けてくれた。素直に非を認める相手に対して彼女は寛大だ。
「私は和葉様の荷物整理の手伝いに戻ります。咲夜、お願いしますね。」
「はい、任せてください。」
可憐さんは後のことを来宮先輩に託すと、ソファーに座ったままの唯月の襟首を片手でワシッと掴んだ。
「…お前、なにしてんの?」
「それではまた後でお会いましょう。」
「無視かよ!!」
僕と来宮先輩に小さく会釈をすると、可憐さんはさっきと同じように唯月を引きずりながら部屋を後にした。
「…………。」
和葉さんに続いて可憐さんたちも出て行ったことで、必然的に部屋の中は僕と来宮先輩の二人だけになってしまった。
さっき知り合ったばかりの二人の間では特に会話とゆう会話もなく、気まずい沈黙が流れる。ここで小粋なジョークの一つでもカマせば場の空気も少しはまぎれるかもしれないが、生憎とそんな英国紳士的スキルは持ち合わせちゃいない。僕のコミュニケーション能力は常人の半分以下もないからだ。
別に人と話すのが嫌いとゆうわけではない、ある程度親しい人間とは普通に話すし、意思疎通もちゃんとできる。ただ見知らぬ人間と話すのがちょっとばかし苦手なだけだ。
だからってこのまま黙まったままってわけにもいかないし…なにか喋らないと…。
「紗月様。」
何か話題はないかと必死で頭を巡らせていると、来宮先輩の方から先に話しかけてきた。
「えっ、あ、はい、なんですか?」
急に声を掛けられたせいで僕の声は変に上擦ってしまったが、彼女はそれを気にする様子もなく僕の方を見る。
「私はご当主様より、紗月様の学園でのサポート役を仰せ付かっております。何かご不便な事などございましたら遠慮なく仰ってください。」
来宮先輩は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべたまま、僕に向かってそう言った。慇懃な口調ではあるが、そこに堅苦しさなどは一切感じられず、逆に彼女に対して気安ささえ覚える。
例えるなら『綺麗で優しい親戚のお姉さん』って感じだ。いや、まあ、親戚であることは間違いないのだけども。
とにかく来宮先輩がこちらの味方であることはわかった、だとしたら彼女とは友好的な関係を築くべきだろう。
そう思った僕は来宮先輩の方へ向き直り、彼女に向かって右手を差し出しした。
「その…これから色々と迷惑を掛けてしまうことがあるかもしれませんが…今後ともよろしくお願いします…。」
握手を求めるために差し出した僕の手を来宮先輩はキョトンとした表情で見つめる。その顔から察するに僕の唐突な行動は彼女の予想外のものだったらしい。
あぁー…初っ端から外しちゃったよ…握手はやり過ぎだったかな…。
僕の中で握手は割と普通な『挨拶』のつもりだったのだが、どうやら彼女は違うようだ。ときどき和葉さんから『あんたはズレてる』と注意されることがあるのだが、今まさにそれが出てしまった。
「ハ…アハハ…。」
こうゆうのは自覚すると途端に恥ずかしくなってくる。苦し紛れに笑おうとしたのだが、喉から乾いた音が出るだけだった。
「な、なんかすいません…。」
なんとなく謝りながら、行き場を失った右手を引っ込めようとする。
「………っ。」
その瞬間、黙ったまま見ていた来宮先輩が焦ったように腕を伸ばして、引っ込めようとした僕の手を取った。彼女は両手で握り締めるように僕の手を取ると、そのまま自分の胸元へ強引に引き寄せる。
「うわっ!?」
唐突に強い力で引っ張られたせいで思いっきり体勢を崩してしまい、勢い余って来宮先輩に体ごとぶつかってしまう。
何とか踏ん張って倒れることは回避したが、無理をしたせいで来宮先輩の体を抱きとめるような形になってしまった。
「…………。」
突然のことで完全に思考が停止する、何が起きたのかさえ把握できずにただ固まるしかない。
眼前には来宮先輩の顔があった。その顔は間近で見ても文句のつけようがないほど整っていて、見ているだけでため息が出てしまいそうだ。抱きとめたことで初めて気付いたが、彼女の体は驚くほど軽かった。かといって痩せぎすで骨ばっているなどとゆうことはなく、女性特有の柔らかさがある。出るとこもちゃんと出てるようだし、彼女は着痩せするタイプなんじゃ…
「……ハッ!?」
いかん、意識がぶっ飛んでたせいでヤバイ方向に頭が行っていた。今のは完全にアウトだ、もし人に知られたら変態扱いされるレベルだろう。
「ご、ごめんなさい!!すぐ離れます!!」
慌てて身を引き、体を離そうとした…が、彼女が手を握ったまま離そうとせず思うように距離が取れない。
「…どうしました?」
「……………。」
僕が呼びかけても返事はなく、目を伏せてじっとしているだけだ。
もしかして…怒らせたのかな…?
「あ、あの~…。」
恐る恐る二度目の問いかけをしたところで、来宮先輩が不意に顔を上げた。
「えっ…。」
彼女と目が合った瞬間、ゾクリと背中に冷たいものが走る。彼女の瞳が異様なほどの熱を帯びてこちらを見ていたからだ。
形容しがたい色を浮かべた彼女の眼は真っ直ぐに僕を捕らえていて、それ以外のものは一切映っていなかった。ひたすらに暗く、底の見えない奈落を見ているような不安感に襲われ、僕は眼を逸らすこともできず、ただ見つめ返すしかない。
「…っ…はぁ…。」
呼吸を乱した彼女は頬を紅潮させ、僕の手を握り潰しそうな勢いで腕に力を込める。それはまるで自分の中に僕の一部を取り込もうとしている様にさえ見える。
ギリギリと締め付けられる手に彼女の爪が食い込んで、鋭い痛みが走った。
「いつっ…!!」
「……っ!?」
あまりの痛みに顔を歪めた僕を見て、彼女は驚いたように手を離す。その隙に僕は慌てて腕を引き、すばやく後ろに距離を取った。
「っつ~~~~…。」
右手がジンジンと疼くように痛む。見てみるとそこにはくっきりと彼女の爪痕が残っていた。
ビ、ビビッた…何だったんだ…今の…。
どう見ても彼女の様子は普通じゃなかった。異様に鬼気迫った表情をしてたし、力の入れ方も尋常じゃなかった…。
何か彼女の気に障るよう様なことをしてしまったのだろうか…それとも、やっぱり裸を見せてしまったことをまだ怒ってるとか…。
ダメだ…心当たりがあり過ぎてどれが原因なのかわからない…。
とりあえず来宮先輩の様子を窺おうと、一旦視線を上げる。その瞬間、僕の方を見ていた彼女とバッチリ目が合ってしまった。
来宮先輩は一瞬だけ戸惑ったような顔を見せたが、すぐに表情を戻してこちらに歩み寄った。
「紗月様…お怪我はありませんか…?」
少し不安そうな様子でそう訊ねた来宮先輩に、僕は慌てて手を振ってみせる。
「だ、大丈夫です、少し痕が残ってますけど怪我とかはないです、ほんとに。」
オーバーアクション気味に大丈夫なことをアピールする僕を見て、彼女はホッとしたように表情を緩める。その顔には先ほどのような異様さは微塵もなく、逆に僕を気遣っているような様子さえ感じられた。
「よかった…。」
呟くようにそう言った来宮先輩は居住まいを正すと一歩後ろに下がる。そのまま僕に対してまっすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません…私のような下賎の者が、九条家の跡目たる紗月様に怪我を負わせるなどあってはならぬこと…どうか平にお許しください…。」
「はっ…? ええっ!?」
深々と頭を下げる来宮先輩を見て思わず焦ってしまった。まさか彼女がこんな行動に出るとは思ってもいなかったからだ。
「あ、あの!!僕は大丈夫ですから!!ほら、怪我もないですし!!」
「いえ…たとえお怪我がなかったとしても、私がした行為はとても許されるものではありません…お望みであればこの命を差し出してでもお詫びを…。」
「えっ、ちょっ、極端!?」
自分の命を差し出す勢いで謝意を示そうとする来宮先輩は僕の言うことなどまったく聞いてくれない。むしろこのままだとその場で切腹でも始めそうなほどだ。
自分の部屋で人に死なれては適わない、とにかくどうにかして先輩を止めなければ…
「先輩が謝る必要はないです!! むしろ悪いのは僕です!!お願いですから頭を上げてください!!」
「それでは…私をお許し頂けますか…?」
「許す!!許します!!てゆうかもう逆に許してください!!」
「そうですか…。」
半泣き状態で僕がそう言うと彼女はあっさりと頭を上げた。さっきとは打って変り、清清しいほどの笑顔を浮かべて僕の方を見る。
「寛大なるご配慮に感謝致します、紗月様。」
「へっ…?」
あれ…?どゆこと…?
意外なほど簡単に引き下がった彼女を、僕はただポカンと口を開けて見る。
「それでは私も一度自分の部屋に戻らせていただきますね、後ほどまたお伺いさせて頂きます。」
アホみたいに呆けている僕に対して来宮先輩は間髪いれずにそう言うと、止める間もなく部屋を出て行った。
「…………ハッ!!」
彼女が部屋を出て行った後、ようやく我に返った僕はそこで始めて自分がまた嵌められた事に気が付いいた。
や、やられた…。
まさか彼女にまでいい様にあしらわれてしまうとは思いもよらなかった。これではまるで僕が馬鹿みたいだ…。
結局さっきのが一体なんだったのか聞けず仕舞いになってしまったけど…まあいいか…なんだか触れちゃいけないことのような気がするし…。
それにしても…
「女って怖いな…。」
改めてそう思った僕は、その場で倒れこんで盛大にため息を吐くのだった。




